第30話 フェルメール公爵領
二年生になって最初の実地研修は、王都から馬車で一日の距離にある公爵領だった。
ここは「王国の食料庫」と呼ばれる広大な穀倉地帯だ。
「……あー、平和だな。魔獣の咆哮も聞こえねぇし、地面も凍ってねぇ。エバー、ここなら昼寝しても凍死しなさそうだぞ」
隣でエルが、緊張感のない欠伸を噛み殺している。
無理もない。見渡す限りの黄金色の麦畑と、穏やかに流れる灌漑用水。ジジーアスの極寒やキョウオジンの灼熱で育った僕たちからすれば、ここはあまりに「温室」が過ぎる。
だが、この一見平和な風景も、王国の複雑な力学の上に成り立っている。
僕は視線を麦畑から、その奥に鎮座する巨大な公爵邸へと向けた。
もちろん、僕たちのような一学生の研修に、公爵夫人が直々に出迎えるなんてあり得ない。彼女は現国王の正妃が産んだ長女であり、四十を越えた王太子を筆頭とする「正統派」の血筋。今回の研修だって、現場の管理官が事務的に処理するだけだ。
僕が手帳の端に書き留めているのは、王家の家系図。
正妃には二男一女。
側妃一には二男二女、側妃二には一男一女。
そして、僕たちの「上司」になることが決まっているルヴィア様は、第三側妃の一人息子、つまり第六皇子だ。
「……ルヴィア様がジジーアスへの婿入りを早々に決めたのも、この家系図を見れば納得だね」
「あ? なんだよ、その系図。腹違いの兄弟がいっぱいいるって話か?」
「そうだよ。特にこの公爵領に嫁いでいる第一王女なんかは、正妃様の直系。それに対してルヴィア様は末っ子の第六皇子……。王位継承の争いに巻き込まれる前に、北の最果てへ『整理』された、とも取れる」
もっとも、当のルヴィア様はジジーアスへの婿入りを心から楽しみにしているようだし、僕たちも彼という「理解ある上司」を得られたのは幸運だった。
「ま、お偉いさんの事情はどうでもいいさ。今はここの『管理』を学ぶのが勉強だ」
僕は、公爵邸からやってきた事務官の男性――いかにも王都の役人といった風貌の、痩せた男――が掲げる学園の旗を見つけ、背負い袋を直した。
「行こう、エル。王国の胃袋を支える魔導灌漑システム……その『辺境との差』をしっかり見せてもらおうじゃないか」
王都からわずか一日。この豊穣な土地に打ち込まれた「楔」の恩恵が、僕たちにどんな刺激を与えてくれるのか。僕は手帳にペンを走らせながら、一歩を踏み出した。
案内役の事務官さんから、農場の管理や王都への流通についての説明を受けた。
広大な麦畑がどこまでも続く光景は、王都のすぐ側だというのに圧巻の一言だ。効率化されたシステムの説明は少し難しかったけれど、一つだけ分かったのは、ここは「すごく豊かだ」ということだった。
一通りの説明が終わると、僕たち2年生のクラス20名は、今回の拠点となる宿舎へ案内された。
「……うわ、すごいな。エバー、これ本当に学生用の宿舎か? 故郷の家より立派かもしれないぞ」
エルが目を輝かせて声を弾ませる。案内されたのは、石造りの清潔な二階建ての建物だった。2泊3日の領地経営見学。僕たちはクラスメイトたちとわいわい言いながら中に入り、割り当てられた部屋に荷物を下ろした。
「エバー、さっきの話聞いたか? 魔導保冷庫を積んだ馬車が、毎日決まった時間に王都へ行くんだってよ。すごいよな。僕の故郷のキョウオジンじゃ、熱で回路がすぐに焼き切れるから、肉を運ぶなんて考えられなかったのに。やっぱり王都の近くは魔法が安定してるんだなぁ」
「本当だね。僕のいたジジーアスだと、冬は道が凍りついて半年は物流が止まってたから……毎日決まった時間に馬車が動かせるなんて、まるで魔法みたいだよ」
僕は窓から外を眺めた。等間隔に並んだ綺麗な並木道、穏やかな風に揺れる麦の海。
「霊脈が安定してるって、こういうことなんだね。キョウオジンの灼熱もジジーアスの極寒もここにはない。……なんだか、自分たちがいた場所がすごく遠くに感じるよ」
「ああ。……よっしゃ、明日からの見学が楽しみだな! 公爵領の美味いメシも食えるみたいだし、しっかり勉強して帰ろうぜ」
エルの屈託のない笑顔につられて、僕も自然と口角が上がった。
クラスのみんなも今回は過酷なサバイバルが無さそうだとわかって楽しそうだ。宿舎の中は明るい活気に満ちていた。
2人1部屋荷物を解いて少し一息ついた頃、食堂から食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。
僕とエルは食堂へ向かう。そこには僕たちの想像を超える光景が広がっていた。
「……おい、エバー。これ、本当に研修の夕飯か? 誰かの結婚式の間違いじゃねぇのか?」
エルの声が裏返るのも無理はない。テーブルいっぱいに食事が並んでいた。食べ切れるか? と心配になるほどの量が用意されていたのだった。
そしてその「質」も僕たちが普段食べている物よりも高い物だった。
「……すごいな。ジャガイモが大きくてホクホクしてる」
僕が思わず呟くと、隣の女子生徒が「当たり前じゃない」と笑った。でも、ジジーアスでは凍結と解凍を繰り返して黒ずんだイモだから加食部分が少なく小さいのが普通だったんだ。
皿に乗った厚切りのローストポークからは、肉本来の脂の甘みと一緒に、ハーブと塩とほのかな甘みがした。
「……っ! エバー、これ、塩だけじゃねぇぞ。…甘みがある。それに、この赤いのは……ワインか? 調味料がこんなにどっさり使われてるなんて!」
エルが驚愕の表情でフォークを止めた。
調味料はどこでも貴重品だ。味付けと言えば「塩味」で最低限の味付けだったけれど、この料理は違う。素材の良さを引き出すために、贅沢に、でも当たり前のように調味料が使われている。
「……味に『層』があるんだね。ジジーアスの塩辛いだけのスープとは大違いだ。野菜もシャキシャキしてるし、何よりこのパン……白いだけじゃなくて、バターの香りがするよ」
一口食べるごとに、僕たちは顔を見合わせた。
金銀財宝が並んでいるわけじゃない。ただ、「良い素材」を「十分な調味料」で調理した、真っ当に豪華な食事。
「……王都の近くって、こんなに豊かなんだな。僕たち、本当にすごいところに来たんだね」
「ああ……。俺、明日からもっと真面目に研修受けるわ。このメシがどうやって作られてるのか、ちゃんと見ておかないと罰が当たる」
エルはそう言うと、幸せそうに頬張った。
お腹が満たされるにつれて、宿舎の食堂はクラスメイトたちの笑い声でさらに賑やかになっていく。
この豊かな土地と、それを支える仕組み。
明日の見学では、この美味しい料理の「裏側」をしっかり見せてもらおう。僕はスープの最後の一滴まで堪能しながら、心からそう思った。




