第73話 純粋な殺意と不退転な決意
昼の空が崩れかけていた。ひび割れた建物の壁面が剥がれ落ち、砕けたガラスが路上に散乱している。煙が低く流れ、逃げ惑う人々の悲鳴があちこちで重なった。
「逃げろっ!!」
「黒龍だっ!!」
「こっち来るなああっ!!」
瓦礫を踏み越えながら、人々は我先にと走る。その中心で、巨大な黒龍――焔堂が静かに佇んでいた。漆黒の鱗が鈍く光り、地を踏みしめるたびに亀裂が広がる。
やがて黒龍は、遠くへと視線をやった。瓦礫の向こう、煙の向こうに、こちらへ向かってくる人影が一つ。
「お、きたかあ」
嬉しそうに呟いた瞬間、巨躯が揺らぐ。黒い鱗がほどけるように霧散し、人の姿へと収束していく。
焔堂は軽く首を回し、肩を鳴らした。
「ん?」
目を凝らす。
その人影の後ろにさらに三つの影が見える。
「……おい実、知恵の実はどうしたんだよ。分離しちまってんじゃねえか」
一番前の人影──実は、知恵の実を握り締めたまま足を止めた。
砕けた石が、足元でかすかに鳴る。わずかに沈んだ体重が静まり、上がった顔が焔堂を捉えた。
「まあいいや。さっさとやろうぜ」
「ほら、さっさと知恵の実食えよ」
焔堂は口の端を吊り上げ、周囲へと首を巡らせる。
実もその視線を追う。
街は無残に崩れ、道路は抉れ、建物は半壊し、炎がくすぶっている。さきほどまで人々が暮らしていた日常の痕跡が、粉々になって散らばっていた。
しばらくの静寂。
風が、崩れた街路を抜けていく。
舞い上がった砂塵が二人の間を横切り、視界をかすかに揺らした。
「……僕は今までしたくないことをしない為に、戦ってきた」
実の声は大きくない。それでも、はっきりと届く。息を押し殺すでもなく、張り上げるでもなく、ただ真っ直ぐに。
「……は?」
焔堂が片眉を上げる。わずかに顎を引き、値踏みするように実を見る。
「でも今日、僕は始めて、したいことの為に戦う」
「みんなと一緒に、この現実で、生きていきたいから」
実は視線を逸らさない。瞬きも少ない。拳の中で、指の骨が白く浮いた。
「……なんだそれ」
「自己紹介だよ。してなかったから」
一拍の間。
焔堂の口角がゆっくり歪む。
「……ほーん」
「まあそれはもういいわ。さっさとそれ食えよ」
焔堂は首を傾け、指先で頭を掻く。退屈そうに息を吐き、靴先で瓦礫を軽く蹴った。
「知恵の実は食べない」
その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに軋む。
「あ?」
焔堂の表情が固まる。笑みが消え、目だけが細くなる。
「何言ってんだお前。お前らじゃ俺に勝てねえだろうが」
声が低く沈む。地面に落ちた影が、わずかに伸びる。
実は何も言わない。ただ焔堂を見つめ続ける。呼吸だけが、静かに上下する。
焔堂は舌打ちした。乾いた音が、ひび割れた路面に弾かれて散る。
「お前、忘れたのか?お前が俺を殺すのを躊躇ったせいでお前の家族は死んだんだぞ?」
「お前が知恵の実を食うのを躊躇ったせいで、お前の仲間が死んだんだぞ?」
「てめえが責任とらなきゃいけねえんじゃねえのかあ?」
一歩、距離を詰めるでもなく、ただ言葉だけを突きつけた。声は荒げていないのに、刃物のように薄く鋭い。
実の喉がわずかに上下する。握った拳に力が入り、爪が掌へ食い込む。
実は少しだけ俯いた。
「僕も、そう思ってたよ」
地面に落ちた影が、わずかに揺れる。
「……なに?」
『引き金を引く覚悟がねぇ奴が、俺に勝てる訳ねぇだろ』
「……そう思ってたから、僕はお前を殺そうとしたし」
ゆっくりと顔を上げ、焔堂へ視線を戻す。
「……自分を犠牲にしようとした」
手の中の知恵の実へ視線が落ちる。淡く脈打つ光が、指の隙間から滲む。
実は一度、強く目を閉じる。肺いっぱいに息を吸い込み、震えを押し込める。そして、目を開いた。
「でも、それは違ったんだ……!!」
「僕がするべきだったのは、お前に引き金を引くことでも、自分に引き金を引くことでもなかった」
「みんなが僕のせいで死んだからこそ、みんなの死を無駄にしない為にっ……」
声が掠れ、それでも途切れない。
『あの時俺と戦ったのが今のお前なら……どれだけ楽だったろうな』
低い声が、今度は遠くからではなく、胸の奥から響く。
「僕は今まで通り、しっかり見て、しっかり考えて、みんなと一緒にお前を倒す!!」
実は足裏に力を込めた。砕けた石が軋む。背筋が伸び、肩の震えが止まる。
「……こんな物なくてもっ」
実は知恵の実を高く掲げる。
掌の上で淡い光が脈打ち、指の隙間から零れた粒子が空気に溶けぬまに、
「僕は戦える!!」
握り込んだ。
外殻がきしむ。
硬質な感触が掌に食い込み、指先へと抵抗が返る。
光が一瞬、強く膨らみ――
次の瞬間、静かに砕けた。
知恵の実は光の粒子へと変わり、実の拳の隙間から溢れ、きらめきながら宙へ溶けていく。
淡い光は風に散り、やがて完全に消えた。
焔堂の目が見開かれる。瞳孔がわずかに開き、次の瞬間には血走った。
「てんめええっ……!!」
喉の奥から絞り出すような声。鼻がぴくりと震え、頬の筋肉が引きつらせる。こめかみに青筋が浮かび上がった。
「知恵の実はもう、二度と手に入らねえかもしれねえんだぞ……?」
わずかに掠れた声が、怒りに混じって震える。信じられないものを見る目だった。
「お前が砕いたせいで俺に勝てねえかも知んねえんだぞおおおっ!!」
怒号が叩きつけられる。空気が震え、瓦礫の破片がかすかに跳ねた。
それでも、実は視線を逸らさない。瞬き一つせずに焔堂を捉える。
「……ハハハッ、ハハハッ!!……」
焔堂は片手で顔を覆う。指の隙間から覗く口元が、歪に吊り上がった。
喉の奥で笑いがひび割れる。
「さっきからペチャクチャ言い訳並べて、結局てめえが死にたくねえだけじゃねえかよ……!!」
両手で顔を覆い、歯を食いしばる。顎の骨が軋み、笑いと怒りが混ざった息が荒く漏れる。
「現実が見えてねえクソガキが……」
指の隙間から、ぎらついた視線が、実を射抜いた。殺気が、熱を帯び、滲み出る。
「もういいよ、お前」
震えを押し殺した低い声。怒りが底で煮立っている。
「てめえの見ている幻想ごと……俺がお前をおお!!」
叫びとともに両手を振り払う。顔を上げた瞬間、瞳が爛々と光る。
「殺してやる」
実は静かに首を振った。
「殺させない、もう誰も」
声と声が、真正面から向き合い、ぶつかった。




