第8話 壊れた約束と冷めた助言 ①
この回は2話完結のエピソードです。
窓の外は暗く、ガラスを打つ雨粒が鈍く光っていた。
居間の電球が柔らかく灯り、テーブルの上には湯気の立つ皿が二人分並べられている。実は、箸を整え、軽く布巾で手元を払った。
「花、夕食できたんだけど……」
ゆっくり振り返ると、階段の方に花の姿が見える。
花は、肩をすくめて、ぷいっと顔を背けた。
「自分の部屋で食べる」
トコトコと階段を上がる音。
背中が二階へと消えていった。
「……はい」
実は俯き、皿を見つめる。湯気が立つ料理を前に、箸先は揺れるまま止まった。
実は席に座り、1人で手を合わせる。手のひらを重ね、軽く触れるようにして黙り込む。皿を見つめ、目は料理の上を行き来した。
──僕の家は、その日家にいる家族全員で、
同じテーブルを囲って食べる。
今はいない父が、昔決めたルールだ。
理由は単純で、
一日の終わりくらい、顔を見て飯を食え
それだけだった。
まさか十七年間、不変だったこのルールが、崩れるなんて、
今まで思っても見なかった。
でも、
このルールを壊したのは、花じゃない。
僕だ──
◇
――二週間前。
大黒駅前は、焼けた空気と焦げた匂いに包まれていた。
赤く染まる空の下、崩れた外壁からはまだ細い煙が立ちのぼり、砕けた破片が風に転がっている。
その中心で、実は仰向けに倒れていた。
両腕を広げたまま、力の抜けた視線で夜空を見ている。
遠くでは、狩野がバイクの前に立っていた。
腕を組み、瓦礫を踏みながらゆっくり歩く。その足音だけが、静まり返った駅前に響く。
その時、
ぱちり、と。
実の目が急に開く。
焦点が定まり、次の瞬間には上体が跳ね上がった。
「ああああっ!!」
勢いのまま起き上がり、息を荒くする。
「うるさいな、なんだよ」
狩野が面倒くさそうに肩越しに振り返り、眉をひそめた。
「あ、すみませんっ」
実は慌てて立ち上がろうとするが、足元の瓦礫にぐらつき、膝をつく。
手を地面につきながら、言葉を吐き出した。
「……今日、僕が妹の夕食作る日だったんです」
言い終わるより早く、体が前に出る。
「僕、今すぐ帰らないと!!」
半ば駆けるように駅の方へ向かおうとした、その背に。
「チッ待て」
低く短い声が落ちる。
実の足が止まる。
振り返ると、狩野はバイクの横に立ったまま、顎で後部座席を示していた。
「俺のバイク、乗ってけ」
赤い空の下で、風が煙を流していく。
実は数秒、
ぽかんと見つめたまま固まった。
「……神ですか?」
◇
住宅街の角で、バイクがゆっくり減速する。
エンジン音が低く唸り、やがて止まった。
「ここだな」
狩野が短く言うと、足を地面につき、ハンドルを切ったまま前を見ていた。
実は勢いよくヘルメットを外す。髪がぐしゃりと跳ねる。
「本当に助かりました、ありがとうございました!!」
そのまま狩野へ腰を折る。
ほとんど直角に近い角度で、しばらくそのまま動かない。
狩野は片手をひらひらと振った。
視線はすでに前方へ戻っている。
「ああ。じゃあ俺は、署に戻るか──」
セルを回しかけた、その瞬間。
「ああああっ!!」
エンジンがかかりかけたところで、絶叫が割り込んだ。
ハンドルを握ったまま、狩野の動きが止まる。
数秒遅れて、ゆっくりと顔だけが横を向いた。
「うるさいな。今度はなんだよ」
視線だけが実へ刺さる。
実は言葉が出ない。
開きかけた口を閉じ、もう一度開く。
「食材、帰りに買うつもりだったんで……」
語尾が揺れる。
「ウチ、なんもないんでした……」
指先が宙で迷い、行き場をなくして下り落ちる。
口元に浮かべかけた形が、そのまま崩れる。
風が一度、空気を流す。
狩野は小さく息を吐き、口の端を下げる。視線を前に戻し、そのまま、キーを回し、アクセルを開いた。
車体が前に出る。振り返らないまま、バイクは走り出した。
「あ、あぁ……」
遠ざかる背に向けて、指先が少しだけ持ち上がる。
行き場をなくし、そのまま下りる。
喉がひくりと鳴った。
「終わった……」
◇
玄関の扉が、静かに閉まる。
実は靴を脱ぎながら、一度だけ深く息を吸う。
足音を殺して廊下を進む。
リビングの前で立ち止まり、指先でノブを押す。
「……ただいま」
リビングを覗くと、ソファの上の花が顔を上げた。
目だけがこちらを向き、数秒止まる。眉の角度はそのまま、まばたきもない。やがて親指が画面をなぞり、視線はスマホへ落ちるが、口元はまっすぐに結ばれたままだ。
実は立ったまま室内を見渡す。テーブル、シンク、それから足元のゴミ箱へと視線が滑る。
「あ」
中には、蓋に引っかかった空のコンビニ弁当の容器が二つ、重なっていた。
肩の位置が下がり、握っていた鞄が指先から抜け落ちる。口が開いたまま閉じず、視線だけが容器に固定される。
やがて壁に近づき、額をそっと押し当てた。
実はそのまましばらく動けなかった。
◇
現在。
水の音が、狭いキッチンに途切れず落ちている。
実は袖を肘までまくり、蛇口の下で一人分の食器を傾けていた。泡はもうほとんど残っていない。それでもスポンジを握り直し、同じ場所を円を描くようにこする。指先に力が入り、水滴が跳ねてシンクの縁を濡らす。
背後のリビングは静かだ。テレビもついていない。冷蔵庫の低い駆動音だけが、壁越しにかすかに響いている。
蛇口を少し強める。水流が皿の縁を叩き、細かな振動が指に伝わる。
実は顔を上げ、キッチンからテーブルへと視線を滑らせた。椅子は三脚。中央の席は、いつも通りきちんと引かれている。ランチョンマットは二枚だけが出されたまま、向かい合っていた。
──花が怒っているのは、
僕が夕食を作らなかったからじゃない。
死んだ父さんとの約束を、
僕が蔑ろにしたからだ。
母さんがいる日は、
今でも三人でテーブルを囲んでる。
それだけは変わらない。
だけど。
二人でテーブルを囲むことは、
もう、なくなってしまった──
手の中の皿に、水が薄く膜を張っている。
その中に映る顔は、輪郭が歪み、目元だけが妙に強調されている。口は半端に結ばれ、眉の線は下がりきらずに止まっていた。
実は一度まばたきをし、皿を傾ける。像が崩れ、水と一緒に流れていく。
それでも手を動かし続ける。
泡のないスポンジで、裏も縁も、中心もなぞる。水で流し、またなぞる。
光を均一に返す表面の上を、指先だけが何度も円を描く。
シンクに落ちる水音だけが、いつまでも途切れず続けていた。
◇
翌日。
放課後の教室は、部活に向かう足音が遠ざかるたびに静かになっていく。西日が窓から差し込み、机の上に長い影を落としていた。
窓際で、実と佐倉が並んで座っている。
「でさー、昨日も彼女がさあ──」
佐倉は身振りを交えながら前のめりになる。スマホの画面を見せかけては引っ込め、にやけた口元を隠そうともしない。
「──みたいな感じでさあ。いやぁ、やっぱ俺、女心の分かり手だよな〜」
「はいはい……」
実は肘をついたまま、頬を軽く支えた。
視線は佐倉の方を向いているが、焦点は少しずれている。相槌の間が、ほんのわずかに遅れた。
「なあ、どうした?また元気ないじゃん」
佐倉が身を引き、顔を覗き込む。
「え」
実は一度視線を逸らし、指先が自然と、机の木目をなぞった。
「……妹と、ちょっとさ」
実は視線を窓の外に流したまま、曖昧に言葉を落とした。
「え、妹ちゃん?まだ夕食云々で怒ってんの?」
「うん……」
実は小さく頷く。指先がシャーペンを転がし、カチ、と芯が折れる。
「でももう謝ったんじゃないの?」
佐倉は首を傾げながら、折れた芯を見下ろした。
「当日にめちゃくちゃ謝ったよ。けどやっぱり、まだ怒ってるみたいで」
実は苦笑いを浮かべかけて、すぐに消えた。
「どうやったら許してもらえるのかな……」
実はシャーペンの先で机を小さく叩く。芯の出ていない、乾いた音だけが続いた。
佐倉はその音を聞きながら、椅子の背にもたれ直した。
「俺、妹いないからわかんね」
実はむっとして、口をとがらせる。視線をそらし、椅子の脚を靴先で小さく蹴った。
「女心の分かり手」
佐倉はその様子を横目で見てから、ゆっくりと顔を正面に戻す。椅子の背にもたれ、片眉だけを上げた。
「……じゃあさ」
わざとらしく間を空ける。腕を組み、視線を実に戻す。
実は警戒するように目を細めたまま、短く返した。
「なに」
「全裸で土下座とか?」
一瞬、空気が止まる。
実は瞬きを忘れたように固まり、それからゆっくりと佐倉を見る。眉間に皺が寄っていた。
「余計距離できるよ」
「だよなー」
佐倉が後頭部をがりがりと掻きながら、力の抜けた声で笑った。
そのとき、ポケットの中で震えた感触に、実はびくりと肩を跳ねさせた。慌ててスマホを取り出し、画面を覗き込む。
「あ」
「ん?」
佐倉が眉を上げる。
実は画面に表示された時刻を二度見し、喉がひくりと鳴った。
「バイトの時間だ。僕、そろそろ行かないと」
言い終わる前に、実は立ち上がる。椅子が勢いよく引かれ、脚が床を擦って甲高い音を立てた。鞄を掴み、半開きだったファスナーを乱暴に閉める。
「へえ、何のバイト始めたの?」
佐倉が机に両肘をついて身を乗り出す。
「あー、また今度話すよ」
視線を合わせないまま、実は鞄の肩紐を引き上げる。扉の方へ体を向けたまま、片手だけひらりと振った。
佐倉はそれ以上聞かず、手をひらひらと返す。
「じゃ、また明日な」
「うん、また明日」
実は軽く手を上げ、教室の扉へと向かった。
◇
東京現災署。
自動ドアをくぐると、ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。蛍光灯の白い光が床に反射し、足音がやけに乾いて響いた。
フロアの一角では、ツグミが机に向かい、報告書にペンを走らせている。紙をめくる音と、さらさらという筆記音だけが静かに広がっていた。
「お疲れさまです」
扉の前で一度足を止め、制服の裾を整える。小さく息を吸ってから、実は声を投げた。
「あ、実くん」
ツグミがペンを止め、顔を上げる。指先でインクが滲んでいないか確かめてから、軽く手を振った。
「現災署の仕事ってね、基本は待機なんだ」
ツグミは書きかけの書類を脇に寄せながら言う。
「現災が発生したら現場に駆けつけるのが仕事。だからそれまではリラックスしといて」
「はい」
実の肩から、力が抜ける。揃えていた膝がゆるみ、胸の前で組みかけていた手がほどけた。
「本来は単独が基本なんだけど」
ツグミは新しい用紙を引き寄せ、ペン先を整えながら続ける。
「実くんはまだ研修期間だから、当分は誰かと一緒に現場に出てもらうことになるから」
「わかりました」
実は背筋を伸ばして答えた。
だが、そのまま身体が止まる。視線はどこにも定まらず、壁の時計へ向いたかと思えば、すぐに足元へ落ちた。
実の表情が、わずかに強張る。
さきほどまで張っていた背筋が、ほんの少しだけ緩んだが、瞬きの回数が増え、眉間にごく浅い皺が寄った。
唇の端がきゅっと結ばれ、そのまま動かなくなる。
実の指先が制服の裾をつまみ、力がこもった。
「……」
しばらくして、浅い息がひとつ落ちた。
「どうしたの、なんかあった?」
ペンを置いて、ツグミが首を傾げた。
「あ、ごめんなさい」
実は反射的に顔を上げる。
指先が制服の袖口をつまみ、意味もなく折り目をなぞった。
言葉が喉まで上がってきては、引き返す。口を開きかけて、閉じる。その動きを二度繰り返し、短く息を吸い込んだ。
「今、ちょっと妹と揉めちゃってて」
観念したように、打ち明けた。
「妹……」
ツグミの手が、わずかに止まる。紙の上に落ちかけた影が揺れ、視線が遠くへ流れた。
「……大丈夫ですか?」
実がそっと声をかける。
「あ、うん。大丈夫」
ツグミは瞬きをひとつし、すぐにいつもの落ち着いた目に戻った。
「妹さんとは、どんなことで揉めたの?」
実は一度だけ息を整え、言葉を探すように天井へ視線をやる。それからぽつりぽつりと話し始めた。父との約束のこと。夕食の時間を破ったこと。
途中で言葉が途切れ、指先が自分の膝をぎゅっと掴む。
「──みたいな感じで」
「僕が、父との約束を蔑ろにしたのが悪いんですけど……」
口元だけで小さく笑う。だが、すぐにその形は崩れ、握った指先に白く力がこもった。
「まぁ」
ツグミは手元のペンをくるりと回し、机の上で一度止めた。視線を実に戻し、首を傾ける。
「仲直りは、無理じゃない?」
「え」
実の顔が、ゆっくりと上がる。瞬きもせず、ツグミを見た。
「そういう時はさ」
「相手が許してくれるまで、行動で示して待つしかないと思うな」
最後の言葉を置いたあと、ほんのわずかに睫毛が伏せられる。
「私だったら、簡単には許せないかな」
空気が一段、沈む。
「ゔっ」
実の喉がひくりと鳴る。背筋が強張り、握っていた手に力が入りすぎて、関節が白く浮いた。
「ですよね……」
絞り出すように落ちた声は、机の上で小さく跳ねて消えた。
その瞬間。
――ウゥゥゥゥン。
サイレンがフロアを震わせた。
ツグミの表情がすっと引き締まる。
椅子を引いて立ち上がり、机の端のパソコンへと歩み寄った。
画面を覗き込み、流れていく情報を追う。
数秒後、ゆっくりと顔を上げて、その視線が、まっすぐ実を捉えた。
「行くよ」
「っ、はい……!!」
実も弾かれたように背筋を伸ばす。
さっきまで静かだったフロアに、足音だけが強く響く。二人は並ぶようにして、そのまま廊下へ飛び出した。
◇
窓ガラスの割れた廃ビルは、外の風をそのまま吸い込んでいた。
床に散らばった破片が、靴裏の下でかすかに鳴る。
実とツグミは間隔を空けて進む。
足音は最小限。呼吸も浅い。
崩れかけた柱の影に差しかかったところで、ツグミの手が少し上がった。
その合図で、実の足も止まる。
ひやりとしたものが、床を滑った。
光を鈍く反射する、半透明の塊。
粘りを帯びた体がゆっくりと形を変え、瓦礫の隙間を縫うように広がっていく。
実の眉が寄る。
視線を落としたまま、喉が小さく鳴った。
「……スライム?」




