第19話 フローレンス子爵領
東の子爵領、フローレンス家の境界に差し掛かった時だった。
馬車の窓から入り込んできたのは、彼女――セレナが愛しそうに語っていた「花の香り」ではなかった。
「……っ、何、この匂い」
鼻を突いたのは、何かが燻るような、嫌な焦げ臭さ。
僕は即座に御者に声をかけ、馬車を止めさせた。
「止めてください! セレナ、外を見ちゃダメだ!」
僕の静止を振り切るようにして、セレナは窓から身を乗り出した。そして、その喉から「ああ……」という短い悲鳴が漏れた。
眼下に広がるはずだった、美しい花畑が黒く焼き払われている。
「セレナ、落ち着いて。まだ、君のお屋敷が燃えているわけじゃない。……でも、これはただ事じゃないよ」
屋敷に到着した僕たちを迎え入れたのは、セレナの姉であるロザリー様と、その婿養子のカイル様だった。
「セレナ! よくぞ……よくぞ無事で帰ってきてくれました」
二人に抱きしめられたセレナは、安堵よりも先に、こらえきれない疑問をぶつけた。
「お姉様、一体どういうことなの!? あの美しい花畑が……フローレンスの誇りだった庭が、どうしてあんなに無惨に焼かれているの!?」
ロザリー様は顔を覆って震え、カイル様は苦渋に満ちた表情で僕とエルを屋敷の奥へと促した
「……僕たちが、自分たちの手で焼いたんだ」
カイル様のその言葉に、セレナは声も出ないといった様子で立ち尽くした。
窓の外、黒く燻り続けるあの大地を、愛着を持って育ててきた家族が自ら火を放ったなんて。
「……どうして、そんな。あんなに大切にしていたのに」
震える声で問いかけるセレナに、カイル様が絞り出すように語り始めた。
「……あの花畑で育てていたのは、観賞用の花だけじゃない。キノババ辺境伯の命令で、お父様はとある『霊草』を栽培させられていたんだ。その霊草で作られた薬は魔力を爆発的に高めるが常用すると精神崩壊を起こす事が分かったんだ」
カイル様の告白に、僕の背筋に冷たいものが走った。精神と引き換えに得る魔力……。そんなもの、麻薬以外の何物でもない。
「辺境伯は、その霊草を大量に求めていた。最初はその霊草で作った薬は魔力を引き上げることが出来るし辺境伯家も高値で購入してくれるしいい事尽くめ見えた。だけど使用したお父様は薬の依存症に陥って精神崩壊を起こしてしまったんだ」
ロザリー様が顔を覆い、声を殺して泣き始めた。
「お父様は、精神崩壊を起こしてしまったわ。今はもう、私たちのことも、自分が誰かも分からないまま……奥の部屋で軟禁状態にあるの」
「……全部焼いたのか」
エルの呟きに、カイル様が深く、重く頷いた。
「ああ。霊草が残っていれば、お父様の様な被害者が増えてしまう。だから僕たちは、お父様が正気を失った直後、すべてを灰にしたんだ。辺境伯には『不慮の火災ですべて失った』と報告したがそれを信じるかどうか・・・」
花の香りが消えた理由。それは、平和の象徴だった庭が、いつの間にか「狂気の薬」の苗床に変えられていたから。そして、家族を守るためにその思い出ごと焼き払わなければならなかった、姉夫婦の悲痛な決断。
「……カイル様、お父上に会う事は出来ますか? 僕の魔法なら、霊草の毒性を少しは和らげられるかもしれない」
僕は拳を握りしめ、静かに立ち上がった。
花の香りを奪い、優しいお父様の精神を壊したキノババ辺境伯。
僕たちの敵は、ただの「裏切り者」じゃない。人の心を踏みにじる、本当の化け物だ。
「エル、この領地の『真実』をルヴィア様に届けるよ」
「おう」
僕たちは、焼き払われた大地から立ち上る絶望の匂いを振り払うように、お父様が待つ奥の部屋へと歩き出した。
僕の申し出に、ロザリー様とカイル様はためらいながらも、重い鍵が何重にもかけられた最奥の部屋へと案内してくれた。
扉が開いた瞬間、鼻を突いたのは……甘ったるく、それでいて腐敗したような、吐き気を催すほど濃密な魔力の臭気だった。
「あああ、あれを……あの薬を寄こせ! 魔力が、魔力が足りないんだ……!」
そこには床をのたうち回り、壁をかきむしり、瞳孔の開ききった目で虚空に向かって手を伸ばしている子爵の姿があった
。全身から制御を失った魔力がドス黒い霧のように噴き出し、依存症の末路をこれ以上ないほど残酷に示していた。
「お父様……っ!」
駆け寄ろうとするセレナを、エルが強引に腕で制した。
「近寄るな、今のあいつは魔力の塊だ。触れればお前の魔力回路まで焼き切られるぞ」
「……解析を始めるよ。エル、皆を近づけさせないで!」
「おう、任せろ!」
「『鎮静の氷鎖』」
魔法の鎖がが暴れる子爵をがっしりと押さえつける。
僕はその額に手をかざし、精神干渉の術式を展開した。
(……なんてひどい。魔力回路がボロボロに焼け焦げて、代わりにその『霊草』の成分が神経の隙間を埋め尽くしている)
解析を進めるほど、怒りで指先が震えた。
この霊草は魔力を高めるんじゃない。魂を燃料にして強引に魔力を引き出し、その空白を薬毒で埋めることで、使用者を逆らえない人形に変える。
「『解毒の魔導濾過』!」
僕は自身の魔力を細い針のように研ぎ澄ませ、子爵の体内を循環する毒素を一つずつ隔離していく。少しでも手元が狂えば、子爵の精神は完全に崩壊する……。ジジーアスで培った、極限状態での精密な操作。
「……う、あ……あ……」
数十分後、子爵の激しい痙攣が収まり、荒い呼吸が次第に整っていった。まだ意識は戻らないけれど、のたうち回るような地獄からは救い出せたはずだ。
「……解析完了。この毒の正体は分かった。この処方、王都のルヴィア様に報告して解毒薬を研究してもらいます」
僕は、抜き取った微かな薬毒の残滓を小さな結晶に封じ込め、鋭い目で窓の外を見据えた。
花の領地を薬毒の実験場に変え、優しい父親を廃人寸前に追い込んだ連中。
のたうち回る子爵様を魔法で鎮めたあと、僕はすぐさま『転移台座』の前に座った。
解析した霊草の術式構成と、子爵様の深刻な病状。それを一枚の紙に凝縮し、抽出した毒の結晶と共に王都のルヴィア様へ送る。
『至急、王立薬師院で解毒薬の精製をお願いします。これはただの麻薬ではなく、魔力回路を物理的に組み替える呪毒です』
あんな失敗作だと思っていた魔導具に、これほど何度も救われることになるとは思わなかった。
その晩は、フローレンス家の客間に泊めてもらった。
「……エバー。あの薬、王都でも出回ると思うか?」
暗い部屋で、エルがぼそりと呟いた。
「……キノババだけじゃ終わらないと思う。このままだと、国中の兵士が心のない人形にされちゃうよ」
僕たちは短い眠りの中で、自分たちが背負ったものの重さを噛み締めていた。




