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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
最終章 理想と現実編

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第78話 生者の笑顔と死者の言葉

 白を基調とした病室は、午後のやわらかな光に満ちていた。


 カーテン越しに差し込む陽射しが、静かに揺れる。消毒液の匂いと、規則正しく鳴る医療機器の電子音。どこまでも穏やかで、どこか現実感の薄い空間だった。


「んっ……」


 小さな息とともに、ベッドの上のツグミがまぶたを震わせる。


 ゆっくりと目を開けた。


 ぼやけた視界の向こう、天井の白が広がっている。身体が重い。だが、生きているという確かな感覚があった。


「ツグミさん!!」


 すぐ傍で、弾けるような声がする。


 顔を向けると、そこに実がいた。椅子から半ば立ち上がるような姿勢で、必死にこちらを覗き込んでいる。


「実くん……」


 かすれた声で名を呼びながら、ツグミは自分の身体へと視線を落とした。


 左腕。


 肘から先が、ない。


 白い包帯が幾重にも巻かれ、そこにあったはずの重みは、もう存在していなかった。あまりに整然とした断面が、かえって現実味を奪う。


「よかった……」


 隣で、実が心底安堵したように息を吐く。その表情は今にも泣き出しそうなくらい柔らかい。


 気づけば、実はずっとツグミの右手を強く握っていた。


「ふええっ!?」


 急に意識がそこへ向き、ツグミは顔を真っ赤にして慌てて手を引っ込める。


「あ、ありがとね、心配してくれてっ」


「あ、はい……?」


 病室に、しばしの静寂が落ちる。


 やがて実の視線が、ゆっくりと下がった。


 ツグミの、失われた腕へ。


「すみません……」


 ぽつりと落ちた声は、ひどく小さい。


 俯いた横顔には、強い自責の色が滲んでいた。


「え?」


 ツグミは実へ視線を移す。


「……実くんのせいじゃないよ。私からいった作戦だしね」


 やわらかく微笑む。その表情は、どこまでも穏やかだった。


「ツグミさんには、返しきれない借りを作っちゃいました……」


 実は顔を上げ、まっすぐにツグミを見つめる。


「なんでもいってくださいっ」


 椅子を引き寄せ、ぐっと身を乗り出した。


「僕にできることならっなんでもしますから」


 その目は真剣そのものだった。


「えっあのっ……」


 急に近づいた距離に、ツグミの頬は再び赤く染まった。思わず上体を引き、けれど背後はベッドの柵で、それ以上は逃げられない。


「い、いやいや、そもそもお互いおあいこだからねっ!?」


 慌てて肩をすくめ、ぶんぶんと首を振った。包帯の白が視界の端で揺れていた。


「私も、実くんに助けてもらったし……」


「いやいやっ!!」


 実は即座に首を横に振る。勢いで前髪が跳ねた。


「僕はピンピンしてますけど、ツグミさん腕なくなってますからねっ!?」


 思わず包帯へ視線を落とし、はっとして顔を上げる。言い過ぎたかと一瞬だけ迷いがよぎるが、それでも引かない。


 あの激戦の光景が脳裏をよぎる。


「余裕で僕の方がデカい借りがありますよっ!!」


「いや、私は実くんを殺そうとしたんだよっ!? 普通に私の方が借りがあるからっ!!」


 ツグミも負けじと身を乗り出す。点滴の管がわずかに揺れた。


「いや、僕はツグミさんに心まで救ってもらいましたからっ!!」


「いやそれは、私もだってばっ!!」


 互いに一歩も引かないまま、視線だけが真っ向からぶつかる。


 病室の静けさとは裏腹に、二人の間だけが妙に熱い。


 やがて、真顔のまま見つめ合っていた時間が、ふっとほどける。


 どちらからともなく、肩が震えた。


「フフフッ……」


 堪えきれずに漏れた笑いが、白い天井へ跳ねる。


「ははっ、なんですかこれ……!!」


 実もつられるように笑い、目尻を指でこする。さっきまでの険しさが嘘みたいに、表情が崩れていた。


 声を上げて笑い合う。


 胸の奥に溜まっていた重たいものが、息と一緒にほどけていった。


 失われたものは確かにある。


 けれど、それ以上に、ここに残ったぬくもりがあった。


 やがて、笑いが少しずつ静まり、名残のような吐息だけが残る。


 ツグミが、小さく息を吸った。


「あ、あのさっ」


 ツグミの声が、わずかに裏返る。


 さっきまで笑っていたはずなのに、急に落ち着きがなくなり、視線があちこちへ泳ぐ。包帯の巻かれた腕を無意識に隠すように身体をよじった。


「じつはそのっ……正直、お願いしたいことはあってさ」


 頬がみるみる赤く染まっていく。耳まで熱を帯び、まっすぐ見られないまま、ちら、と実を盗み見る。


 指先がシーツをきゅっと握る。


 病室の空気が、さっきとは別の意味で、そわりと揺れた。


 ◇


 一ヶ月後。


 現災署訓練施設。


 広大な屋内演習場には、無機質なコンクリートの床と、高く張り巡らされた補強フレーム。壁面には衝撃吸収パネルが並び、ところどころに巨大な水槽や模擬市街地ブロックが配置されている。


 その中央で——


「うわあああああっ!?」


 隊員の一人が情けない悲鳴を上げた。


 ぬらり、と伸びる半透明の触手が、あちこちで隊員たちの足首や胴に絡みつく。


「これが現想の力なのかああっ!!」


 必死に触手から逃れようともがく。だが、ぬめりを帯びたそれは軽くいなすように動き、するりと拘束を強める。


「ま、待て待て待て落ち着け俺っ……!!」


 ずるずると引きずられながら、床を叩く。


 一方、その様子を別の隊員が目で見張っていた。


「現災署の人はこんなのに今まで対処してきてたのか」


 先ほどの隊員が、息を切らしながら隣に並ぶ。


「ハァハァッ俺達、現想使えないのに戦えんのかなあ……」


 肩で息をしながら、不安を隠せない。


「や、やるしかないだろっ!!」


 そう言い返す声にも、わずかな震えが混じる。


 そのとき。


 二人の足元の影が、音もなく波打った。


 にゅるり、と黒い触手が伸び上がる。


「ヒャアッ!!」


「ヒッ!!」


 二人は同時に目を固く閉じた。


 だが。


 次の瞬間、頭に触れたのは衝撃ではなく——


 ぽん、ぽん、と。


 思いのほか優しい感触だった。


 触手は、まるで労うように二人の頭を撫でている。


「え」


 おそるおそる目を開ける。


 二人は顔を見合わせ、それから演習場の奥へと視線を向けた。


 水槽の縁にちょこんと腰かけた深海が、小さく拳を掲げている。


「(๑و•̀ω•́)و 」


 どこか得意げな顔。


「……言葉がなくてもわかるもんだな」


「ああ……」


 静かに頷く。


 深海は、今度は触手を胸の前で揺らしながら笑った。


「( ˃ ᵕ ˂ )」



 薄曇りの空の下、墓地はひどく静かだった。


 冬の終わりを思わせる冷たい風が、枯れ草を揺らし、石碑の間をすり抜けていく。遠くで小さく、風鈴のような金属音が鳴った。空は白く、光は淡く、すべてがどこか輪郭を失ったようにやわらいでいる。


 その一角。


 ひとつの墓の前に、牧野はしゃがみ込んでいた。


 両手を合わせ、目を閉じる。


「……また誕生日すっぽかされちゃったな」


 口元がわずかに持ち上がった。


 けれど、その形はすぐにほどけて、静かに揺れる。


 眼鏡の奥の瞳に映るのは、石に刻まれた名前。


──橘護。


 その文字を、指先でそっとなぞる。


 指の腹で、一画ずつ確かめるように辿る。縁に溜まった細かな砂を、親指で払う。


「護が護ってくれた世界は、ゆっくりだけど……ちゃんと前に進んでるよ」


 語りかけながら、鞄から取り出した小さな布で墓石の表面を丁寧に拭う。角の部分、文字の隙間、手の届くところをゆっくりと。


 花立ての水を入れ替え、少し位置のずれた花を整えた。


 けれど。


「……護も、責任なんて負わなくてよかったんだよ」


 布を握ったまま、手が止まった。


 そのまま額を墓石に軽く預ける。


 肩がわずかに落ちた。


「一人でっ背負わなくてもっ……」


 空いた手で、名前の刻まれた部分を覆うように触れた。


 指先が力を込めて、石をぎゅっと掴む。


 やがて、ゆっくりと額を離し、両手で墓石の側面を包むように支えた。


 まるで、そこに立っている誰かを抱きとめるように。


 風が吹く。


 静寂が、ただ静かにそこにある。


──ピロン。


 不意に、場違いな電子音が鳴った。


 牧野ははっとして顔を上げる。


 涙を拭い、ポケットからスマートフォンを取り出した。


「え、メール……?」


 今どき珍しい通知に、わずかに首を傾げながら、画面を見る。


 差出人。


 そこに表示されている名前を、牧野は瞬きもせず見つめた。


「え……」


 画面の光が、眼鏡のレンズに白く反射する。


 橘護。


 何度も、何度も目でなぞる。打ち間違いではないかと、既視感ではないかと確かめるように。


「護くん……!?」


 喉が小さく鳴る。


 指先がかすかに震え、タップしようとして一度止まる。呼吸を整え、もう一度触れた。


 画面が切り替わる。


 本文は、たった一行だけ、書かれてあった。


──愛してる──


 牧野の視界が、


 ゆっくりと滲んでいった。


「ふふっ……ぐすっ……ふふふっ」


 涙がぽろぽろと零れ落ち、画面に小さな水滴を作る。


「ほんとっ、なんにもいってくれないんだから……」


 笑いながら、そっと視線を横へ流した。


 さっきまでと変わらない、ただの石のはずなのに。


 なぜか、


 ほんの少しだけ、軽薄そうに肩をすくめたような気がした。

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