第38話 水晶樹を目指して
アッサママの市街地を抜けて数時間、僕たちは文字通り「壁」のような緑の深淵に踏み込んだ。
「……っ、空気が重い。湿気と魔素が混ざり合って、まるで肺に泥を流し込まれてるみたいだ」
寒さには耐性があるが暑さと湿気は辛い。
「立ち止まるな、エバー! 呼吸を整えて魔力循環を一定に保て。さもなきゃ魔素酔いで内臓を焼かれるぞ」
エルの警告通り、アルバス山脈の麓へ近づくにつれ、環境の過酷さは指数関数的に跳ね上がった。巨大なシダ植物が日光を遮り、足元は湿地で所々に底なしの沼地。
時折、霊脈の衝突の余波で、熱帯のような蒸し暑さの中に肌を刺す極寒の風が時折混じる。
だが、一番の脅威は環境そのものではなかった。
「また来たか……! 『防壁展開』!」
僕たちの周囲を透明な結界が覆う。直後、結界の表面を「キンッ、キンッ!」と硬質な音が叩いた。
それは、羽が水晶の刃と化した無数の魔蜂――『クリスタル・ニードル』の群れだった。
「ひっきりなしだな……。アッサママの虫どもは、王都の魔獣よりよっぽど血の気が多いぜ!」
エルが大剣を一閃し、結界に張り付いた魔虫を叩き落とす。
この領の虫たちは、水晶樹の成分を摂取しているせいか、どれもが鉱石のような外殻を持ち、異常に攻撃的だ。数分おきに、あるいは数十秒おきに、羽音を立てて襲いかかってくる。
クリスタル・ニードルの猛攻を凌ぎながら進む僕たちの前に、さらなるアッサママの洗礼が待ち構えていた。
「エバー、右だ! 衝撃に備えろ!」
エルの叫びと同時に、森の奥から重戦車のような轟音が響いた。現れたのは、全身が黒水晶の装甲に包まれた巨大なカブト虫――『クリスタル・ビートル』だ。やつは自慢の角を突き出し、僕の結界目掛けて一直線に突進してくる。
「くっ……重力偏転!」
直撃の寸前、僕は結界の表面に重力の傾斜を作った。ビートルの巨体は結界を滑り、そのまま巨大な水晶樹の根元に激突して火花を散らす。だが、休む暇はない。
「今度は上かよ! ったく、歓迎されすぎだぜ!」
頭上の枝から、景色に溶け込んでいた「透明な死神」が舞い降りた。
『クリスタル・マンティス』。水晶の葉に擬態したそのカマキリは、屈折する光を利用して姿を隠し、音もなく鎌を振り下ろしてくる。
「エル、十時方向! 鎌の軌道が見えた!」
「おう! ――熱源励起!」
エルは大剣を抜き放つと同時に、周囲の魔素を強引に熱量へと変換した。陽炎がマンティスの迷彩を剥ぎ取り、灼熱の刃が水晶の鎌と激突してキンッという高い音を森に響かせる。
「蜂にカブトにカマキリ……。どいつもこいつも、魔素を吸いすぎて宝石みたいに硬てぇな!」
エルが笑いながらビートルの装甲を蹴り飛ばす。僕は結界の維持に集中しながら、魔力回路をフル稼働させて周囲の索敵を続けた。
「これだけ高品質な『素材』に囲まれてるんだ、本丸はさぞかし極上品なんだろうな!」
僕は常に結界を維持し、魔力を消費し続けながら歩を早めた。
「……ハァ、ハァ。……エル、悪いけど、そろそろ野営にしよう。魔力残量が……結界の維持で削られすぎてる」
「ああ、分かってる。この先、さらに魔素が濃くなるはずだ。無理は禁物だな」
初日の夜。僕たちは巨大な樹木の根元を魔法で整地し、幾重にも防御結界を重ねて野営した。
結界を叩く虫たちの音を聞きながらの食事は、お世辞にも落ち着けるものではなかったが。
翌日、半日ほど歩き続けた頃。
周囲の植物は完全に質感を失い、透き通ったガラス細工のような輝きが森を支配し始めた。
「……着いた。あれが、水晶樹の森……」
目の前に広がるのは、天を突くような水晶の巨木たち。
だが、その幻想的な美しさに浸る暇はなかった。
入り口で、地面から音もなく這い出してきたのは、馬ほどの太さで10mもありそうな巨大なムカデ型の魔虫――『水晶百足』だった。全身が多面体の水晶殻で覆われ、触角がアンテナのように魔素の揺らぎを捉えている。
「エバー、結界の出力を最大にしろ! こいつは今までのザコとは格が違うぞ!」
「了解! ――多重積層結界、展開!」
素材採取の最終関門討伐開始だ。
「――来るぞ! 『重力固定』!!」
僕は両手を地面にかざし、魔力を直接大地へと叩きつけた。術式が発動した瞬間、水晶百足の巨体が自重に耐えかねたように地面に沈み込む。馬ほどもある太さの胴体が、みしみしと音を立てて硬い地面を抉った。
「ナイスだエバー! 」
好機を逃さずエルが跳んだ。魔力を纏わせ、超高温に熱せられた大剣が、百足の多面体装甲に叩きつけられる。激しい火花とともに嫌な金属音が響いた。
「くっ、硬ぇ……! 剣筋が弾かれやがる!」
「エル、頭の繋ぎ目だ! 装甲が重なってる隙間を狙って!」
「分かってらぁッ!」
エルは大剣を逆手に持ち替え、百足が悶える一瞬の隙を突いて、頭部と胴体のわずかな境界に刃を突き立てた。力任せに引き抜くと、十メートルはあろうかという巨体から、水晶の頭部が鮮やかな軌跡を描いて宙を舞った。
「よし、仕留め……って、なんだよこれ!? まだ動いてやがる!」
頭を失ってもなお、百足の胴体は意思を持っているかのようにビチビチとのたうち回り、鋭い足で周囲の岩を粉砕し続けている。
「うわあああぁっ! 気持ち悪い、こっち来ないで! ……って、ひいぃぃ! エル、右からも、左からも出てきた!」
地面を割って、同じサイズの『水晶百足』が次々と這い出してきた。一匹でも手一杯なのに、四方八方が多足類のうごめく地獄絵図だ。
「ヒィーッ! 無理無理、僕、もう虫ダメになりそう……!」
「情けねぇ声出してんじゃねぇ! 泣き言言ってる間に次の魔法唱えろ! 囲まれたら終わりだぞ!」
エルの怒声に弾かれるように、僕は震える手で空中に術式を描き直した。
「わ、分かってるよ! 『広域重力圧潰』!!」
素材採取なんて優雅なものじゃない。これはもう、完全なる生存競争だ。
「――エル、高く跳んで! 逃げ場を作るよ!」
僕は地面に両手を突き、全魔力を指先に集中させた。百足どもの多足が地面を掻くカサカサという不快な音が、僕の結界のすぐ外側まで迫っている。
「任せたぜ、エバー!」
エルが僕の肩を蹴り、弾丸のような速さで真上へと跳躍した。それと同時に、僕は練り上げた魔力を一気に解放する。
「『重力反転』!!」
僕を中心に、全方位の重力が逆転した。地面を這っていた無数の水晶百足たちが、悲鳴のような金属音を立てて空中に投げ出される。
「今だ、エル! まとめて焼いて!」
「おうッ!!」
上空で身を翻したエルが、逆さまに浮き上がる百足たちの群れの真上へ。彼は空中で大剣を構え、身体操作魔法で自らの魔力を「熱量」へと極限まで変換した。大剣が白熱し、周囲の湿った大気が一瞬で爆ぜる。
「『一閃』!!」
振り下ろされた大剣から、巨大な熱の波が円環状に放たれた。重力で空中に固定され、逃げ場を失った百足たちが、エルの熱波に飲み込まれていく。
ドォォォォォンッ!!
水晶の殻が熱膨張に耐えきれず、次々と弾け飛んだ。宝石の破片のような残骸が、火花とともに雨のように降り注ぐ。
「……ハァ、ハァ……。全滅、したかな……」
重力を元に戻すと、地面には焦げ付いた水晶の欠片が無数に転がっていた。エルが着地し、熱を帯びた大剣を肩に担いで不敵に笑う。
「……ふぅ。とりあえず、周りの連中は片付いたな」
エルが大剣を鞘に納めず、警戒を解かないまま水晶樹へと歩み寄る。僕も荒い息を整えながら、目の前の幻想的な巨木を見上げた。
「今のうちに水晶樹、採取しちゃおう。また次が来たら、今度こそ僕の精神が持たない」
「よし。……行くぞ、硬てぇから気合入れろよ」
エルが再び大剣を構え、全身の魔力を腕に集約させた。鋭い踏み込みとともに放たれた一撃が、水晶樹の細い枝へと叩きつけられる。
――キンッ!!
高く澄んだ音が響き、あろうことかエルの大剣が火花を散らして弾き返された。
「……マジかよ。斬れねぇ! 手応えが完全にただの金属だぞ、これ」
「待って、エルの力でダメなら、物理的な衝撃じゃ効率が悪いんだ。……だったら、こっちでどうにかする!」
僕は足元に溜まっていた湿地の水に意識を向けた。魔導具師としての知識をフル回転させ、その場で術式を即席で組み上げる。
「水流操作、圧縮……さらに氷魔法を同期。ダイヤモンドダスト、混入!」
空中に浮かび上がった水が、超高圧で回転を始め、極細の糸のような「刃」へと形を変える。そこに氷の微粒子を混ぜ込み、物理的な削岩能力を限界まで高めた――ウォーターカッターの強化版。
「行けッ!!」
僕が腕を振り下ろすと、白銀の輝きを放つ水流の刃が、水晶樹の枝に吸い込まれるように接触した。
「ギィィィィィィンッ!!」
耳を劈くような高周波の摩擦音が森に響き渡る。どれほど硬質な素材だろうと、超高圧の水流と氷のヤスリからは逃げられない。
「……折れるぞ! エル、受け止めて!」
パキンッ、と乾いた音がして、透き通った水晶の枝がゆっくりと宙を舞った。
「――ナイスだ、エバー!」
エルが空中でそれを鮮やかにキャッチする。手に入れたのは、僕の腕ほどの太さがある、一点の曇りもない純粋な水晶の枝だ。
「……取った。これだ、これがあれば、ヴィクター先輩の理論を形にできる!」
手にした枝からは、周囲の濃密な魔素を吸い込み、内側で増幅しているような独特の拍動が伝わってきた。




