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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
最終章 理想と現実編

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第70話 廃墟の洪水と重い肩

二日後の夕方。


 二日間、関東には途切れることなく大雨が降り続いていた。空は重く垂れこめ、街全体が灰色の膜に包まれている。


「う"gがあ"j……」


 か細い声を漏らしながら、実は蒼白な顔で雨の中を歩いていた。人気のない高架沿いの通路。濡れたアスファルトに足を引きずるたび、水たまりが揺れる。


 実の触れている空も、視界の端に映るフェンスも、まるでノイズが走る映像のようにちらついている。輪郭が歪み、色がわずかにずれる。世界が現実と虚像の間で軋んでいた。


(僕の……せいだ……)

(護さんみたいに……責任を取らないと……)


 薄目を開き、ふらふらとフェンスの網にもたれながら進む。金網がきしみ、雨粒が規則的に跳ねる。


 霧の奥、フェンスの遠い向こうに街が見えた。


 高層ビルの壁面に取り付けられた巨大テレビ。そこに鮮やかなテロップが映る。


『現想災害ドラゴンに立ち向かう英雄、田中実』


 その下に、見覚えのある少女の姿。


「ひよn@さん……?」


 ひよりが、群衆の先頭に立っていた。濡れた髪を揺らしながら、強い光を宿した目で語っている。


『実先輩が救ってくれるはずです。私を助けてくれたみたいに』

『実先輩は仏のように優しい人なんです』


 画面の向こうの、瓦礫の山々、廃墟と化した渋家区で、人々がうなずき、祈るような表情を浮かべている。


 ナレーションが重なる。


『渋家区の大災害を救った少年、田中実を讃える声が日に日に大きくなっています』


 恐怖を押し隠すように。縋るように。まるで宗教の儀式のように、誰もが一つの像を信じ込もうとしていた。


「あ……がwg……」


 実は視線を落とす。睫毛の影に沈んだ瞳は力なく揺れ、表情からは感情の輪郭が薄れていた。雨が頬を伝い、涙と区別のつかないまま落ちていく。


 視界はわずかに歪み、遠くのビルもフェンスも、ノイズを帯びた映像のように揺れている。


 それでも足は止まらない。


 フェンスに肩を預け、冷たい金属に体重を預けながら、下を向いたまま一歩ずつ進む。水たまりを踏むたび、鈍い音が足元で広がった。


「焔堂m4探さなpいと……」

「僕がpmなきゃ……」


 掠れた声は雨音に溶ける。


「実くんっ!!」


 前方から、鋭く必死な声が響いた。


 実の足が止まる。ゆっくりと顔を上げ、声の方へ視線を向けた。


 雨の向こう、こちらへ駆けてくる影。


「……ツグ4mさん」


 名前を呼ぶ声は、かすれている。


 ツグミは水しぶきを上げながら駆け寄る。息を荒げ、濡れた髪を揺らしながら。


「見つかってよかった、実くん早く帰ろう?」


 安堵と焦りが混ざった表情。


 実はただ、ぼんやりとその姿を見つめる。


「かえ……る……なんで?」


 実は、感情の抜け落ちた虚ろな眼差しでツグミを見つめる。雨に濡れた瞳は光を映さず、まるでどこか遠くを覗いているようだった。


「なんでって……」


 ツグミの足が止まる。駆け寄ってきた勢いのまま一歩踏み出しかけ、そこで凍りついたように動きを失う。雨が肩を打ち、濡れた前髪の隙間から、動揺がそのまま浮かんだ。


「実くんこのままじゃ死んじゃうんだよ!?」


 声が裏返る。叫びに近い必死さが、雨音を押しのける。


「どっちにしろ僕は死ぬじゃなp@ですか……」


 実の声は低く、平坦だった。感情の起伏が削ぎ落とされたように、ただ事実を述べる調子で。


「そんなことないよ……!!」

「牧野さんが知恵の実を分離する方法を見つけ出してくれるからっ今はとにかく帰ろう……?」


 胸を押さえ、呼吸を整えようとしながら、震える声で実を見つめる。縋るような視線。


「僕が死-oなきゃ……責任取らなきゃいけ.yいんです……」


 雨に濡れた唇がわずかに動く。言葉は途切れ途切れで、足元へ落ちていく。


「っ、実くんがそんな責任負う必要ないよ……そもそも死ぬ必要なん──」


「ありますよ……」


 低い声が、静かに割り込んだ。


「……え?」


 ツグミの喉が鳴る。


「僕が人を……焔堂を殺したくなかったせj$で……」

「花と母さんはw:んだ……」

「その責任と……どう向き合うべきwiのか、僕はずっと先送りにしg/きました……」


 雨が二人の間に線を引く。実の声は崩れながらも、どこか固く閉じたままだった。


「それは……」


 ツグミが俯く。言葉を探すが、見つからない。


「そしm,ら今度は、僕が死にたくなかったせいで、狩野さg^が死んだ……」

「僕がしたくないことをしないせいで……も¥|oしたくx<ないことが起きたんです……2回も……」


 実がゆっくりと顔を上げる。濡れた睫毛の奥、光の届かない瞳がツグミを射抜く。


「僕が責任を取らなきゃいw4ないんrwす……護さんみたいに」

「命を捨4wて」


「っ、……」


 否定の言葉を絞り出そうとする。だが、続きは喉に詰まる。


 言葉にならない息だけが白く漏れ、そこで時間が止まったように二人は動かなくなる。


 雨だけが降り続いている。


 フェンスを打つ細かな音。水たまりに落ちる規則的な波紋。遠くで鳴る雷の低い唸り。


 互いの呼吸さえ、かき消されそうなほどの雨音。


 誰も、次の一言を見つけられないまま、数秒が重く落ちる。


「ツグミさん、できることがあったらなg-でもするって、以前いってくれまin-yたよね……」


 雨音だけが満ちる静寂の中、実がゆっくりと口を開く。視線は落ちたまま。


「え、うん……いったよ……?」


 戸惑いながら、ツグミはゆっくりと顔を上げて頷く。


 実はフェンスにもたれたまま、ふらふらとツグミの方へ近づく。足取りは不安定だが、まっすぐだった。


「私はあなたの為なら、なんでもする……!!」


 そう言って、ツグミはわずかに口元を緩めた。ほんの少しだけ、縋るような光がその表情に宿る。


「私は何をすれば──」


「じゃあもう、僕のことはほっといてください」


 抑えた声が、雨の中に落ちた。


「え」


 短いその一言で、二人のあいだに見えない線が引かれた。


 実はそのまま横をすり抜ける。触れそうだった距離が、すれ違う。


 緩めた口元が凍る。息を吸うことさえ忘れたように、表情が止まる。


 伸ばした手が宙に残る。行き場を失った指先が、わずかに震える。掴むはずだった温もりは、もうそこにない。


 やがて、力なくゆっくりと落ちていく。


「実くん!!」


 叫びは雨に砕かれる。

 

 振り返った時には、そこにはもう実の姿はなかった。


 さっきまで確かにあった背中も、足音も、濡れた空気の揺らぎさえも消えている。


 白く煙る雨の幕。その向こう側へ、溶けるように掻き消えていた。


 フェンスだけが静かに軋み、水たまりに落ちる雫が波紋を広げる。


 降り続く雨音だけが、無機質に響く。


 ツグミの膝から力が抜ける。アスファルトに崩れ落ちるように、その場にしゃがみ込んだ。


 握りしめた拳が濡れた地面に触れ、冷たさがじわりと染み込む。


「うっ……ひぐっ……」


 俯いた身体を、雨粒が何度も、何度も叩いていた。



 深夜。


 人気の途絶えた廃墟ビルは、雨上がりの湿気を抱えたまま沈黙していた。割れた窓から月明かりが差し込み、崩れた壁と剥き出しの鉄骨を青白く照らしている。風が吹き抜けるたび、どこかで金属片がかすかに鳴った。


「あ"か"|0|あ"|rwg→0まry4?iy-6"あ"っ!!」


 床に転がりながら、実が頭を抱えてうなされている。埃にまみれたコンクリートの上を転がり、背中を打ちつけ、喉の奥から壊れたような声を漏らす。


 指が髪を掻きむしる。


 爪が頭皮に食い込み、呼吸は浅く、速い。


 実の周囲で、様々なフィクションが現れては消えていた。


 巨大な甲冑の騎士が空間から突き出し、次の瞬間には硝子のように砕け散る。翼を持つ怪物、無数の目を持つ異形、光る剣、崩れる城郭――どれも輪郭が不安定なまま、瞬きする間に明滅し、霧散する。


 空間そのものがノイズを帯び、歪み、軋んでいる。


 そして――声。


『今日の晩ご飯どうしよう』 『ポイント今日までだった』 『寒い……』 『あと五分だけ寝たい』 『なんで既読つかないの』 『死にたくない』 『ヒーローなんでしょ?』 『牛乳買わなきゃ』 『課題やってない』 『助けて』 『ママ、見て』 『もう無理』 『あと一駅』 『誰か褒めて』 『また雨か』 『殺せ』 『ガチャ当たれ』 『痛い』 『明日休みたい』 『好き』 『裏切るな』 『今日こそ言おうかな』 『腹減った』 『生きて』 『責任を取れ』 『眠い』 『ありがとう』 『鍵閉めたっけ』 『怖い』 『頑張って』 『なんで私だけ』 『救ってくれるはずだ』


 老若男女、泣き声、笑い声、怒号、囁き。


 今この世にいる人間全員の声が、一斉に頭の中へ流れ込んでくるかのように。


「あ"rXだwい"rptい"9rい"yい"tっ!!」


 涙を流しながら、充血した目を見開く。顔は真っ赤に染まり、歯を食いしばり、床に寝転がったまま足をばたつかせてもがく。靴底がコンクリートを打ち、鈍い音を立てる。


「う"X@.る"yg6ざw4q3ぃ……」


 かすれた拒絶。


 次の瞬間、白目を向き、全身の力が抜けた。


 動きが、ピタッと止まる。


 だが、実の周囲ではなお激しくフィクションが出ては消えを繰り返していた。空間が裂け、床が抉れ、壁が内側から殴られたように膨れ上がる。


 ――ボコッ。


 ――バキンッ。


 見えない衝撃が廃墟を叩き、コンクリートが砕け、天井の一部が崩れ落ちた。鉄骨が歪み、床に蜘蛛の巣のような亀裂が走る。


 実は動かないまま、その中心に横たわっている。


 トタッ、トタッ。


 静まり返った廃墟に、足音が響く。


 規則的で、迷いのない足取り。


 倒れる実と、荒れ狂うフィクションの明滅の奥に――


 黒い人影が、ゆっくりと姿を現した。

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