第32話 恥ずッ
研修2日目の夜。
消灯時間を過ぎた宿舎の自習室で、僕は昼間に見た「循環システム」の図解を、手帳に殴り書きしていた。
王都から流れ出す清浄な霊脈。アルバス連峰から牙を剥く高濃度魔素。そして、その衝突地点でダムの栓として踏ん張る僕たちの故郷。
それらを支えるフェリケ領の豊穣な実りと、無償の援助。
「……あっちで魔素を薄めて、こっちで圧力を逃がして。でも、もし山脈側からのフィードバックが想定を超えたら? そもそも建国の『楔』の耐久限界は……」
「おい、エバー。お前、さっきから顔が怖いぞ」
正面に座っていたエルが、呆れたように僕を指差した。
「眉間にシワが寄って、ジジーアスの凍った地面みたいになってる。せっかく昼間に美味いもん食ってあちこち駆け回ったんだから、少しは脳みそを休ませろよ」
「……あ、ごめん。……でもさ、エル。考えれば考えるほど、この国の仕組みがデカすぎて。僕たちが知っていることなんて、本当にほんの一部なんだなって……」
僕はペンを置き、背もたれに深く体重を預けて天井を見上げた。
「……まだまだ、知らないことが多すぎて、こんなんでジジーアスに帰った時にちゃんと役に立てるのかな……なんてさ。ちょっと弱気になるよ・・・」
自分でも驚くほど、素直な弱音が出た。
すると、エルが干し肉を噛み切るのをやめて、真面目な顔で僕を見た。
「お前なぁ、一人で全部背負おうとしてんじゃねぇよ。……俺たちよりもっとずっと長く生きてる大人たちが、千六百年も前から色々考えて回してんだ。そこは少しは信用しろよ」
「大人たちを……信用する?」
「ああ。忘れたのかよ。ジジーアスで俺たちをボロ雑巾みたいになるまでしごいた、領の騎士団員たちをさ」
脳裏に、吹雪の中でも平然と笑い、巨大な魔獣を力でねじ伏せていた辺境伯騎士団の面々が浮かんだ。あの強く、逞しく、底知れない大人たち。
「あの人たちが頑張って守ってる土地だぜ? 俺たちが今すぐ世界の理を全部解き明かさなくたって、そう簡単には崩れねぇよ」
エルは椅子の足をガタンと鳴らして立ち上がると、僕の肩をガシッと掴んだ。
「俺たちは、俺たちに出来ることを今は頑張ればいいんだ。お前は魔導具、俺は身体操作。明日の実習もある、まずは目の前のことを全力でやる。それでいいだろ?」
「……エル」
相棒の真っ直ぐな言葉に、胸の奥に溜まっていた重たい澱が、少しだけ軽くなった気がした。
そうだ。僕たちはまだ二年生で、学び始めたばかりなんだ。
「……そうだね。僕たちに出来ることを、一つずつやるしかないか」
「おうよ! ほら、さっさと寝るぞ。明日も朝からフレアさんに振り回されるんだからな!」
僕は手帳を閉じ、ベットに潜り込んだ。
目を閉じれば、静かに、けれど力強く大地に根付く黄金色の麦畑が瞼に浮かんだ。
早朝、まだ夜も明けきらぬうちから、僕たちクラス20名は全員で収穫作業の手伝いに駆り出された。
「よっしゃ、やるぞ!」というエルの掛け声とともに、黄金色の麦の海に飛び込む。
魔法を付与した鎌を使い、リズム良く刈り取っていく。王都の豊かな土壌で育った麦は驚くほど重みがあり、一束ごとに「命の重さ」を感じるようだった。
作業を終えた後の朝食は、自分たちが収穫したばかりの作物の香りに包まれた、最高に贅沢なものだった。
短いけれど濃密だった2泊3日の研修。僕たちは名残惜しさを感じながら、迎えの馬車に乗り込んだ。
「みんな、お疲れ様! 助かったわよ!」
見送りに来てくれたのは、赤毛を朝陽に輝かせたフレアさんだった。作業着のまま大きく手を振る彼女に、僕は馬車の窓から身を乗り出して声をかけた。
「フレアさん、ありがとうございました! ここで学んだ事忘れません」
「ふふ、いい顔になったわね、エバー君! あ、そうそう、言い忘れてたけど。学園の図書室の奥の方に、この『魔素循環』に関する古い研究論文が山ほど眠ってるはずよ。中にはブラックボックスのヒントになるような、かなりマニアックな記述もあるから。興味があるなら、探してみるといいわ!」
「論文、ですか。分かりました、必ず読んでみます!」
僕が答えると、彼女は満面の笑みで大きく手を振った。
「元気でね! また会いましょう!」
遠ざかっていくフレアさんの姿と、朝陽に照らされた広大な黄金の畑。
王都へ向かう馬車の揺れの中で、僕は手帳をぎゅっと握りしめた。
「論文か……。戻ったら、早速ヴィクター先輩を捕まえて図書室に行かなきゃ」
「……ま、付き合ってやるよ。俺もあのシステムの凄さを知っちまった以上、ただ漫然と剣を振るわけにもいかねぇしな」
エルが窓の外を眺めながら、どこか引き締まった横顔で言った。
僕たちは、自分たちが守るべき国の広さと深さを胸に刻み、再び学び舎へと続く道を走り始めた。
実地研修から学園に戻ったのは、翌朝のことだった。
途中で一晩の野営を挟んだ強行軍。(2泊3日じゃなかったのかという悲鳴が聞こえたが)
到着した日は研修の予備日で休講だったこともあり、僕とエルは寄宿舎に戻るなり泥のように眠った。
目が覚めると、窓の外はもう放課後のオレンジ色に染まっていた。
「……ふぁ、よく寝た。なぁエバー、腹減らねぇか?」
欠伸をしながら伸びをするエルを横目に、僕は気が気じゃなかった。フレアさんに教わった「魔素循環の論文」が頭から離れない。ベッドの中で微睡んでいる間も、あの円環状の灌漑システムがずっと脳裏を回っていたんだ。
「エル、僕、やっぱり図書室に行ってくる」
「おいおい、起きて早々かよ。……まぁ、そんな顔でソワソワされたら落ち着かねぇわな。付き合ってやるよ。ただし、夕飯の時間までには戻ってこいよ? 今日は王都の食堂でガッツリ肉食うって決めてんだからな」
「分かってる。ありがとう、エル」
急いで身支度を整え、保存食で小腹を満たし、僕たちは放課後の図書室へと急いだ。
重厚な扉を開け、静まり返った館内の「いつもの場所」へ向かうと、そこには既に先客がいた。
「……あぁ、おかえり。二人とも、いい顔をして帰ってきたね」
柔らかな微笑みを浮かべて本を閉じたのは、ルヴィア様だった。
「ルヴィア様! お会いできて良かったです、聞いてください!」
僕は挨拶もそこそこに、息を切らせながらフェルメール領で見てきたことを一気に捲し立てた。高濃度の魔素を溜池のように引き込み、濃度を調整して循環させる「魔導灌漑システム」。そして、その核心部分がブラックボックスとして秘匿されていること。
「フレアさんに聞いたんです。ここに、その秘密を解き明かす鍵になるような、過去の古い研究論文があるって! それを調べれば、ジジーアスの過酷な環境を改善するヒントが見つかるかもしれないんです」
一気に語り終えた僕を、ルヴィア様は優しく微笑むどころか、少しだけ目を丸くしてキョトンと見た。
「……エバー、君が探しているのは、僕の後ろにあるこの書架にあるもののことかな? もしかして、今まで気づいていなかった?」
「えっ」
視線をルヴィア様の背後に移すと、そこには色褪せた背表紙が並んでいた。タイトルを追うだけで心臓が跳ねる。『霊脈の再編と円環定数』『魔素溜まりの流体制御・全六巻』……。
「の、のぉぉぉぉぉぉぉぉっ!? もしかしてルヴィア様が、いつもこの図書室の隅っこに陣取っていたのって……!」
「うん。このあたりの研究論文を読み込むためだよ」
ルヴィア様は事も無げに言って、手に持っていた古い冊子をぱらりと捲った。
その瞬間、僕は膝から崩れ落ちた。まさにorzの体勢だ。
たしかにここは図書室の最奥、ほとんど人も来ないし、専門的すぎて誰も手を出さない禁書一歩手前の区画だ。そこに、僕が喉から手が出るほど欲しがっていた答えが、ずっと、文字通り「目の前」にあったなんて。
(僕……故郷でちょっと魔導具が作れるからって『神童』とか呼ばれて、実は少しだけ調子に乗ってたのかもしれない……!)
「あぁぁぁ恥ずかしい! 恥ずかしすぎる……!」
顔から火が出るどころか、魔力が暴発しそうなほどの羞恥心に襲われ、僕はたまらず床をゴロゴロと転げ回った。
エルの「おい、エバー! 見苦しいぞ!」という冷ややかな声が、今は遠くの地吹雪のようにしか聞こえない。
ルヴィア様はそんな僕を見て、困ったように、でも楽しそうに笑っていた。
「ははは。でもエバー、自分の足でフェルメール領を見て、必要性を感じてここに辿り着いたことに意味があるんだよ」




