第9話 氷葬の殲滅と夜語の温もり ②
コンクリートの匂いが、鼻を刺した。
割れた窓から入り込む風が、廃ビルの内部を通り抜けるたび、どこかで何かが擦れるような音が響く。
人の姿は見えない。
足音も、衣擦れもない。
ただ、空間の奥に沈んだままの気配が、動かず残っていた。
床には埃が積もり、ところどころが黒ずんでいる。
天井から垂れた配線が、ゆっくりと揺れていた。
「……」
実の喉が、小さく鳴る。
足が止まりかける。
そのまま、わずかに重心が後ろへ流れた。
足元。
ぬらり、と。
床の影が、形を変えた。
「……スライム?」
声が、低く漏れる。
半透明の粘体。
人の拳ほどのそれが、床を擦るように集まってくる。
ツグミが、一歩前へ出る。
「ちょっと厄介かもね」
「弱いイメージが根付いてるけど……」
実の視線が、粘体の動きに固定される。
「現災は有名なほど強い……」
瞳孔がわずかに開き、唾を飲む。
口の端が動きかけて止まり、肩が強張った。
「でも、幸い」
ツグミは周囲へ視線を巡らせる。
「ここらへん、人の気配がほとんどない」
「被害は少なくて済みそうね」
言葉と同時に、スライムの一体が体を膨らませた。
次の瞬間。
粘液が弾けるように吐き出された。
「……!!」
実の肩が跳ねる。
じゅ、と音が鳴る。
目の前の床に粘液が叩きつけられる。
床が溶け、
コンクリートが泡立ち、
黒く変色していくのが見えた。
スライムが続けて体を震わせる。
粘液の塊が弾けるように、今度はツグミの方へと飛んだ。
ツグミは壁に手をつき、そのまま体をひねって回避。
液体は背後の柱を抉り、
崩れた破片が床に散った。
「数、多いね」
ツグミは地面に手をつき、その反動で体を起こす。
指先が触れた箇所が、白く曇る。
視線の先。
廊下の奥、階段の影、天井近くの配線の上。
複数の粘体が、ゆっくりと形を変えながら広がっていた。
ツグミが一体へ駆け出す。
手を伸ばして粘体に触れた。
触れた箇所から一気に白く凍りつき、粘体はそのまま硬化して動きを止める。
「……っ!!」
だが、その刹那。
ツグミの手の甲から細く煙が立ち上った。
皮膚の表面が変色し、赤い線がにじんでいる。
ツグミはすぐに手を引き、壁に触れて体勢を整えた。
「ツグミさん!!」
実の目が見開かれ、歯が強く噛み合う。
「平気」
ツグミは片手を床につき、壁に触れながら体勢を立て直す。
実の視線が周囲へと走る。
廊下の奥、階段の影、配線の上。
粘体がゆっくりと形を歪めながら、
じり、
じりじり、と距離を詰めてくる。
実が唇を噛み、一歩足を前に出した。
視線が自分の手元へ落ちる。
握っているものを、指が確かめるように強く締めて。
「……これを使って、だな」
◇
前日。
東京現災署。
備品倉庫の一角で、実は棚の並ぶ奥を見たまま、動かずに立っていた。
「はい、これが君の武器」
軽い調子の声とともに、護が棚の奥へ手を伸ばし、ひとつの塊を引き出した。
差し出されたそれを見た瞬間、実の視線が止まる。
「え、これが武器ですか!?」
実の声が裏返る。
渡されたのは、ずっしりと重い――金の延べ棒。
「当たり前でしょ」
「クソ高いから、大切に使ってね〜」
冗談めかした口調のまま、護は延べ棒を差し出す。
「ええ……」
実は両手でそれを受け取り、腕を沈める。
ずっしりとした重みが手に乗った。
◇
――そして、現在。
実は床を蹴り、スライムへ踏み込む。
「はあああっ!!」
握った延べ棒が歪み、細長く引き伸ばされ、刃の形を取った。
「――っ!!」
振り抜く。
金属が粘体を叩き潰す。
弾かれた溶解液が床へと飛び散る。
横合いから、別のスライムが伸び上がる。
「ツグミさん!!」
声に応じるように、ツグミが床へ手をつく。
足元から一体が一気に凍りつき、その場で動きを止めた。
実は踏み込み、延べ棒を圧縮する。
細く尖らせ、そのまま中心へ突き立てる。
「────ピギッ!!」
甲高い断末魔が弾け、粘体が砕け散った。
だが、天井から、壁の隙間から、まだまだ、粘体が滴り落ちてくる。
実は走りながら振り下ろし、弾き、受け止め、突き立て続けた。
ツグミは移動しながら床や壁へ触れ続ける。
触れた箇所から白く凍りつき、粘体の動きが鈍る。
二人の間で、動きが重なる。
最後の一体がツグミに、跳びかかろうとした瞬間、足元が凍りつく。
そのまま動きを止めたところへ、
実の一撃が叩き込まれた。
「────ピギィィィッ!!」
粘体が押し潰される。
ひび割れるように裂けていく。
崩れた塊が床へ広がり、輪郭がほどけた。
ぬめりを帯びた音が、途中で途切れる。
スライム達は黒く泡立ちながら、表面が細かく弾けていた。
泡が弾けるたびに質量が削れ、粒子へとほどけていく。
やがて光の粒となり、空気中に霧散した。
残っていた揺れも止まり、廃ビルの中に音が落ちる。
実が唾をゴクリと飲み込む。
「……終わった?」
息をついたあと、視線が周囲をなぞった。
その時だった。
――ずる。
――ずる、ずる。
上階から音が落ちてくる。
実の視線が上へと向いた。
階段の隙間、
天井の裂け目。
暗がりの奥で、粘体が重なり合いながら溢れ出してくる。
数が増える。
一体、二体ではない。
階段の影が、ぬめりを帯びて膨らむのが見える。
天井の裂け目から垂れたそれが、重力に引かれるように滴り、床に落ちて広がっていく。
それらは光を鈍く弾きながら、形が揺れて、こちらへと身体を向けた。
粘体達がじわりと迫る。
壁際、柱の影、割れた床の隙間――逃げ場を埋めるように、静かに広がった。
「……まじですか」
引きつった口から言葉が漏れた。
だが。
「大丈夫」
ツグミの声は低く、落ち着いていた。
揺れも、焦りも混じらない。
そのままそっと床に触れた。
床へと広げた掌が、そのまま離れずに止まる。
「もう、準備は整ったから」
ツグミが横目で実を見る。
その視線は短く、無駄がない。
「延べ棒で、自分の身を守っといて」
「……え、あ、はい」
間を置いて、はっとしたように瞬きを一つ。
実は返事と同時に延べ棒を握り直し、構えを取った。
足元へ視線を落とし、間合いを測る。
スライムが蠢き、こちらへ距離を詰めてくる。
その動きを視界に収めたまま、
ツグミは一歩も動かない。
凍りかけた地面に掌を置いたまま呟いた。
「――《氷葬連鎖》」
次の瞬間、白が、爆ぜた。
床、壁、柱――触れてきたすべてが一斉に、凍てつく。
離れていた凍結が噛み合う。
繋がる。
一本の流れとなって廃ビルを走る。
白が内側から広がって、逃げ場を塞ぐように、建物を満たした。
静寂。
それまで響いていた軋みや擦過音は、途中で断ち切られたまま戻らない。
冷たい空気だけが、その場に取り残されたように動かず、わずかな気配の揺れすら見えなかった。
実は構えていた盾を崩し、延べ棒の形へ戻す。
金属の重みを手の中で確かめるように握り直し、そのまま視線を前へ向けた。
「すごい……」
氷に閉ざされていた粘体が、ひび割れるように崩れ、表面から細かな光がこぼれ落ちていく。
輪郭は保たれたまま薄れていき、やがて粒子となって離れ、空中へ散った。
残っていた形も、ほどけるように消えていく。
「……全部、終わったみたいだね」
ツグミが周囲へ視線を巡らせる。
「あ、はい……」
実は延べ棒の握りを緩める。
視線を足元へ落とし、凍りついた床を確かめるようにカチカチと踏んだ。
ツグミが身体を後ろへ向けて、出口へと歩き出した。
実は一拍遅れて足を動かし、その背を追う形で後に続く。
靴底が触れるたび、乾いた音が小さく返った。
二人の背が、出口の向こうへ消えていく。
その軌跡をなぞるように、暗がりの奥で瞳の光だけがわずかに動いた。
「……なるほどねぇ。ここはあいつらの管轄なんすね……」
声が落ちると同時に、そこにあった気配も薄れていく。
廃ビルには影の重なりだけが残り、動くものは何もなくなった。
◇
頬に冷たい風が触れ、実は肩を擦る。
手をポケットに入れ、顎をわずかに引いた。
「ふぅ……」
そのまま歩き出し、通りへと出る。
流れる光が視界を横切り、足元の影が途切れず伸びていく。
ツグミがパーキングエリアの前で足を止めた。
ポケットからスマホを取り出し、画面に視線を落とす。
「実くん、定時だけどどうする?」
「私はまだ仕事あるから、このまま現災署に戻るけど」
言いながら、実へと顔だけを向ける。
「そこまで送ろうか?」
「あ、じゃあ──」
言葉を継ごうとしたところで、横から声が流れてきた。
「……実?」
呼びかけに、視線が横へ流れる。
路肩に停まった車の窓が開き、そこから一人の女性が身を乗り出していた。
「え……?」
間を置いて、口が開く。
「……母さん!?」
「実、なんでこんなところにいるの?」
「母さんこそ……」
「私は今から普通に――」
言いかけたまま、香の視線が横へ流れる。
実の隣に立つ人物を捉えたまま、その目が止まった。
「あら?」
口元が緩み、そのまま形が変わる。
「……もしかして、そういうこと?」
「どういうことだと思ってるの……」
実は視線を、足元へ落とした。
片手が首の後ろに回り、指先が触れたまま止まる。
その様子を見たまま、香の口元は崩れない。
その間に、ツグミが一歩前へ出る。
姿勢を崩さず、正面へと向き直す。
「はじめまして」
ツグミは軽く顎を引き、視線を落とすと、そのまま上体を静かに傾けた。
「私、実くんと同じ職場で働いてます、ツグミです」
顔を上げ、姿勢を戻す。
「今日は仕事終わりで、今から帰るところなんです」
「あら、そうなのね」
香は窓枠に肘をかけたまま、視線を実へと戻した。
ハンドルにかけた指が軽く動き、顎をしゃくった。
「それなら実、乗っていきなさいよ。私もちょうど帰るところだし」
「あ、じゃあ……そうしようかな」
「うん、その方がいいよ」
ツグミは顎を引き、小さく頷いた。
「じゃ、実くん、今日はバイト初日お疲れ様」
「あ、はい!!」
「今日はありがとうございました」
実は背筋を折るようにして頭を下げる。
顔を上げたあとも一拍だけ視線を落とし、それからツグミを見る。
ツグミは視線を受け止めたまま、片手でヘルメットを持ち上げた。
足を軽く振り上げ、シートへ跨る。
体重を預けるように腰を落とし、ハンドルへ両手を添えた。
エンジンが低く鳴り、車体が少し揺れる。
次の瞬間、前照灯が伸び、車体はそのまま夜の通りへ滑り出した。
走り去る後ろ姿が小さくなり、やがて見えなくなる。
「じゃあ、私たちも帰りましょ」
香の言葉に頷いて、実はドアを開け、車内に体を入れた。
シートに沈み、ドアが閉まる。
「……可愛くて、しっかりしてる人ね」
ハンドルに手を置いたまま、香が横目を向けた。
「実、ああいう子がタイプなの?」
「ち、違うって……!!」
言葉と同時に、顔を正面へ戻した。
車が動き出し、前方の光が流れ込む。
フロントガラスの向こうで、街灯が一定の間隔で通り過ぎていく。
◇
しばらくした後。
実は助手席に身を預けたまま、窓の外へ視線を流していた。
車が信号で止まる。
横断歩道の向こうから、数人の女子中学生が並んで歩いてくるのが見えた。
肩にかけたリュックが揺れて、制服の裾が風に揺れる。
その後ろ姿を、視線が追う。
指先が、膝の上でわずかに丸まる。
「……」
息が浅くなり、口が開く。
そのまま、細く息が抜けた。
ハンドルに手をかけたまま、香が横目で様子を窺う。
「……なんかあったの?」
「え……」
実は一度、視線を前へ戻す。
(ただでさえ、家にいないこと多いのに)
(家のことで、余計な心配かけたくないな……)
言葉を探すように口を閉じ、次の瞬間には窓の外へと目を逃がした。
指先が、無意識にシートの端をなぞる。
「……ちょっとさ」
「女の子と、揉めちゃってて」
言い終えたあと、肩が下がる。
「僕が、他の人との約束を破って怒らせちゃったんだ」
香は何も挟まない。ただ、一定の速度でハンドルを回すしている。
「いっぱい謝ったんだけどっやっぱり、まだ怒ってて……」
実の視線が足元へと落ちる。
靴先が、内側へ寄っていく。
「それで、色んな人に相談してさ……」
「どうしたら許してくれるかなって」
言葉の間に、わずかな空白が挟まる。
「……全裸で土下座とか」
「許されない、相手が許してくれるまで行動で示して待つしかない、とか」
「そう言われて……」
口元が歪む。
指先が軽く組まれたまま、上目で母親の後ろ髪を捉える。
「母さんは、どう思う?」
数秒。
エンジン音だけが車内に残る。
「……」
香は視線を前方から外さない。
「そんなの、わかんないわよ」
その言葉で、実の顎がわずかに引かれた。
「……そりゃ、そうだよね」
視線がまた床に落ちる。
指先の力が、少し抜けた。
その直後。
「許せるラインなんて、人それぞれ違うのよ」
香の声が重なる。
「自分の知らない他人と揉めて」
「どうすれば許してもらえるのか、なんて聞かれたら」
「みんな、自分だったらどうすれば許すかって基準で答えるだけ」
「……」
実の指先が、ゆっくり止まる。
夜風が、車の外をそっと撫でる。
通りの遠くで、かすかな信号音が途切れる。
街灯の光が、静かに揺れた。
その静寂の中、香がゆっくりと口を開いた。
「……花だったら」
「え」
実ははっと顔を上げる。
香は前を見たまま、口元だけ緩めていた。
「本当はね」
「約束を破ったこと自体に怒ってるんじゃなくて」
信号が変わり、車がゆっくりと動き出す。
景色が滑るように後ろへ流れていく。
「楽しみにしてた、二人の時間を過ごせなかったことが寂しかったのよ」
「それで拗ねてるだけ」
実の視線が、香へ向いたまま止まる。
「それを、鈍感なお兄ちゃんが」
「ちっとも分かってくれないから、余計に許せない……かしら」
「……」
口元が緩む。
こらえるように一度唇を閉じ、それでもわずかに空気が漏れた。
「……はは」
肩の力が抜け、背もたれに体重を預ける。
(さすがだな……)
(なんでも、お見通しだ)
視線が再び窓の外へ戻る。
なぜかさっきまでよりも、外の景色は広がって見えた。
指先のこわばりがほどけ、膝の上に自然に置く。
気づけば、
冷えていた身体は、
もうすっかり温まっていた。
◇
東京現災署。
ツグミが扉を押し開けて中に入った。
「……げ」
中から間の抜けた声が返ってきた。
静まった室内に小さく響く。
「げって何よ」
「狩野今日夜勤だっけ?」
「あーまあ、そうなんだが……」
歯切れの悪い声が、狩野から漏れる。
「なんなのよそれ──」
ツグミは、そのまま机に視線を移した。
コーヒー。
液体が派手に広がり、紙の上に垂れていた。
黒く染まった紙面。
自分が書いた報告書が無残な姿になっていた。
「……」
ツグミは肩の力を抜かず、机の向こう側にいる狩野をじっと見下げた。
眉の角度は下がり、ただ鋭く狩野を捉える。
口元は微かに引き締まり、冷たい視線だけを向けていた。
「……あー」
狩野は逃げるように目を動かした後、上目でツグミの顔を見つめた。
「……全裸で土下座するから、許してくんね……?」
「は?許さない死ね」




