第40話 追跡
南の深部へ足を踏み入れた途端、風景は一変した。
昼間、僕たちが水晶樹を目指したルートよりもさらに魔素が濃く、植物はどす黒く変色してうごめいている。
「……あった、馬車だ!」
街道を外れた深い藪の中に、強引に突っ込まれた形の馬車が乗り捨てられていた。車輪の一つは泥に深く沈み、引きちぎられた馬の具足が無残に垂れ下がっている。
「ここで馬を捨てて、徒歩に切り替えたんだな」
エルが馬車の周囲を慎重に調べる。僕は車内へ飛び込み、中の様子を確かめた。
「エル、見て……レオ様が飲んでいたものかな。まだ温かいミルクの瓶が転がってる。ついさっきまで、ここにいたんだ」
ひっくり返った座席、散乱した着替えの束。そして、窓枠にはストロベリーブロンドの細い髪が数本、引っかかっていた。
「……足跡は南だ。大人四人、それから一人を交互に抱えて歩いている跡がある。かなり焦ってるな、足跡が乱れてる」
エルが地面の泥を指さす。そこには、王都の整えられた道では考えられないほど深く、必死に踏みしめられた泥の跡が点々と続いていた。
「この先は、さっき聞いた『野営禁止区域』……アッサママの本当の地獄だ。急ごう、エル。子供の体力じゃ、この魔素濃度の中を連れ回されたら命に関わる!」
「ああ、分かってら。……行くぞ、エバー! 足跡を外すなよ!」
乗り捨てられた馬車を残し、僕たちはレオ様を抱えて森の深部へと消えた犯人たちの影を追って、暗い密林へと飛び込んだ。
「……いた。エバー、見ろ」
エルが指し示したぬかるみには、急いだ様子の複数の足跡と、それから——。
「……子供の靴だ。片方脱げてる」
僕は泥に半分埋まった小さな靴を拾い上げた。一歳半の子供が、こんな毒々しい胞子が舞う森の中を連れ回されている。胸の奥が焼けるように熱くなった。
「足跡はまだ新しい。一時間……いや、三十分も離れてないぞ!」
「『索敵展開』! ……エル、真っ直ぐ南だ。複数の生体反応……それに、魔虫が集まってきてる!」
レオ様を連れた五人組は、最短ルートを選んだつもりなのだろうが、そこは皮肉にもアッサママで最も凶悪な魔虫の巣窟だった。
僕たちは木々を飛び越え、泥を跳ね飛ばしながら突き進む。背後から迫る僕たちの気配に気づいたのか、犯人グループもなりふり構わず魔術を放って藪を切り拓いているようだった。
「……見えた! あの服、王都の侍女のものだ!」
立ち込める霧の向こう、必死に赤ん坊を抱えて走る女の背中が見えた。その周囲を、剣を抜いた男たちが囲んでいる。だが、彼らの前方を塞ぐように、巨大な羽音を立てて『クリスタル・ニードル』の群れが降下を始めていた。
「させるかッ! 『重力障壁』!!」
僕は走りながら両手を突き出し、犯人グループと魔虫の群れの間に無理やり重力の壁を叩き込んだ。
「何だっ!? 伏せろ!」
「誰だ、追手か!?」
偽名のヘラルドとフェベと思われる男たちが、驚愕して振り返る。その中心で、怯えて泣きじゃくるレオ様を抱いた侍女が、腰を抜かして座り込んでいた。
「そこまでだ、ダッファーデンの間者ども! その子を離せ!」
エルの怒声が、静まり返った森の深部に響き渡った。
霧の向こう、必死に赤ん坊を抱えて走る女と、それを守るように剣を構える男たちの姿を捉える。
だが、僕たちが追いつくよりも早く、頭上の梢から「それ」が舞い降りた。
「ギチギチギチッ!!」
不快な摩擦音とともに現れたのは、巨大な『クリスタル・マンティス』の群れだ。高濃度魔素に惹かれたのか、あるいはレオ様の放つ純粋な魔力に引き寄せられたのか。透明な刃が、無防備な女の背中に振り下ろされる。
「させるか! 『重力偏転』!」
僕は走りながら魔法を行使する。侍女の周囲の重力を強引に捻じ曲げるとマンティスの鎌が虚空を切り、地面を深く抉る。
「な、なんだ!? 追手か!」
「構うな、斬り伏せろ!」
偽名のヘラルドとフェベと思われる男たちが、僕たちと魔虫の両方に剣を向ける。まさに地獄の三つ巴だ。
「そこを退けッ!!」
エルが地を蹴り、マンティスの一匹を真っ向から大剣で叩き伏せる。男たちが放った牽制の魔術を、エルは身体操作で最小限の動きで回避し、そのまま犯人グループのど真ん中に突っ込んだ。
「ひ、ひぃぃっ! 来ないで!」
女が悲鳴を上げ、レオ様を抱きしめて蹲る。そのレオ様のすぐ背後から、別のマンティスが音もなく忍び寄っていた。
「レオ様ッ!!」
僕は自らの防御を捨て、全魔力をレオ様の周囲の『多重積層結界』に注ぎ込んだ。
キンッ!!
透明な刃が結界を叩く。その衝撃が僕の脳を直接殴ったような痛みを走らせるが、結界は破らせない。
「エル、今だ! 侍女ごとレオ様を回収して!」
「応よッ!」
エルが大剣を旋回させ、周囲のマンティスと男たちをまとめて弾き飛ばす。その隙に、恐怖で硬直している女の腕から、泣き叫ぶレオ様を強引に、だが壊れ物を扱うような優しさで抱き上げた。
「……確保したぜ、エバー!」
エルの腕の中に、ストロベリーブロンドの小さな頭が見えた。ペールグリーンの瞳が涙で濡れている。
「レオ様を返せ! それは我々の『商品』だ!」
逆上した男たちが魔法を放とうとするが、その背後からはさらに多くの魔虫が、獲物を奪われた怒りで集まってきていた。
「あぁ!? 『商品』だと!? ……ふざけてんのかてめぇら!!」
脳内のどこかで、何かが決定的にブチ切れる音がした。
これまで冷静に魔力を制御していた僕の指先から、どす黒いほどの重力波が溢れ出す。辺境の過酷な環境で、必死に命を繋いで生きてきた僕たちにとって、子供を「商品」呼ばわりするその腐りきった感性は、魔虫以上に許しがたい害悪だった。
「商品、商品って……。この子がどれだけ怖がってるか、一ミリも考えてないだろ……ッ!」
「な、なんだ!? 魔圧が急激に……」
男たちがたじろぐ。だが、もう遅い。
「跪け。――『事象地平』!!」
僕が両手を左右に振り下ろした瞬間、犯人グループが立っていた地面の重力が数倍、数十倍へと跳ね上がった。
ドォォォォォンッ!!
「ぐあぁっ!?」
「な、身体が……動か、な……ッ!」
ヘラルドも、フェベも、女も、目に見えない巨大な鉄槌に押し潰されたように、泥の中にのめり込んだ。骨が軋む音が聞こえるほどの超重力。男たちが握っていた剣が、自重でひしゃげていく。
「……いいか。僕の故郷じゃ、子供を攫う奴は、魔獣より先に駆除対象なんだよ」
冷徹な声が自分でも驚くほど低く響く。殺気立った僕の周囲では、近づこうとした『クリスタル・マンティス』さえも重力に捕まり、地面にへばりついてピチピチと悶えていた。
「……エバー、それくらいにしとけ。こいつらは生かして捕まえて、ルヴィア様に突き出す」
背後から、レオ様をしっかりと抱いたエルの静かな声がした。
その声で、ようやく僕の視界を覆っていた熱が少しだけ引いた。
「……分かってる。でも、もう二度とこの子に触れさせない」
僕は重力を固定したまま、犯人たちを雁字搦めにする準備を始めた。
無事にレオくんを取り戻した僕たちは、すぐさま懐のトークボードを起動した。けれど、返ってきたのは「ザザッ……」という激しいノイズだけだ。この辺りは魔素が濃すぎて、通信が完全に遮断されている。
「……チッ、繋がらねぇか。エバー、とにかくここを離れるぞ」
僕は頷き、まずは犯人たちの処理にかかった。こいつらをまともに歩かせるつもりなんて毛頭ない。
「逃げられないようにしてあげるよ」
僕は重力魔法で地面を泥のようにこね、犯人たちの首から下を土の中に埋め込んだ。さらにそこへ圧縮魔法を叩き込み、周囲の土を岩のようにカチカチに固める。身動き一つ取れなくなった五人の「岩塊」を、僕は魔法の鎖で繋ぎ、地面を引き摺るようにして森を駆け抜けた。
エルの腕の中では、極限の緊張から解放されたのか、レオくんが小さな寝息を立てて眠っている。その寝顔が、僕の荒んでいた心に少しだけ安らぎをくれた。
アッサママの領都へ戻り、ようやく回復したトークボードでルヴィア様へ連絡を入れる。
『……エバー!エル!無事か!?』
「はい。レオ様を保護しました。犯人五人も確保済みです。今からアッサママ辺境伯へ身柄を引き渡します」
報告を終えた僕たちは、そのままアッサママ辺境伯の屋敷へと向かった。
事情を聞いた辺境伯は驚愕し、即座に領兵を動かして犯人たちを地下牢へとぶち込んだ。
「本当によくやってくれた。王太子殿下も、ルヴィア殿下も、君たちの功績を忘れないだろう」
辺境伯の言葉に、僕はようやく肩の荷が降りるのを感じた。強行軍の疲れがどっと押し寄せ、僕とエルもそのまま辺境伯家でお世話になることになったのだけれど……。
「……おい、エバー。どうすりゃいいんだ、これ」
客室のベッドの上で、エルが困り果てた顔で固まっていた。
レオくんが、眠ったままエルの服の袖をぎゅっと掴んで離さないのだ。引き剥がそうとすると、「うぅ……」と泣き出しそうな顔でさらに強く握りしめる。
「エルのことが、よっぽど頼もしかったんだね。今日はそのまま、レオくんの『護衛』をしてあげてよ」
「……たく、戦いより疲れるぜ」
そう言いながらも、エルはレオくんを起こさないように、そっとその小さな頭を撫でていた。
一歳半の小さな命を守り抜いた、アッサママの長い一日が終わろうとしていた。
翌朝、アッサママ辺境伯の屋敷には、昨日までの静寂が嘘のような緊張感が走っていた。王都から魔導馬車を飛ばし、王太子エドワード殿下とルヴィア様が到着したのだ。
広間に姿を現した王太子殿下は、レオくんに駆け寄りエルから受け取るとぎゅっと抱きしめた。
「レオ・・・よかった、本当に・・・」
そして僕たちの前に来ると、深く頭を下げた。
「エバー、エル。君たち二人には、なんとお礼を言ったらいいのか分からない。……本当に、レオを、私の息子を助けてくれてありがとう。君たちがいてくれなければと思うと、今でも血の気が引く思いだ」
「ひ、ひえぇっ!? 殿下、頭を上げてください!」
僕たちはあわてて手を左右に振った。
「た、たまたま僕たちがアッサママにいただけですから!偶然です!」
「そうです! ルヴィア様の連絡が早かったから間に合っただけで……僕らはただ、走っただけっすよ!」
まるで悪いことでもしたかのようにあたふたする僕たちの様子を見て、隣にいたルヴィア様がいつもの柔和な笑顔を浮かべた。
「ははは、相変わらずだね、二人は。……でも兄上、彼らのその『たまたま』が、どれほど凄まじい実戦能力に裏打ちされているか、報告を聞けば驚かれますよ」
その後、アッサママ辺境伯も同席する中で、僕たちは事の顛末を報告した。
転移塔での聞き込みから、偽名の五人家族の特定。乗り捨てられた馬車の痕跡から、魔虫の巣窟である深部への追跡。そして、ダッファーデンの間者たちを重力魔法で土に埋め、無力化したこと――。
「……なるほど。アッサママの深部を通り、海岸線からダッファーデンの快速船に合流する計画だったか。確かにそこは、我々の警備の死角だった」
辺境伯が険しい顔で頷く。王太子殿下は僕たちが語る生々しい追跡劇に何度も頷き、最後には自分の腕の中でまだ眠っているレオくんを、愛おしそうに見つめた。
「君たちの機転と、その並外れた行動力が、この子の、そしてこの国の未来を救った。この恩は、一生忘れない。改めて礼を言うよ」
殿下の真摯な言葉に、僕はようやく胸のつかえが取れるのを感じた。
だが、王太子殿下とルヴィア様の瞳の奥には、事件解決の喜びだけでなく、ダッファーデンの強引なやり口に対する冷徹な怒りが静かに灯っている気がした。




