第67話 不器用な継承と赤い飛沫
街は、すでに原形を失っていた。
空を裂くような咆哮とともに、巨大な黒龍が旋回する。摩天楼は根元からへし折られ、砕けたコンクリートが雨のように降り注ぐ。燃え上がるビル群は赤く歪み、熱で揺らぐ空気が視界を滲ませていた。アスファルトはひび割れ、溶け、車両は押し潰され、炎の中で黒煙を吐き続けている。
地獄絵図。
過去最大の現想災害となるのは、明白だった。
その中心を、黒龍は愉悦を孕んだ巨体で踏み荒らしていた。
標的は一人。
狩野。
巨大な翼がひと振りされるたび、衝撃波が街路樹をなぎ倒し、建物の壁面を剥がす。
「カアアアッ!! 逃げ足はええなあっ!!」
空を震わせるその声は、喉の奥で笑いを滲ませ、狩りを楽しむ狂気を隠そうともしない。
狩野は瓦礫を蹴散らしながら全力で駆ける。
(くっそ、まじでギリギリだぞこれっ!!)
背後で爆ぜる音。次の瞬間、ビルの上層が崩れ落ちる。粉塵と火炎が追いすがる。
路上には、すでに多くの死体が転がっていた。黒く焦げたもの、押し潰されたもの、動かないもの。
それでも、生き残った市民たちは必死に逃げ惑う。
「いやだ……いやだあああっ!!」
「助けてくれ!!」
「こっちだ、こっちに逃げろ!!」
混乱の渦の中、一人の少年が瓦礫に足を取られた。
「ああっ!!」
前のめりに転び、アスファルトに叩きつけられる。
狩野は走りながら、そちらへ視線を向けた。
(あいつ……)
『いや、感謝する必要ねぇって!! こいつらのせいでこの災害が起きたんだぜ……』
脳裏をよぎる、かつて耳にした皮肉な声。
(あの時のガキ……)
(あんなやつ放って置いて、いや──)
少年は起き上がれず、足を震わせている。
「う"あ"あっ」
喉を引きつらせ、地面を掴む。
背後で黒龍が大きく息を吸い込んだ。
次の瞬間、灼熱の奔流が吐き出される。
炎が街路を一直線に焼き払う。
『おばちゃんは、若い子が苦しむ姿を見たくないのよ』
記憶の奥で、柔らかな声が重なる。
「っ!!」
狩野の喉が短く鳴る。
(井川さんこんな時あんたなら……)
進路を変え、倒れた少年へと飛び込む。
そして――
少年の体を、全力で押し飛ばした。
「あ"あ"あ"あ"あ"っ!!」
次の瞬間、灼熱が背後から叩きつけられる。
炎が半身を包み込む。衣服が一瞬で焼け落ち、皮膚を舐め、肉を焦がし、脂が弾ける匂いが立ちのぼる。
「あ"があ"っ!!」
視界が白く弾ける。
耳鳴り。
膝が砕けそうになるのを、歯を食いしばって耐える。
「……え」
呆然とした少年の声。
「おいガキ!! 早く逃げろよバカがあ!!」
燃え上がる身体のまま、怒鳴った。声すら焦げるように。
「うっああああ!!」
少年はようやく我に返り、恐怖に押し出されるように立ち上がる。足がもつれ、それでも転びそうになりながら走っていく。振り返らない。
炎が肩から胸へと回り込み、皮膚を裂くような痛みが遅れて押し寄せる。
(感謝もねえのかよ……)
(井川さん、やっぱ俺はあんたみたいには思えねえわ)
力が抜ける。
膝が砕け、アスファルトに崩れ落ちる。
焼けた地面に触れた瞬間、さらに熱が食い込んだ。
視界の端で、少年の小さな背中が遠ざかっていく。
その背後から――
ドン、と地面が揺れる。
巨大な足音が、ゆっくりと、確実に近づいてくる。
アスファルトがひび割れ、瓦礫が跳ねる。
黒龍の影が、炎越しに覆いかぶさった。
(……でも、今の俺)
(ちょっとは、カッコいいのかな……)
半身に走る激痛。視界が赤く滲む。呼吸をするたび、焼けた肺が軋む。
それでも、狩野は俯きながら微かに笑った。
その笑みが形になった瞬間、影が覆いかぶさる。
次の瞬間、巨大な爪が彼を掴み上げた。
焼けただれた肉に爪が食い込み、骨が軋む音が内側で響く。
「ようやく、捕まえたあ!!」
黒龍の喉が震える。低く濁った笑いが混じり、心底嬉しそうな声が頭上から降ってくる。
「っ、狩野さんっ!!」
必死な叫びが、崩れた街路に反響する。
掴まれたまま、狩野はゆっくりと声の方へ顔を向けた。
そこに立っていたのは実だった。
炎に照らされ、恐怖と不安で顔を歪めながら、それでも一歩も退かずに立っている。拳を強く握り締め、唇を噛みしめて。
『誰かが今にも死にそうで、
僕には、それをどうにかできる力があって……!!』
『なのに、何もしないなんて――
そんな生き方は……したくないんです』
その言葉が、焼けつく意識の奥で鮮明に蘇る。
(井川さん……みのるさ)
(あんたとちょっと似てんだよな)
(……俺があんたにずっと言いたかったこと──)
狩野は、痛みで歪んだ顔のまま、わずかに口角を上げる。
「みのる……おまえはっ……」
「ハハハッ!! 絶好のタイミングじゃねえかよ!!」
黒龍は首を傾け、掴み上げた狩野を実の前へと突き出す。見せびらかす玩具のように。
「や、やめ……や、やめろ」
実の下顎が激しく震える。
視線は黒龍の顔ではなく、その手に掴まれた狩野の身体に縫い付けられている。
指が空を掴むように開き、また強く握り締められる。爪が掌に食い込み、薄く血が滲む。
膝が一瞬だけ折れかける。それでも倒れず、靴底がアスファルトを強く擦った。
「やめろおおおっ!!」
次の瞬間、地面を蹴る。
肩を前に突き出し、腕を振り、息を乱しながら一直線に駆け出した。
黒龍の爪は、すでに狩野の胴を深く締め上げていた。
焼けただれた半身にさらに圧がかかり、肋骨が軋む。肺が押し潰され、息が細く漏れるだけになる。
視界が揺れる。実の姿が二重にぶれ、炎の光に滲む。
それでも、狩野は喉を震わせる。
血の混じった息を吐きながら、言葉を押し出そうとする。
「おまえは……おまえのっ……した──」
その声が、空気を震わせきる前に。
──グチャリッ
骨が砕ける鈍い感触が、湿った音となって空気を裂いた。
ぼちゃり。
何かが落ちる。
赤い飛沫が、焦げたアスファルトに散る。
「あ……ああっ……あああ」
実の足の力が抜け、その場にしゃがみ込む。
視線が、ゆっくりと地面へ落ちる。
黒龍の赤く染まった手の下には、
見覚えのある足が、無慈悲にも転がっていた。




