4話 仲間
かつて魔王として各地を支配していた頃、俺は帳簿の整理に頭を悩ませていた。各地から上がってくる収支の報告がばらばらで、全体を把握するのに余計な時間がかかっていた。そこで俺は天秤簿記を導入することにした。収入と支出を対照させ、資産と負債を同時に追える記帳法だ。記帳法を統一して管理しやすくするついでに不正や横領が発見されやすいものに変えることにしたのだ。
しかし、これがあまり普及しなかった。
既存の帳簿方式に慣れた商人たちは新しい記法を面倒だと言い、一部は俺の命令を無視した。俺は無視した者を粛清した。次も無視する者を粛清した。やがて普及したように見えたが、内実は適当につじつまを合わせたものばかりになってしまっていた。
そこにやってきたのが商業ギルドの長だった。
小柄で白髪交じりの、どこにでもいそうな初老の男だ。男は恐怖を押し殺した目の奥に、引かないという意思を光らせていた。
「失礼を承知で申し上げます」
男は深く頭を下げながら言った。さすがはギルドの長といったところか、声に震えはなかった。
「今のやり方では、人は本当の意味では動きません」
「……ほう」
相槌で話を促す。
「表向きは従いましょう。ですが腑に落ちていない者は、必ず手を抜きます。監視の目が届かないところで。天秤簿記は正確に記帳してこそ意味がある。恐怖で動かした帳簿は、正確さを欠きます」
確かにその通りだった。天秤簿記は一見広まった。だが、正確さを欠いている。これでは前と変わらない。
「……」
俺の沈黙を受けて、男は続ける。
「人は情で動くのです」
情。その一言を、俺はうまく飲み込めなかった。情とは何だ。感情のことか。人間関係のことか。それとも義理や恩のことか。どれも俺には縁遠いものだった。
「……情か」
「その通りです」
再び沈黙が流れた。この男はこれを言いに来ただけなのだろうか。簡単に人を殺す俺の前に現れて、不興を買うかもしれないような諫言をして、それで何を得ようとしているのか。俺たちの話を聞いている護衛たちも、男をまるで自殺志願者かのように見ている。
「なら、」俺は男を使うことにした。「お前に任せる」
「私に?」
「そうだ。商業ギルドの長で俺にもの言えるだけの胆力、天秤簿記の利点も理解していよう。適任だ。お前が商人どもに天秤簿記の正確な運用をさせよ」
男は一瞬戸惑ったが、すぐに頭を下げた。
「かしこまりました」
「お前でなければできない仕事だ。期待している」
男の体が驚いたようにぴくりと動いた。一瞬の間を置き、芯のある声で男は応えた。
「……承知しました。必ずや」
天秤簿記の普及はその後、思いのほか順調に進んだ。俺が男に褒美を取らせ「お前は人を動かすのが上手いな」と漏らすと、男は照れたように笑い「陛下も上手でございましたよ」と言った。
果たして俺は人を上手く動かせたのだろうか。今回俺が動かした人と言えばこのおかしな男だけだった。俺としてはこの男が勝手に動かされに来たようにしか見えなかったが、男は上手く動かされたと言う。唯一思い当たる節があるとすれば「お前でなければできない仕事だ。期待している」と言ったことか。こんな言葉で人は動いてしまうのだろうか。俺には分からない感覚だった。
朝、俺は孤児院の裏庭に一人で出た。
石畳の端に腰を下ろし、荷物運びのことを考えた。
ハンターたちは森に入り、罠を仕掛けるか獲物を直接仕留めるかして、魔石や肉を持ち帰るものだろう。荷物持ちはそれに付き添い、荷物を運ぶ。先日盗み聞いた限りでは、魔石だけでもさっさと持ち帰ってほしいような状況だ。
荷物持ちに戦力は要らない。要るのは荷物を持って歩ける体と、一定の距離を移動できる持久力。これを子供の体で解決する方法はリレーぐらいしかない。
俺が森の中までハンターに同行して荷物を受け取り、途中で待機している仲間に渡す。仲間はそこから町まで運ぶ。往復の距離を分担すれば、一人では無理な仕事が成立する。しかも仲間は森の手前で待機するから、魔物に遭遇するリスクをほぼ負わなくていい。
では仲間に必要なのは何か。
まず一定の荷物を持って歩ける体つきであること。非力な子どもでは話にならない。次に、森の付近まで来て待機できる度胸があること。実際に森には入らないとはいえ、近くにいることへの抵抗感があると務まらない。
もちろんこれらの条件を満たしている子供はすでにそれなりの仕事についているだろう。そこを上手く口説かなければならない。ここは実利を並べれば済む、というわけではない。天秤簿記の反省から、俺は理屈だけで人は動かないことを知っている。情、と男は言っていたが、未だ俺はそれが何なのかよくわかっていない。俺が分かるのは、孤児院の子供なら恐らく肉につられるということと「お前でなければできない仕事だ。期待している」という言葉が男に刺さったらしいということだけだ。そしてこの言葉は一度しか使えない。誘う相手は慎重に選ばなければ。
数日孤児院の子供たちを観察した結果、誘うのはハインツという少年に決めた。
ハインツは十歳で、孤児院の中では年長の部類に入る。背丈があり、骨格もしっかりしている。毎朝早くに外へ出て、昼過ぎに戻ってくる。市場で荷運びをしているのだ。仕事ぶりは真面目で早い。多少ミスもするようで、その少しの抜けと孤児院の子供という要素が重なって、あまり重宝はされていないようだった。仕事終わりにはパンと廃棄されたリンゴを貰っていた。
声をかけたのは昼過ぎ、ハインツが外から戻ってきたところだった。俺が向かってくるのを見たハインツは訝しげに眉を上げた。
「何だ」
ハインツは警戒した顔をしていたが、邪険にもしなかった。俺のことを脅威と思っていないのだろう。
「ねえ、お肉食べたくない?」
「は?」
不意を突いたらしい俺の言葉でハインツの顔から警戒が消え、代わりに困惑が覗いた。
「俺は食べたいんだ、お肉」
「……まあ、だろうな」
「それでさ、ハンターが荷物運び欲しがってるみたいなんだ」
ハインツの困惑が深まる。
「それが?」
「ハンターの荷物運びすれば肉が貰えると思わない?」
こちらの言わんとすることが分かったようで、ハインツから困惑がなくなり、今度は軽い嘲りが見て取れるようになった。
「無理だろ。魔物だって増えてる。俺はごめんだ」
まったく想定通りの感想だ。
「大丈夫。二人で分担すればいいんだ。森の中には俺、森の入り口にはハインツ。ハンターから俺が荷物を受け取って、俺からハインツが受け取る。ハインツは町に納品に行って、俺は遅れてハンターと一緒に戻る。それで、パンと肉をもらって終わり。ハインツは安全だろ?」
説明を聞いたハインツは黙った。この場面での沈黙は断ろうとしているからではないだろう。迷っているからこその沈黙だ。
「……他にもいるだろ」
ハインツは断ることにしたらしい。だが、はっきり断るにしては言い方が迂遠だ。まだ迷いがあるに違いない。
「ハインツがいいんだ。毎日真面目に働いてるだろ。朝早く起きて、ちゃんと自分の仕事をこなしてる。俺一人じゃできないし、誰かとやるなら、俺はハインツがいい。きっとハインツとじゃなきゃできない」
ハインツは目を見開いた。
「……」
じっと俺を見た後、目をそらす。何かを言いかけるが、結局黙ってしまった。
「じゃあ、パンは2個だ」
「は?」
「報酬はパン2個と肉だ。ちゃんと話を付ける」
ハインツは目を泳がせた後、わざとらしくため息をついた。
「話がついたらな」
よし。結局エサで丸め込んだ気もするが、とりあえず良しとしよう。
翌朝、俺は狩猟ギルドの前に立った。
剣と矢の交差した看板。あのときは中に入るのをためらった。今日もためらっていると言えばためらっている。六歳の子どもが飛び込んで、どういう顔をされるかは想像がつく。
ハンターたちが荷物持ちを必要としているのは聞こえていた。俺は猟師の息子で、ずっと狩猟についてまわっていた。ここらを起点に話を進めれば上手くいくはずだ。それに、孤児院の子供だから安く雇える。失敗しても向こうにはそれほどの損はない。危険を冒すのは基本的にこちらなのだ。
俺はひとつ深呼吸をし、扉に手をかけた。




