第39話 厄介事は畳み掛けてくる
「……よし、回収完了!」
僕はエルから受け取った水晶樹の枝を空間収納へ滑り込ませた。収納の門を閉じたコンマ一秒後、僕とエルは顔を見合わせるまでもなく、同時に地を蹴った。
「逃げるぞ、エバー! 次の集団が地面から沸いてくる前にだ!」
「言われなくても! ――『身体強化』!!」
後ろを振り返る余裕なんて一瞬もない。背後からは、仲間を殺され宝を奪われた水晶百足たちの、怒りに満ちた金属的な咆哮が何重にも重なって響いてくる。
あんなに沢山生えてる水晶樹のうちの1本から枝をたった一本折られただけで、森全体の地面が波打つように震え始めた。
「ひいいっ! 来てる、絶対追ってきてる!」
僕は重力魔法で自分の体を軽くし、文字通り風のように木々の間を縫った。
エルもまた、大剣を担ぎながらも野獣のような身のこなしで、障害物を次々と飛び越えていく。足元のぬかるみも、道を塞ぐ蔦も、今の僕たちの必死さの前では障害にすらならなかった。
まさに「脱兎のごとく」という言葉が相応しい、見事なまでの逃走劇だった。
どれくらい走り続けただろうか。肺が焼けるような熱さを帯び、背後のカサカサという不快な音が完全に聞こえなくなった頃、僕たちはようやく足を止めた。
「……ハァ、ハァ、ハァ……。ここまで、来れば……あいつらの、テリトリー外……だろ」
エルが膝に手をつき、荒い息を吐きながら後ろを振り返る。
「……みたい、だね。……ハァ、死ぬかと思った。アッサママの虫、二度と見たくない……」
僕はその場にへたり込み、泥だらけの顔で乾いた笑いを漏らした。
恐ろしかった。けれど、空間収納の中には確かに、「水晶樹の枝」が入っている。
「……でも、やったよエル。これで試作機が作れる」
「……ああ。最高にハードな運動だったけどな」
夕暮れのアッサママの空を見上げながら、僕たちは泥にまみれた手で、力強く拳を合わせた。
泥と返り血、それに魔虫の体液でボロボロになりながら、僕たちは命からがらアッサママの領都へと辿り着いた。
「……ハァ、やっと街だ。エバー、まずは風呂だぞ。俺、自分が虫の餌になったような匂いがして耐えられねぇ」
エルが鼻をつまんで顔をしかめたその時、僕の懐で「ジ……ジジ……」と震える音が響いた。ヴィクター先輩と作り上げたばかりの試作機、トークボードだ。
「……こんな時に? 先輩かな」
僕がボードを起動させると、中から聞こえてきたのは先輩の熱狂的な声ではなく、凍りつくような、それでいてひどく焦燥したルヴィア様の声だった。
『……エバーか!? 繋がったか! 今、どこにいる!?』
「ルヴィア様!? 僕たち、今はアッサママの領都にいますが……」
『アッサママなんだな!? 本当に間違いないな!?』
いつもの余裕に満ちたルヴィア様からは想像もできない、喉を掻き切るような念押し。僕は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「はい、間違いありません。何か……何かあったんですか?」
『……兄上の、エドワード王太子の子供が攫われた。犯人グループは転移塔の職員を殺害、転移陣を修復不能なまでに破壊して、アッサママ行きの陣へ逃げ込んだ。追手はすぐには送れない……今、アッサママで動ける身内は君たちだけなんだ!』
「何だって……っ」
エルの表情が一瞬で「戦闘モード」のそれに切り替わる。僕の脳裏には、王家の相関図が浮かんだ。エドワード王太子の子供はまだ1人だけだ……まだ幼かったはず。
「犯人の詳細は分かりますか!?」
『分かっているのは二人だ。子供の世話係をしていた侍女と、警護に当たっていた男。内部の裏切りだ。攫われたのは一歳半の男の子、名はレオ。特徴はストロベリーブロンドの髪に、ペールグリーンの瞳……。頼む、エバー、エル。何でもいい、そちらで情報収集にあたってくれないか! 犯人たちはまだ街の中に潜伏しているか、あるいは……』
「……分かりました。すぐ動きます。レオ様ですね、必ず見つけます」
トークボードを切ると、僕はエルを見た。疲労なんて一瞬で吹き飛んだ。
「エル、聞こえたね」
「ああ。一歳半のガキをそんな連中に預けておけるかよ。……アッサママの冒険者ギルドと衛兵所に、その『特徴』を知らせてくる。エバー、お前は転移塔の検問記録を洗え!」
「待てエル、このままじゃ話を聞いてもらえない!」
僕は駆け出そうとするエルと自分自身に、即座に『洗浄』の魔法を叩きつけた。こびりついた魔虫の体液や泥を一気に剥ぎ取る。身なりが浮浪者同然では、衛兵もギルドもまともに取り合ってくれないからだ。
「助かる! 先に行くぞ!」
エルがギルドへと走り去るのを見送り、僕は転移塔へと向かった。
塔の入り口では、王都への陣が不通になったことで足止めを食らった旅人や商人たちが、職員に怒号を浴びせている。
僕は野次馬をかき分け、顔面蒼白で対応に追われている職員の一人を強引に捕まえた。
「学園の緊急任務だ、通してくれ! ……三十分から一時間ほど前、王都側から最後にこちらへ転移してきた者たちの記録を見せてほしい。非常に重要な容疑者が混ざっている可能性があるんだ」
僕の気迫と「学園」の名に押されたのか、職員は震える手で分厚い入域台帳を捲った。
「さ、最後に来た方々ですね……。ええと、あぁ、この一行です。家族連れでしたよ。小さな子を抱えた夫婦に、そのお兄さんとお父さんの五人連れです。不自然な様子は……いや、少し急いでいたようでしたが」
「名前は?」
「夫婦がリストンとアーネット、子供がリオくん。夫婦の兄がヘラルド、父親がフェベ……となっています」
「五人……? 侍女と警護の二名じゃないのか?」
嫌な予感がした。ルヴィア様が言っていた「二名」という情報と食い違う。だが、ストロベリーブロンドの髪を持つ一歳半の子を抱えた一行なんて、そう何組もいるはずがない。偽装工作として人数を増やしたのか、あるいは協力者が他にもいるのか。
僕はすぐさま懐のトークボードを起動した。
「ルヴィア様、聞こえますか! エバーです。転移塔で記録を洗いました。犯人グループと思われる一行は『五人家族』に偽装して入域しています。偽名はリストン、アーネット、ヘラルド、フェベ。子供の名は『リオ』と記載されています。……心当たりはありますか!?」
トークボードの向こう側で、ルヴィア様が短く息を呑む音が聞こえた。
『情報ありがとう、エバー。……繋がったよ。警護に当たっていたあの男、実はダッファーデンの商会と裏で深く繋がっていた形跡が見つかったんだ。現在、その商会の会頭と息子の行方が分からなくなっている。……おそらく、偽名のヘラルドとフェベはその二人だ。共犯者が合流していたんだな』
「分かりました。僕たちはこのまま『五人組』の足取りを追います。また何か分かったら連絡します!」
通信を切ると、僕はアッサママの湿り気を帯びた風の中で立ち尽くした。
「……ダッファーデン絡み、か」
喉の奥に苦い味が広がった。先日の布告で国境封鎖が決まったばかりの、あの隣国。
だが、疑問が一つ残る。
「……でも、なんでアッサママなんだ?」
ダッファーデンへ逃げるのなら、唯一の陸路である東のキノババを目指すのが筋だ。ここは王国の南端。アルバス連峰に阻まれ、船を出そうにも険しい海が広がっている。
彼らはなぜ、袋小路とも言えるこの場所に、王太子の息子を連れて逃げ込んだのか。
「……まさか、海から逃げるつもりか? それとも、このジャングルのどこかに……」
考えれば考えるほど、きな臭い予感が膨らんでいく。一歳半の子供を連れて、あんな魔虫だらけの森へ入るつもりなら正気じゃない。
僕はエルのいる冒険者ギルドへ向けて、再び駆け出した。
冒険者ギルドへ飛び込むと、掲示板の前で職員を問い詰めていたエルが僕に気づいて片手を挙げた。
「エバー、こっちだ! 目撃者がいたぞ」
エルが示したのは、アッサママの外縁部を縄張りにしているベテランの運び屋だった。
「ああ、その五人連れなら見たぜ。転移塔から出てすぐ、裏通りの馬車貸しに駆け込んでた。行き先は……信じられねぇが、南の『野営禁止区域』だ」
「野営禁止区域?」
僕の問いに、運び屋は苦い顔で頷いた。
「あの辺りは最近、アルバス連峰からのフィードバックが強まってて、魔虫の活性化も異常だ。一歳半の子供連れで行くような場所じゃねぇ。だが、そこの馬車貸しの親父の話だと、奴らは『森を抜けて海岸線に出る最短ルートを教えろ』と執拗に聞いていたらしい」
エルが僕の耳元で低く呟く。
「……海岸線だと? あそこは断崖絶壁で、まともな港なんて一つもねぇはずだ」
「……いや、待てよエル。まともな港はなくても、ダッファーデンの小型の魔導快速船なら、一時的に接岸できるポイントがあるかもしれない。あそこは王国騎士団の監視が最も薄い『死角』だ」
キノババを通らず、あえてアッサママの深部を抜けて海へ出る。無謀に見えるが、王太子の息子を秘密裏に連れ去るには、これ以上ない逃走経路だ。
「奴ら、馬車を捨てて徒歩に切り替えるはずだ。あの森を子供連れで進むなら、足跡は隠しきれねぇ。……エバー、追うぞ!」
「うん。レオ様が魔虫に襲われる前に、絶対に見つけなきゃ」
僕たちはギルドを飛び出し、犯人グループが向かったとされる南の深部へと続く街道を、弾かれたように駆け出した。




