第68話 自罰の果実と赤い空
「ぼ、ぼくのせいで……またっ」
下顎がカタカタと鳴り続ける。歯と歯がぶつかり、唇がうまく閉じない。
──狩野さんが死んだ。
僕が最初から、
僕が焔堂を殺せなかったから、
先送りにしてきたせいだ。
僕のせいだ──
「実くんっ!!」
黒龍の咆哮が響く中、通りの奥から三人の姿が見えた。
崩れた車道を避け、倒れた標識の間をすり抜けながら駆けてくる。
牧野を先頭に、ツグミと深海が続く。
爆音に遅れて、現場へ駆けつけた。
「嘘っ……」
ツグミの視線が、黒龍の巨体の下――ひび割れた路面へと落ちる。
瓦礫にまみれて転がる、見覚えのある足。
肩が小刻みに震え、喉の奥がひきつる。
視界の端が白く滲む。呼吸が吸えない。膝の力が抜けかけ、足先から冷たいものが這い上がってくる。
「花も……母さんも」
声が割れる。喉の奥で空気が引っかかり、うまく吐き出せない。胸郭が痙攣するみたいに上下して、吸うたびに肺がひりつく。
視界の奥で、黒龍の影が揺れる。
──もう見たくなかったのに、
僕のせいだ。
逃げなければ、
死にたくないなんて思わなければ、
全部、僕のせいだ──
思考が同じ場所を何度も踏み抜く。抜け出せない。
巨体が軋み、鱗が崩れ落ちる。黒が溶けるように剥がれ、内側から人の輪郭が現れる。骨が縮み、翼が裂け、地面に影が落ちる。
焔堂が立っていた。
「ハハッ……ほらよ」
指先で弾くように、赤黒い果実を放る。
硬質な音を立ててアスファルトに当たり、乾いた跳ね返りを繰り返しながら、実の足元で止まった。
「だめ……」
かすれた声が背後で崩れる。
実は振り向かない。
俯いたまま、足元の果実を見下ろす。光沢のある皮に、粉塵が薄く積もっている。鼓動が、耳の内側でうるさい。
「僕が……最初から……っ」
奥歯が軋む。こめかみが脈打つ。目尻に熱が滲み、視界が歪む。
それでも、視線だけは逸らせなかった。
──僕のせいだ。
責任をとらないと、
僕のせいだ。
僕のせいだ。
僕のせいだ──
実は果実を握りしめたまま、焔堂を見る。
焔堂は口角を吊り上げ、喉の奥で笑っている。期待と愉悦が混ざった、濁った目。
「実くんダメ──」
背後で叫びが裂ける。
「こうしておけばあっ!!」
歯をむき出しにして、果実に噛みつく。
硬い皮が裂ける鈍い音。
次の瞬間。
赤黒い果汁が弾け、唇の端から滴り落ちる。
喉が強く上下し、砕けた果肉を無理やり飲み込んだ。
────────
「う"あ"があ40"あ"あ¥6m4"あgkあ"g6h6Gw48!!」
片手で頭を抱え込み、指が髪を引き毟る。
もう片方の腕は空を掻き、爪先が虚空を裂くように震えた。
背骨が限界まで反り、関節が軋む。
喉の奥から濁った絶叫が途切れ途切れに噴き出す。
足元のアスファルトに細かな亀裂が走り、破片が跳ねた。
「そんな……」
ツグミの膝が崩れ落ちる。支えを失った体が前のめりに傾き、涙が頬を伝って砕けた地面へ落ちる。
「アアハハハハッ!!」
焔堂の身体が裂けた。黒が皮膚を覆い、骨格が膨張し、翼が爆ぜるように広がる。黒龍の巨体が再び街に影を落とす。
実の掻いた空間が歪む。
空気がねじれ、裂け目の奥に異様な光景が浮かんだ。
天を貫く世界樹、禍々しい城、輪郭の定まらない異形の神、翼を広げる八咫烏、死霊を従えた影。
それだけではない。
見たこともない海が一瞬だけ空中に広がり、巨大な影がその下を泳ぐ。無数の塔が林立する都市が逆さまにぶら下がり、砂漠を埋め尽くす軍勢が砂嵐ごと噴き出す。氷に閉ざされた大地、燃え続ける戦場、歯車でできた天球、星を抱いた獣の輪郭。
断片が、無秩序に溢れ出す。
現れては崩れ、重なっては消える。泡立つように生まれ、弾け、また別の何かに塗り替わる。
視界が追いつかない速さで、実の周りの世界のみ入れ替わっていく。
「あ"g54e7=あ"46hm0)ぁ"t11jk0」
目が充血し、涙が溢れ続ける。歯が打ち鳴らされ、全身が激しく痙攣する。
空間の歪みは、なお広がっていく。
「いくぜえええっ!!」
黒龍が地を砕きながら突進する。巨体が前傾し、爪がアスファルトを抉る。翼が一振りされただけで、粉塵と瓦礫が暴風のように巻き上がる。
「'1m3あ"thj1あ"あ"っ!!」
実の喉から、言葉にならない音が迸る。
次の瞬間。
空気が横殴りに歪む。
「はあああっ!?」
衝突音すら置き去りにする圧が、黒龍の側面を叩きつける。
──ドゴオオオオンッ!!
巨体が弾丸のように吹き飛び、ビルの外壁へ叩き込まれる。コンクリートが爆ぜ、鉄骨がむき出しになる。衝撃で周囲の窓ガラスが一斉に砕け散る。
「うあがはあ"あ"っ!!」
地面へ落下し、路面を滑る。背中の鱗が削れ、黒い破片が火花とともに飛び散る。
「アガハハハッ!! んだよ最高じゃねえかよお!!」
削れた鱗を見下ろし、血を滲ませながら笑う。
その視線の先。
実が、異様な速度で迫っている。
足が地面に触れているのかすら分からない。残像を引き、紫に変色した顔のまま、半分白目を剥いている。
「'464n4py*ぼ607く07のg6せg」
腕が振り下ろされる。
音が、消える。
黒龍の足元から一直線に空間が削げ落ちる。二本の指と、その下の地面ごと、切断面だけを残して消失した。
「いでえええっ!!」
遅れて激痛が走り、黒龍が絶叫する。断面から黒い血が噴き出し、蒸気のように立ち上る。
「せro4oき7=80にpyg31pを」
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、なおも、実が再び腕を振る。
空間がめくれ上がる。
そこから、長く湾曲した牙を持つ古代の巨獣が這い出る。
大地を踏み砕きながら、黒龍へ一直線に突進。
「アガア”ハハハッ」
牙が腹部に深々と突き刺さった。巨体が持ち上がり、そのまま空高く吹き飛ばされる。
次の瞬間、巨獣は霧のように消える。
実の周囲で、無数の空想物<<フィクション>>が明滅する。
巨大な剣が一瞬だけ出現しては崩れ、無数の魔法陣が足元に重なり、天使の翼が背後に広がったかと思えば腐った腕が地面から伸びる。戦艦の砲塔、竜巻、氷柱、炎の柱、鎖、影の軍勢。
生まれては砕け、溶け、別の何かに塗り替わる。
顔は紫に変色し、首筋には血管が浮き上がる。身体は赤く染まり、全身が震え続けている。半分白目を剥いたまま、涙と涎を垂らし、喉を引きつらせて嗚咽した。
「これが……知恵の実の力……」
牧野の呟きが、かすかに震える。
その光景を、遠巻きに逃げ遅れた市民たちが見ていた。
瓦礫の陰にしゃがみ込んだ一人の男だけが、震える手でスマホを向けている。
少し離れた場所では、スーツ姿の男が呆然と立ち尽くし、買い物袋を抱えた女性が子どもを背中に庇いながら様子を窺う。数人の若者が顔を引きつらせたまま空を見上げている。
「おい、あいつ、あんなに苦しんで戦ってくれてんのか……?」
「頑張ってえっ!!」
「倒せええ!!」
「やっちまええ!!」
「早く終わらせろよ!!」
恐怖と焦りが混じった声が、あちこちから飛んできた。
──ドゴオオオオンッ!!
黒龍が地面へと落ちた。
砕けた路面が波打ち、衝撃が周囲の瓦礫を跳ね上げる。夕日がその巨体を赤く染め、血のような光が鱗の隙間に溜まる。
「あ"か"っ……ハハハアッ」
「残念だけど時間みたいだなあ……」
黒龍は喉の奥で笑いながら、ゆっくりと上体を起こす。傷口から煙のように熱が立ちのぼる。そのまま、翼が大きく広がらせ、夕焼けを遮った。
「じゃあなあっ!! また今度決着つけようぜえ!!」
強い羽ばたきが風圧となって地面を叩く。瓦礫と砂塵が舞い上がり、黒龍の影が街を横切る。
空へ。
その巨体が、赤く燃える雲の中へ溶けていく。
「つ!!6(ま"76で849え"pgy8t6え"?w@yぇ゙!!」
実が走る。
不自然に緑へ変色した腕を振り回し、足取りは崩れかけながらも止まらない。地面を踏み込むたびに亀裂が走る。
「実くん、まって!!」
背後の声も届かない。
関節が異様な角度に折れ曲がり、次の瞬間、跳躍。
アスファルトが爆ぜる。実の身体が一直線に空を射抜く。夕日の残光を引き裂き、黒龍を追って高度を上げていく。
やがて二つの影は、燃える雲の奥へ消えた。
「まって……」
ツグミはその場に立ち尽くす。
涙で滲んだ視界のまま、赤く染まる空を見上げることしかできなかった。




