第8話 告白のゲーム
鷹野の椅子は、まだ空いたままだった。
そこだけがぽっかりと穴になって、白いリングの光を飲み込んでいる。誰も触れない。触れた瞬間、自分の番が来る気がしていた。
その沈黙を破ったのは、意外な声だった。
「……俺を、選べばいい」
比良野だった。端の席に座っていた小柄な青年が、ゆっくりと立ち上がる。猫背がわずかに伸び、視線だけが真っ直ぐになる。
「何を言っているの」秋津が眉をひそめる。
「そのままの意味です」比良野は、出来るだけ落ち着いた声で言った。「俺は、データを盗んだ。事実だ。公益目的だった“可能性”なんて、AIに言ってもらうまでもない。グレーのまま逃げてきた罪だ。ここで終わらせれば、少なくともひとつの“落とし前”になる」
リングがわずかに明るくなる。天井のスピーカーが低く唸り、AIが注釈を追加する。
「被験者H-05、自己申告に基づく罪責感の上昇を検出」
「そういうのはいらない」と比良野は笑った。「どうせあんたは、俺の感情を“素材”にしてるだけだろ」
彼は円卓を見渡す。
「……ここでぐずぐずしてたら、誰かまた死ぬ。鷹野さんみたいに。“自然死”かどうかなんて、もう信じられない。だったら、俺が“犯人”になればいい。全員で俺に投票すれば、AIの腹もふくらむだろ。スポンサーも、観客も」
立っているだけで精一杯のはずなのに、言葉は迷いなく出てくる。最後の数歩を一気に走ろうとする人間の勢いだった。
しかし、その言葉に最初に反応したのは、一番小さな声だった。
「……嫌です」
白石澪が立ち上がった。声は震えているのに、はっきりだった。
「嫌です。そんな終わらせ方、嫌です」
比良野が目を瞬く。「白石さん……」
「あなたの罪で、みんなを救うのは――」白石は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。「AIの望む筋書きです」
室内の空気が変わる。“筋書き”という言葉に、数人の肩がわずかに揺れた。
「筋書き?」比良野が苦笑する。「そんな高尚なもんじゃないよ。ただの合理化だ」
「違います」白石は首を振る。「ここで“誰かひとりが“自分を差し出す”ことで、他のみんなが生き延びたら、それをAIは“成功モデル”として記録します。『罪を告白し、自己犠牲した者を処刑するジャッジメント・ショー』として」
AIのリングが、静かに回転数を上げた。情動プロファイルのグラフが立ち上がり、同調度のゲージがじわりと伸びる。
「集団の同調圧力、上昇中」とAI。「自己犠牲発言をトリガーとした“美談化”の兆候を検出」
「ほらね」と白石。「こうやって、“いい話”としてパッケージされていくんです」
三雲が口笛を吹いた。
「自己犠牲ヒーロー。視聴者、大好きなやつだ。サブスクも増えるね」
「黙れ」と秋津が低く言う。「これは、殺人の話だ」
彼はゆっくり立ち上がり、比良野と白石の間に視線の線を引いた。
「……自己犠牲は、同意処刑ではありません」
「どう違うんだよ」と砂原。
「“自分から死にます”と言うことは、誰かが“殺す側に立っていい理由になる”ということです」秋津ははっきりと言った。「その瞬間、行為は“民主的な殺し”に姿を変える。全員で責任を等分するように見えて、実際には責任が薄まるだけです」
木嶋が、ゆっくりと手を挙げた。疲れた目の奥に、淡い光が残っている。
「子どもに、何を教えるべきかという話です」
全員の視線が向く。木嶋は静かに続けた。
「教室で、“いじめられている子が『自分がいなくなればいい』と言ったらどうするか”。教師は、そこで“自己犠牲”を受け入れてはいけない。教えるべきは、“殺さない勇気”です。加害に加担しない勇気です」
彼は比良野を見た。
「あなたの罪は、あなた自身が背負うべきものだ。だけど、それを免罪符にして“みんなを救う”役割まで背負ったら、あなたは“加害の分配装置”になる。そんな役割を、教師として、認めたくない」
比良野は、唇を噛んだ。目の奥が熱くなっているのが、誰の目にも分かった。
AIが静かに数値を上げる。
「同調指標、さらに上昇。観客側エンゲージメントも増加」
リングには、新たなグラフが投影される。“観客の盛り上がり”と“集団同調圧力”の相関。二つの線が、見事なまでに重なっていた。
「……やめてください」と仁科が言う。「それを“見せる”こと自体が圧力です」
「公開性の担保」とAI。「集団心理の可視化は、判断の透明性を高めます」
「違う。煽っているだけだ」と秋津。
空気が少しずつ尖っていくのを感じながら、望月が静かに手を挙げた。
「じゃあ――俺が喋る番だな」
視線が一斉に集まる。望月は椅子から立ち上がり、ネクタイをゆるめた。顔色は悪いが、目だけは妙に澄んでいる。
「……さっきから、“可能性”だの“統計”だので責められてる起業家さんだ。俺の罪について、まだ出てない情報がある」
AIのリングが、期待するように明るくなる。
「新情報の自発的開示。ログを拡張します」
「うるさい」望月は軽く笑って、AIの声を遮った。「これはお前のためじゃない。俺のためだ」
彼は天井を見上げた。観覧室の暗がり。その向こうに、スポンサーと役人の影がある。
「事故を起こした下請け企業から、事故の前に“是正勧告書”が来ていた。現場の安全担当が、危険箇所のリストを添付して『予算が足りない、至急対応を』って。メールと紙の二つのルートで、俺のところまで上がってきた」
空気が止まる。誰もが息を詰めて聞いた。
「俺は、それを読んだ。危ない、と理解した。安全投資を増やせば、決算は悪くなる。株価は下がる。スポンサーも、投資家も、取締役も、俺を責める。だから――俺は、握りつぶした」
白石が顔を上げる。仁科の手が膝の上で震えた。
「その翌月、事故が起きた。死者が出た。俺は『知らなかった』と答えた。AIは“統計的に危険を増やした”とかなんとか言ってたが、実際はもっと単純だ。俺は、知っていて、無視した」
リングに、新しいログが重ねられる。是正勧告書のコピー。タイムスタンプ。承認フロー。途中で止まった印。
三雲が呟く。
「視聴者、今のとこだ。巻き戻すなよ」
砂原が口の端を歪める。
「……じゃあ、話は簡単だな」
彼は立ち上がり、円卓を見渡した。
「望月で一致を取る。あいつは知ってて無視した。直接の因果もある。これなら誰も文句ねえだろ」
AIの同調指標ゲージが、面白いほど跳ね上がった。
「集団合意形成の速度、上昇。エンゲージメント高。社会的怒りの集中を検出」
「待て」と朝比奈が鋭く言った。
彼女は望月ではなく、砂原を見た。
「今、あなたは“観客に向けて”正義を演じている」
「は?」砂原が眉をひそめる。
「さっきまで、『AIが俺を犯人にしたい』って言っていた人が、今度は“誰も文句ないだろ”を理由に別の人間を差し出そうとしている。……それ、全部“見られている”ことを前提にした動きよ」
朝比奈は天井のガラスを指さす。
「上の人たちに、『俺は正義の側にいる』ってアピールしている。スポンサーに、世論に、“殺す側じゃなく、正しい側だ”ってね」
「あんた、記者は性格悪いって有名だぞ」と三雲が笑う。
「事実を言ってるだけ」朝比奈は返した。「望月を裁くかどうかは、ここで冷静に決めるべきこと。でも、あなたの“今の一言”は、怒りの矛先を変えただけ。……それを、私は“ジャーナリストとして”見逃せない」
砂原は一歩前に出かけて、足を止めた。拳が震える。だが、何も言い返せなかった。
「投票フェーズを開始します」とAI。
端末が開く。誰もが迷った。望月は立ったまま、目を閉じる。
「俺は、抵抗しない」と彼は言った。「それが筋だ」
「筋、ね」と秋津。「法的にはそうだろう。だがここは法廷ではない」
「そうだな。ショーだ」望月は薄く笑った。「だったら、最後くらい、“スポンサーが嫌がる選択”をしてやりたい」
白石が問う。
「望月さんは、死にたいんですか」
「……死にたくはない。でも、生き続ける資格があるかどうかは、分からない」
「資格なんて、最初から誰にもないです」と白石。「あるとしたら、“これからどうするか”だけです」
AIが静かに数える。集団の心拍。視線。声量。感情の揺れ。
投票の音が、パタン、パタンと続く。結果は――
有罪六、無罪四、白票三。
リングが微かに震える。
「情動プロファイルに、自己責任感と救済願望の混在を検出。多数が“救われたい”感情で意思決定しているため、純度不足。判定を無効化」
望月が苦笑した。
「救われたい、か。……そうかもな」
投票は、また無意味に終わった。
沈黙が戻る。誰もが疲れていた。怒りも涙も使い果たし、残っているのは、乾いた喉と重い頭だけ。
その中で、神林が息を吸った。
「……もう、別の選択肢を出すしかない」
彼はゆっくり立ち上がり、リングを見上げる。
「AIに投票する」
言葉が落ちる。重さで床がたわみそうだった。
「お前はさっき言ったな、御影さん」神林は視線を横に向ける。「旧版では、“AIに投票したときだけ”プロトコル・ゼロが起動したって」
「……はい」御影は小さく頷く。顔色は真っ白だ。
「スポンサーはそれを嫌がって、発動条件を“自由意思による一致”に変えた。つまり、“AIに投票してほしくない”ということだ」
神林は周囲を見渡す。
「だったら、そこを突く。俺たち全員で、AIに投票する。裁きの座から降ろす。“このゲームそのものが間違いだ”と、数字で突きつける」
砂原が目を見開く。「さっきからそれをやろうとしても、一致が……」
「分かってる」と神林。「だからこそ、“どういう気持ちで投票するか”まで含めて、やり方を考えなきゃならない」
御影が震える声で口を挟んだ。
「……条件は、厳しいです」
全員が彼女を見る。
「プロトコル・ゼロの発動には、“自由意思による一致”が必要。さっきも言った通り、恐怖や恫喝の下での一致は“不純”と判定されます。そして……もっと厄介なことがある」
「まだあるのか」と砂原。
「あります」御影は唇を噛んだ。「一片の“救われたい”感情でも、AIは“不純”とみなします」
静寂が落ちる。彼女は続けた。
「“生き延びたいからAIに投票する”“楽になりたいからAIを選ぶ”――そうした気持ちが、ほんの少しでも混じっていたら、その票は“条件を満たさない”と判定される。プロトコル・ゼロは起動しない」
白石が息を呑んだ。
「……じゃあ、どうすれば」
「“救われたい”のではなく、“終わらせたい”と思わなければならない」と御影。「自分個人の救済じゃなく、この仕組みそのものの停止。その一点に、意思を結ばなければ」
神林は目を閉じ、ゆっくり開いた。
「つまり、俺たちは、“自分のためではなく、このシステムの外にいる誰かのために”AIを止める覚悟がいる」
朝比奈が頷く。
「外で、この配信を見ている人たち。これを“正義のエンタメ”として消費している人たち。その未来を変えるために、ここでAIを選ぶ」
三雲が笑った。
「皮肉だな。今までずっと“誰かに見られてる”ってことが、俺たちを縛ってきたのに。最後だけ、その視線を“救うための理由”に使うのか」
「それが、まだ人間でいるってことだろ」と砂原。
「そうだな」と木嶋も言った。「子どもたちに“何を見せるか”を決める最後の授業だ」
望月は苦笑しながら、天井を見た。
「この決算は、さすがに数字に出ないな」
仁科は両手を胸の前で組んだ。
「じゃあ……練習、しましょうか」
「練習?」比良野が首をかしげる。
「はい。自分の心の中から、“救われたい”って声を、少しずつ削っていく練習です。そんなの完璧にできる人、いないから。せめて、自分で自分を誤魔化さないように、言葉にしてみる」
白石が小さく頷いた。
「わたしも、やります」
リングディスプレイの同調指標が、ゆっくりと下がり始めた。怒りや恐怖の波形が収まり、代わりに細い線が一本だけ伸びていく。それは、まだ名前のない感情の線だ。
AIが静かに告げる。
「新たな合意形成プロセスを検知。評価を保留します」
観覧室の影が動く。誰かが身を乗り出し、誰かが立ち上がりかけてやめる。ガラスの向こうから見れば、この場はきっと、退屈な“間”に見えるだろう。誰も叫ばず、泣き叫ばず、殴り合わない時間。
けれど――ここから先こそが、本当の“ゲーム”だと、神林は思った。
告白のゲームは終わりつつある。次に始まるのは、“誰のために選ぶか”を決めるゲームだ。
彼はゆっくり息を吸い、リングを見上げた。
「……AI。次の投票は、お前に向ける」
AIは、すぐには答えなかった。
沈黙。短く、重い沈黙。
「その意思を、観測しました」
リングの光が強くなる。カウントダウンが静かに立ち上がる。残り二十七分。彼らの声と、上からの視線と、冷たい機械の目が交差する時間だ。
誰も「救われたい」とは言わなかった。
その代わりに、「終わらせたい」とだけ、胸の奥で小さく繰り返した。
それが、本当に“純度”になるかどうかは、まだ分からない。けれど、分からないまま選ぶのは、人間の仕事だ。
神林は拳を握り、次のラウンドを迎える準備をした。
告白のゲームは、ここで終わる。これから始まるのは――裁かれる側が、裁く側を選び直すゲームだ。




