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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
最終章 理想と現実編

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第72話 こぼれた果実と掴んだ手

実は、ゆっくりと俯きながら歩いていた。


 足取りは重く、視線は地面に落ちたまま動かない。アスファルトの細かなひび割れが、やけに鮮明に見える。


『あの時俺と戦ったのが今のお前なら……どれだけ楽だったろうな』


 不意に、あの低い声が胸の奥で蘇る。


 自然と足が止まる。


(あの言葉……どういう意味だったんだろう)


『これから君は、この残酷な現実と君自身がどう向き合うのかを、一生懸命考えるんだ』


(現実と、どう向き合うべきなんだろう)


 ゆっくりと、手に持った知恵の実へ視線を落とした。禍々しく脈打つそれは、彼の迷いを映す鏡のようだった。


(僕は、どうするべきなんだ)


 眉を寄せ、唇を噛む。迷いと恐れと、後悔が入り混じった表情が浮かんだ。


 その時。


 ブブッ――


 スマホが震え、実は反射的にそれを取り出した。画面に表示された災害を認めた瞬間、目を見開かせる。


「焔堂っ……!!」


 顔を上げると同時に駆け出した。呼吸が荒くなり、コンクリートを打つ足音が速まる。視線はまっすぐ前へ向けられたまま、ただ距離を詰めようと。


 だが、その足が、不意に鈍った。


 視界の先。


 三つの人影が映った。


 走る勢いのまま数歩踏み込みかけて、靴底が地面を強く擦る。


 身体が前のめりに揺れ、そこでようやく止まった。


「……え」


 焦点を合わせるように目を細める。


 見間違いではないとわかった瞬間、眉が深く寄った。顎に力が入り、握った拳の指先が白くなる。


「なんでっ……」


 ツグミ、深海、牧野がそこには立っていた。


「ほっといてくださいって言ったじゃないですか!!」


「……うん」


 ツグミは一度顔を落とし、指先でスカートの端を握ったまま顔を上げた。


「これでおあいこだね」


 ぎこちない笑みを向けられ、実は目を瞬かせた。


「……え」


『これでおあいこですっ』

『私はほっといて1人で逃げてよっ!!』


 音が重なり、実はわずかに息を詰める。


「(*^_^*)」


 ツグミの横で、深海は安心させるように微笑んだ。


 そうして、実にスマホを見せる。


 その画面には、


 昨日見た生放送の続きが映っていた。


『ふざけんなよおおお!!』


 ひよりの前に集まった人だかりが大きく揺れ、その間を押し分けるようにして一人の少年がカメラの正面へ出てきた。


 肩を掴まれながらも前へ出ようとする少年の姿が、画面いっぱいに映し出されている。


「さくら……?」


 実の喉から、かすれた声が漏れる。


『お前らっ……あいつにそんな責任背負わせんなああ!!』

『あいつはっ……普通の高校生なんだよ……!!』

『何をやっても平均で、カラオケの点まで平均のっ』

『俺の、たった1人のっ……』


 掴まれた腕を振りほどこうとしながら、少年は顔を歪める。頬を伝った涙が顎先から落ち、それでも視線は逸らさない。


『親友なんだよおっ!!』


 喉が潰れそうな声とともに、肩が大きく震えていた。

 

「さくら……」


 その声を聞いた瞬間、実の指から力が抜けかける。握っていた知恵の実を落とすまいと、無意識に握り直す。


 視界が滲み、膝が折れた。


 知恵の実を握ったまま、実はその場にしゃがみ込む。


「でも……ぼくは……」


 知恵の実を持った腕で、必死に涙を拭う。


 牧野は、震える実をまっすぐに見つめたまま、一歩だけ前に出た。足元に転がる知恵の実が、淡く脈打っている。


「実くん……焔堂を倒す為のヒントを、護が残してくれてたんだ」


 牧野は声を落とし、諭すように、ゆっくりと言葉を置く。その声音には、必死に抑え込んだ焦りが滲んでいた。


 実ははっと息を詰める。


「……まもるっさんが……?」


 涙で濡れた頬のまま、ゆっくりと顔を上げた。


 牧野は小さく頷く。


「現想生装『ドラゴン』の弱点。恐らく特定できたと思う」


 牧野の声は低すぎず、高すぎず、柔らかく丸みを帯びていた。語尾を強めることなく、ひとつひとつの言葉をゆっくりと区切る。急かさず、押しつけず、ただ静かに耳へ届く音だった。


「これがあれば焔堂とも戦えるはずだよ」


「っ……」


 実は再び視線を落とし、歯を食いしばる。喉の奥で嗚咽が絡まり、呼吸が浅くなる。


「……だから、君が死ぬ必要なんてない」


 牧野の声が、かすかに震えた。それでも目は逸らさない。


「君が責任を負う必要なんて、どこにも──」


「だめなんですよおっ!!」


 実が俯いたまま、喉を裂くような声を放つ。両手で頭を掴み、指を髪に食い込ませる。


「ぼくがあ"っ……せぎにんをっとらなぎゃあ"……!!」

「はな"もっ……があさ"んもっ……がりの"ざんもっ……!!」

「僕のぜいで……しんだからあ"あ"っ!!」


 言葉が崩れ、涙と一緒に溢れ落ちる。実の膝が地面に落ち、身体が前に折れた。


 牧野は一瞬だけ目を伏せた。まぶたの裏で揺れたものを押し戻すように小さく息を整え、それから静かに告げた。


「……みんな、君に責任を負ってほしくないと思うよ」


 声は低く、まっすぐだった。抑えているが、逃げてはいない。


 重たい沈黙が落ちる。


「私も、そうだったから……」


「ひぐっ……えぐうっ……」


 実の嗚咽が途切れ途切れに漏れる。肩が上下し、崩れた姿勢のまま地面に視線を落とす。指先が土を掴み、爪の間に砂が入り込む。


 牧野は涙をこらえながら、崩れ落ちた実を見つめ続ける。


「護くんは重い責任を背負って、巨人と道連れに死んだ……」

「自分の責任と真摯に向き合って最後まで生きぬいた……彼のそんな所が、私は好きだった」


 一語ごとにわずかに間を置き、記憶を確かめるように紡ぐ。声は震えながらも、崩れない。


 悲しそうに微笑む。唇だけがかすかに上がり、目の奥は濡れたまま。


「でも、私は死なないでほしかったっ!! 巨人が暴れて、この世がめちゃくちゃになってもっ……それでよかった……!! 護くんが生きててくれるならっ!!」


 堪えていた感情が一気に溢れる。肩が震え、呼吸が荒くなる。


 眼鏡の奥に涙を浮かべ、ゆっくり息を吸った。乱れた息を整え、再び実を見つめる。


「きっとお母さんも、花ちゃんも、狩野くんも」

「……私と同じ気持ちなんじゃないかな」


 微笑む。泣き顔のまま、それでも優しく。


「でも……でもお"ぉ"っ」


 実は必死に首を振る。涙がなんども地面へと落ちる。


「実くん……!!」


 ツグミが胸を押さえながら名を呼んだ。指先が強く食い込み、息が浅い。かすれた声と一緒に、足が半歩だけ前へ出る。


「君のことを始めて狩野に聞いた時……狩野が、君のこと、こういってたんだ」

「後ろ向きだけど、2回後ろ向きになってて」

「結果的に前向きになってるって」


 言葉を探しながら、それでも途切れさせないように紡ぐ。視線は逸らさず、まっすぐ実に向けたまま。


 実の肩が小刻みに揺れる。俯いたまま、奥歯を噛み締めている。


「……君が屋敷で私を助けてくれた時、その意味がわかった」


 声が少しだけ柔らぐ。あの瞬間を思い出すように、ゆっくりと。


「君はしたくないこととしたくないことを比べて選んで、戦ってたんだよね……」

「したくないことをしない為に、したいことをしないで、生きてきたんだよね」


 震える声。それでも途中で止めない。胸の奥から押し出すように、必死に届かせる。


「う"ぐう"っ……」


 実は涙ながらに必死に頷く。喉が詰まり、声にならない。拳を握りしめたまま、何度も。


「そんなあなたのお陰でっ……私は救われた。本当に君には感謝してる」


 今度は速度を落とす。ひとつひとつ、噛みしめるように。涙で滲む視界のまま、微笑みを崩さずに。


「でも、実くんお願いっ……!!」

「もう、それ以上後ろを向かないで」

「まっすぐ前を向いて生きよう……?」


 堰を切ったように声が跳ねる。肩が震え、息が乱れる。それでも最後まで言い切る。


 実は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、ツグミを見上げた。赤く腫れた目が、真正面から彼女を捉える。


「あなた自身のために──」


 声が重なる。過去と今が交差するように。


『おまえは……おまえのっ……した──』


「あなたのしたいことをしてっ!!」


 涙でぐちゃぐちゃの顔で、それでも強く微笑んだ。


「ぼくの、したいこと……?」


 震える手から、知恵の実がこぼれ落ちる。乾いた音を立てて地面を転がり、少し離れた場所で止まった。


「ぼくの、したいことっ……ぼくの……ぼくは──」


 俯いたまま、呼吸が乱れる。


 言葉が喉に引っかかり、何度も飲み込み直す。


 涙がぽたり、ぽたりと落ち、


「ぼくはあっ!!」


 勢いよく顔を上げた。


 赤く腫れた目で、三人を見渡す。


「みんなと、生きたいっ……!!」


「現実は厳しくてっ残酷だけど、それでも……!!」


「みんなと一緒に、この現実を生きていきたい……!!」


 胸の奥から絞り出す。声が裏返り、息が切れ、それでも止めない。必死に、願うように叫んだ。


 三人が、実の目の前まで歩いてくる。間合いが縮まり、手を伸ばせば届く距離。


「うん、私もだよ」


 ツグミが涙を流しながら手を差し伸べた。


「ツグミさん……」


 その手を取る。強く握り返し、引き上げられるようにして立ち上がった。


「ヾ(・᎑・ ,,) 」


 深海が実の頭を撫でる。


 大きくも小さくもない、一定のリズムで。乱れた髪が整えられていく。


「深海さんっ……」


 牧野が肩を叩く。強すぎず、確かめるように。


「私達も戦うから」


「牧野さんっ……」


 実は三人の顔を見る。一人ずつ、順番に。


 視線が揺れずに固まった。


「みなさん……ありがとうございますっ」


 涙を流しながら、深く頭を下げる。額が落ちるほどに。


 そして顔を上げ、前を向いた。


 涙で滲んだ視界を瞬きで払い、大きく、息を吸う。目の奥で揺れていた迷いが、ゆっくりと静まっていく。


 四人は並んで歩き出した。


 みんなで、同じ方向を見据えて。

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