第20話 キノババ辺境伯領
翌朝、僕たちは「一介の冒険者」として、徒歩でキノババ辺境伯領へと出発した。
セレナは子爵邸で看病と家の守りを任せ、僕とエルの二人だけで敵の本拠地へ潜入するためだ。
「……なぁ、エバー。おかしくねぇか?」
街道に出て半日が過ぎた頃、エルが首を傾げた。
僕も同じ違和感に、ずっと足を止めたくなっていた。
街道は、驚くほど平和だった。
東へ進めば進むほど、殺気立った兵士の検問や、ダッファーデンの軍勢が溢れかえっていると思っていたのに。すれ違うのはのんびりとした行商の馬車や、農作業に向かう村人ばかり。兵士の巡回どころか、物々しい武器の搬送さえ見当たらない。
数日かけて辿り着いたキノババ辺境伯領の城門でも、その違和感は頂点に達した。
「……ピリピリした空気が、欠片もねぇな」
エルが呟く通り、門番はあくびをしながら僕たちのギルドプレートを確認し、「若いのに精が出るな」なんて笑って通してくれた。街の中は活気に溢れ、鉄の街らしい槌の音が高らかに響いている。
王都で見た尖塔の崩落。フローレンス領で見た焼き払われた大地と、廃人にされた子爵様。
それらがすべて「悪い夢」だったんじゃないかと思わせるほど、ここは「平和な日常」を謳歌していた。
(……なんで? 宣戦布告までした国と通じているはずなのに、どうしてこんなに普通なんだ……?)
背筋を這い上がるような、得体の知れない寒気。
剥き出しの暴力よりも、この「隠し通された異常」の方が、僕にはずっと恐ろしく感じられた。
「エル……油断しないで。たぶん、僕たちが思っているよりずっと、この街の根っこは腐りきってる」
僕たちは賑わうキノババの街路を、深い警戒を抱えたまま歩き出した。
不気味なほど活気に満ちたキノババの街で、僕たちはまず情報の集積地である冒険者ギルドの門を叩いた。
「鉄の街」のギルドらしく、中にはガタイのいい荒くれ者たちが大勢いたけれど、漂っているのは殺伐とした戦気ではなく、昼間から酒を煽るような弛緩した空気だった。
僕はエルと一緒に、適当な依頼を探す振りをしながら、隅の席にいたベテランらしき冒険者たちの輪に混ざってみた。
「……なぁ、最近この辺で『消えた人間』とか、変な噂はないか? 街道で妙な集団を見たって話を聞いてさ」
エルの問いかけに、大男の一人が鼻で笑った。
「はっ、消えた人間だと? そんな物騒な話、この半年一度も聞かねぇよ。景気はいいし、仕事も腐るほどある。むしろ外から働きに来る奴らで溢れかえってるくらいだ」
「不自然な商いもな。ダッファーデンとの貿易も順調そのものだ。鉄も食料も、飛ぶように売れてるぜ」
……おかしい。
フローレンス領でのあの惨状は何だったんだ。僕の探知魔法にかかったあの禍々しい魔力の痕跡は? ここにいる連中は、本当に何も知らないのか、それとも……。
「……でもよ、一つだけ気になることがあるとすれば、辺境伯様だな」
別の冒険者が、ジョッキを置いてポツリと漏らした。その一言に、僕は耳をそばだてる。
「辺境伯様? 何かあったの?」
「いや、何かあったわけじゃねぇんだが……あの方は元々、暇さえあれば街に降りてきて領民に声をかけるような、気さくで豪快な人だったんだ。それが、この半年ほどぱったり姿を見せなくなっちまった」
「ああ、そういえばそうだな。今は実務のほとんどを、実弟の『バルトロメウス様』が代行してるって話だ。辺境伯様は体調を崩されて、奥の塔で療養中だってよ」
辺境伯の実弟、バルトロメウス。
フローレンスの子爵様が精神を壊されるのとほぼ同時期に、この街の主もまた、表舞台から姿を消していた。
「……エル、聞いた?」
「ああ。……出来すぎた話だな。気さくな殿様が病に倒れ、その影で『鉄』が飛ぶように売れ、街は平和を装ってる」
ギルドを出て、西日に照らされる巨大な辺境伯館を仰ぎ見る。
この街の「平和」は、まるで見事に塗り固められた舞台装置のようだ。そしてその舞台の裏側に、本物の辺境伯様を押し込め、糸を引いている誰かがいる。
「……半年、か。ルヴィア様たちが気づかなかったのも、この『あまりに完璧な偽装』のせいだね」
僕たちは、賑わう人混みに紛れながら、辺境伯館の周囲を密かに調査することにした。
病に伏せているという「主」の正体。そして、実権を握る「弟」の正体。
それを突き止めるのが、この偽りの平和を暴く鍵になるはずだ。
その日の深夜、僕とエルは辺境伯館の広大な敷地を囲む外壁の死角に潜んでいた。
「……エル、準備はいい? 警備の魔力波長は読み切ったよ」
「ああ。あの『奥の塔』だけ、妙に兵士の数が少ねぇのが逆に不気味だな」
エルの言う通りだった。実弟バルトロメウスが執務を行っている本館は物々しい警戒態勢なのに、辺境伯様が療養しているという塔の周囲は、不自然なほど静まり返っている。まるで、中にいる人物を世間から完全に忘れさせようとしているみたいだ。
僕は無詠唱で『認識阻害・闇纏』を展開した。ジジーアスの暗闇で鍛えた僕たちの隠密術は、王国の教科書通りの警備兵たちの目を容易くすり抜ける。
塔の入り口を守っていた二人の門番には、極小の『催眠』を流し込んだ。糸が切れた人形のように眠りに落ちる彼らをエルが支えて壁際に座らせる。
「……開けるよ」
音もなく扉を開き、螺旋階段を駆け上がる。最上階の部屋に近づくにつれ、あのフローレンス領で嗅いだのと同じ……いや、それよりも数倍も濃密で、吐き気を催すほど甘ったるい魔力の臭気が鼻を突いた。
扉の鍵を魔法で解き、中へ踏み込む。
「……っ、これは」
絶句した。
豪華な天蓋付きのベッドの上で、一人の大男が呻いていた。
キノババの領民たちが慕っていたという豪快な面影は、そこには微塵もなかった。皮膚の下を何かが這い回っているかのように血管が黒く浮き上がり、口からは絶え間なく濁った魔力の霧が漏れ出している。
「あ、ああ……ア……。あ、……っ!!」
フローレンス子爵様と同じ。……いや、それよりもずっと症状が進んでいる。
「……エバー、これ……手遅れじゃねぇのか?」
エルが苦しげに顔を歪める。僕が診るまでもない。
この人は、ただ病に倒れたんじゃない。実の弟であるバルトロメウスによって、実験台として、あるいは「生きた魔力供給源」として、半年間もこの塔で飼い殺されていたんだ。
「……解析するよ。エル下がってて!」
僕は震える手を伸ばし、辺境伯様の額に触れた。
伝わってくるのは、もはや人間の思考ではなく、ただ『魔力を欲する』という本能と、焼き切れるような苦痛の叫びだけ。
解析を進めるうちに、僕は背筋が凍るような術式の痕跡を見つけた。
「……バルトロメウスじゃない。この薬を調合し、術式を組み込んだのは……王都の、あの『裏切り者』たちと同じ系統の魔力だ」
キノババ辺境伯を廃人にし、その影で辺境伯様の実弟を操り、国を売らせようとしている黒幕。
その真実が、この暗い塔の一室で、最悪の形で裏付けられてしまった。
「エル……。この人を今すぐ救い出す、……この人はこんな所で命を落としていい人じゃない!」
僕は怒りで歯を食いしばりながら、辺境伯様の体から毒素のサンプルを抽出し、直ぐさま王都のルヴィア様に連絡を取る。




