第71話 昨夜の借りと路地での安堵
廃墟の朝は、静かだった。
夜通し降り続いた雨はすでに上がり、崩れた窓枠の向こうには澄み渡った空が広がっている。湿ったコンクリートが朝日に照らされ、白く淡い蒸気を立ちのぼらせていた。
空には、大きな虹がかかっている。
歪んだ鉄骨と割れたガラス越しに、それは不釣り合いなほど鮮やかに弧を描いていた。昨夜ここで暴れていた異様な現象など、最初から存在しなかったかのように。
床に横たわる実の顔に、朝日が差し込む。
「んっ……んう?」
まぶしさに眉をひそめ、ゆっくりと瞼を持ち上げる。焦点の合わない視線が天井の亀裂を捉え、やがて意識が浮上していく。
しばらくぼんやりとしたまま、実は上体をゆっくりと起こした。
「え……」
反射的に、周囲へ視線を走らせる。
何も、出ていない。
空間は歪まず、怪物の輪郭も、崩れる幻想もない。ただ崩壊した廃墟の内部が広がっているだけだ。耳に入るのは、遠くで滴る水音と、朝の風の抜ける気配。
胸に手を当てる。あの奔流のような感覚はない。
「……起きたか」
背後から、低い声が落ちた。
実は肩を跳ねさせ、勢いよく振り向く。
壁にもたれかかる黒いコートの男。
背を向けたまま立つその姿は、ところどころ布が焦げ、裂けている。覗く肌は赤黒く焼け焦げ、ひび割れていた。
「サクヤ……さん……?」
目を見開き、息を呑む。
「生きてたんですか……?」
「……ギリギリな」
振り返らないまま、かすれた声が返る。
次の瞬間、男は片手をわずかに動かし、何かを実の方へ放った。
とっさに両手を伸ばす。
ぱしっ、と掌に収まる小さな重み。
「え!?……これ」
手の中にあるのは、妖しく光る果実――知恵の実だった。
壁に背を預けたまま、男は淡々と続ける。
「……俺の現想生装『巨大蜘蛛』は、特別だ」
「なんせサイズが違うだけで蜘蛛自体はこの世に五万といるからな」
「それのせいか、『巨大蜘蛛』にはフィクションと現実を分離する毒を糸から流す能力がある」
「糸を繋げて操れるのは現想生物だけだがな」
低く抑えられた声。
壁に預けた肩がわずかに落ちている。それだけで、張りつめた響きがないことがわかった。
実は果実を握ったまま、黒いコートの背を見つめた。焦げた布の裂け目から覗く赤黒い肌が、朝日に鈍く光っている。
「……なんで、僕を助けてくれたんですか……?」
喉の奥で引っかかるような声だった。
「僕は、あなたの敵で……現災署の隊員なのに……」
言葉が落ちる。
男は振り向かない。背を預けたまま、わずかに顎を上げるでもなく、ただ立っている。
風が吹き抜け、割れた窓枠が軋んだ。
返事はない。
廃墟の奥で、水滴が一つ落ちる音だけが響いた。
しばらくして、壁に背を預けたまま、男の喉が小さく動く。
「……お前には、借りがあるからな」
感情の起伏はない。ただ事実を置くような声音。
「……借り?」
実は眉を寄せる。握っていた果実が、きし、と小さく鳴った。
「僕は、あなたに何も……」
言いながら、自分の記憶を探るように視線が揺れる。
「そんなことはどうでもいい」「それより、お前に聞きたいことがある」
遮るように落ちた声は低いが、強くはない。ただ会話の流れを切り替えるためだけの響きだった。
「聞きたいこと?」
実は思わず聞き返す。指先に力が入り、果実の皮がわずかに軋む。
男は振り向かない。壁に預けた背もそのまま、視線も動かさない。
「……お前のしたいことはなんだ」
「え……?」
実は言葉を失い、瞬きを繰り返す。問いの意味を掴もうとするほど、胸の奥がざわついた。
「なんだ、答えられないのか?」
黒いコートの背が、わずかに傾ぐ。壁に預けていた体重が片側へ移る。
「前に俺に力を手にいれて何がしたかったんだ〜とか、なんとかいってたお前が」
静かな声なのに、言葉だけがまっすぐ届く。
実の喉が、ひくりと鳴った。
「いや、それは……」
言いかけて、言葉が続かない。
実は視線を落とす。床のひび割れを追うように目が動き、その先で止まる。手の中の果実の重みだけがやけに現実的だった。
間が空く。
風が吹き込み、崩れた窓枠がかすかに鳴った。
「……そんなの、選んだことないですよ」
吐き出すように落ちた声は、どこか他人事のようでもあった。
「なに?」
背後から返る短い声。抑揚はないが、わずかに間が詰まる。
実は視線を上げないまま続ける。
「……僕は今まで、したくないことをしないために、したいことをしない生き方をしてきました」
言葉を探すというより、既に知っていた答えを並べているような口調だった。
「それは、現災署に入ってからも変わりません」
「僕はしたくないことと、したくないことを比べて……マシなしたくないことをしてただけ」
「……したいことなんて、考えたことないです」
言い切ったあと、視線が落ちる。崩れた床の亀裂をなぞるように目だけが動き、そこで止まる。
間を置いて、背後から声が落ちた。
「……そんなお前が、なんで知恵の実を食らった」
問いは低く、抑えられている。
実はすぐに答えない。唇を閉じ、息を一度だけ飲み込む。手の中の果実の重みが、やけに際立った。
「……僕がしたくないことをしなかったせいで、焔堂に大切な人が3人も殺されました」
言い淀まずに続けるが、語尾だけがわずかに擦れる。
「だから僕は知恵の実を食らって、責任を取らなきゃいけないんです。護さんのように……自分の命を捨てて」
視線は上がらない。言葉を吐き切っても、顔は伏せたままだった。
「焔堂を倒すにはっ……厳しい現実と向き合うには、それしかないから」
視線は、自分の握った拳に落ちたまま動かない。
「……そうか」
背を向けたままの返事。短く、それ以上踏み込まない響き。
実はゆっくりと拳を下ろす。掌には薄く爪痕が残っている。
「分離してもらったのに……すみません」
謝罪は、目を合わせないまま零れた。
「……別にどうでもいい」
壁から背が離れる音がする。靴底が床の砂を踏む。
男は奥へ向けて一歩踏み出す。
だが、二歩目の前で止まる。
「……ただ」
顔は向けない。焼け焦げた横顔はそのまま、視線だけがわずかに動く。
「あの時俺と戦ったのが今のお前なら……どれだけ楽だったろうな」
「……え」
実は顔を上げる。
言葉の意味を掴もうとするが、掴めない。何を指しているのか、どこに向けられた言葉なのか。
男はそれ以上説明しない。
そのまま歩き出す。
黒いコートの背が、崩れた通路の奥へと小さくなっていく。足音は一定で、迷いがない。
やがて、それも聞こえなくなる。
残された実は、その場に座ったまま動かない。
虹の光が差し込み、床に淡い色を落としている。
握っていたはずの拳は、いつの間にか開いていた。
◇
廃墟を離れて、少し。
人通りのない裏路地を、サクヤが一人で歩いていた。朝の光はすでに高く、濡れたアスファルトが白く照り返している。
足取りが、わずかに乱れる。
「ぐっ……」
短い息。
壁に手をつき、そのまま体を預ける。焼け焦げた背がコンクリートに触れ、鈍い音がした。
日の光が半身を照らす。
裂けたコートの奥、腹部には大きく穿たれた穴。縁は焼けただれ、中心は深く抉れている。そこから血が絶え間なく流れ、裾を伝い、地面へ落ちていく。
廃墟を出たときから止まっていない。
「う"っぐ……」
腹を押さえるが、指の隙間から温い感触が溢れる。力を入れるたび、逆に滲む量が増える。
呼吸が浅い。
視界がわずかに滲む。
『あなたは、力を手に入れて、何がしたかったんですか……!!』
あの声が、不意に蘇る。
「俺の……したかったこと」
壁に背を預けたまま、ゆっくり顔を上げる。朝日が正面から差し込み、焼け焦げた頬を照らす。
「ずっと忘れてた……俺のしたかったこと……」
腹部から手を離す。血に濡れた掌が光を受ける。
そのまま、太陽へ伸ばす。
「……お前がしてくれたんだ」
指先が、わずかに震える。
「ツグミを……笑顔に……」
膝が折れる。
その場にしゃがみ込み、背がずるりと壁を滑る。伸ばしていた手が落ち、血の跡を引いた。
朝日を受けた焼け焦げた顔は、不思議と力が抜けていた。歪みも、苦悶もない。ただ目を閉じ、わずかに口元が緩んでいる。
路地には、光だけが静かに差していた。




