第66話 消費される意志と空の椅子
昼。
狩野は、都会の大通りを一人で歩いていた。
ガラス張りの高層ビルが空を切り取り、陽光を反射して眩しく光っている。車のクラクション、信号の電子音、途切れない人の流れ。誰もが自分の生活を急ぎ、立ち止まらない街。
その雑踏の中を、狩野は俯き加減で進んでいた。
ふと、交差点の巨大モニターが視界に入る。
足が、わずかに止まった。
映し出されているのは、討論系ニュース番組だった。
『そもそも“現災署”という組織自体、今回の告発で初めて名前を知ったという方も多いのではないでしょうか』
『これまで表向きには“災害対策の一部署”という扱いでしたからね』
『しかし橘想氏の証言が事実なら、話はまったく変わってきます』
スタジオのコメンテーターたちが、慎重な口調で続ける。
『国はどこまで把握していたのか』
『実験という言葉が事実であれば、説明責任は免れません』
『情報規制があったのかどうか、その一点だけでも明らかにすべきでしょう』
画面下には、「“現想災害”は国の実験か?」というテロップ。
その映像を、歩道の端で立ち止まった女子高生たちが眺めていた。
「現災署? なにそれ」
「いや知らんし。なんか裏でなんかやってた系?」
「闇深〜」
「普通にこわ。てか国なにしてんのって感じ」
軽い笑い混じりの声。
深刻さよりも、ゴシップに近い興味。
狩野は、顔を下げた。
視界がアスファルトに落ちる。
拳が、無意識に握られていた。
(俺達が……あんたが戦った意味ってなんだったんだろうな)
胸の奥が、鈍く軋む。
誰にも知られないまま。
理解もされないまま。
ただ“怪しい組織”として消費されていく。
モニターの映像が切り替わる。
『続いて、天気予報です。きょうは一日を通して晴れる見込みです。夜は満月がきれいに見られそうですね』
明るい女性アナウンサーの声。
先ほどまでの議論が嘘のような、軽やかなトーン。
画面には青空の映像と、夜の月の予想図。
狩野は、ゆっくりと顔を上げた。
ビルの隙間から覗く、昼の空。
(井川さん……俺やるせねえよ)
眩しさに目を細める。
(……あんたの善意までもが、否定されてる気がしてさ)
奥歯を噛み締める。
苦悶の表情が浮かぶ。
次の瞬間、狩野は足を速めた。
逃げるように、現実から距離を取るように。
その時、
「あ、見つけた!!」
背後から、弾む声。
狩野ははっとして振り返る。
人混みの中。
一人の男が立っていた。
スマホを掲げ、口元を吊り上げている。
狩野の目が、自然と見開かれた。
「お前……!?」
焔堂だった。
黒髪を風に揺らし、愉快そうに笑っている。
焔堂はニヤリと笑い、スマホを狩野に向けた。
「ハハハッお前ら有名人だなあ……」
「こんな、簡単にみつかるなんてよお」
画面には、SNSの投稿が並んでいる。
《現災署隊員 狩野真、見つけた!!》
《みんな気をつけて!! 渋家区にいる!!》
《写真これじゃね?》
拡散のマークが、無数に光っていた。
(くっ……今はまずい!!)
狩野は反射的に空を見上げる。
雲ひとつない、真昼の青空。
逃げ場のない開けた街。
焔堂の笑みが、歪む。
「やっぱあいつを本気にさせるにはさあ……」
「誰か殺すのが一番だよなああっ!!」
その瞬間。
焔堂の身体が軋んだ。
骨が膨張し、皮膚が裂けるように黒い鱗へと変わる。
背が伸び、腕が歪み、巨大な翼が音を立てて広がる。
黒龍。
禍々しい咆哮が、ビル街に轟いた。
「ふざけんな、クソッ!!」
狩野は後方へ飛び退く。
次の瞬間、アスファルトが砕け、車が宙を舞った。
「きゃあああっ!!」
「なにあれっ!?」
「逃げてぇぇ!!」
悲鳴が連鎖する。
黒龍の尾が振るわれ、街路樹がへし折れ、ビルの窓ガラスが爆ぜる。
圧倒的な暴威が、都市を蹂躙した。
◇
──現災署。
執務室には、古い蛍光灯の白い光が落ちている。
キーボードを叩く音が、静まり返った空間に規則的に響いていた。
実と牧野は、それぞれの机でパソコンに向かっている。
空気が重い。
それは、爆発寸前の緊張というより、じわじわと胸を締めつけるような圧迫感だった。
そのとき。
デスクの端に置かれた電話が鳴る。
唐突な着信音に、実の肩がびくりと揺れた。
牧野は一瞬だけ目を伏せ、すぐに受話器を取る。
「狩野くん、どうしたの?」
声は落ち着いている。
だが、その横顔はわずかに強張っていた。
『まじで、ヤバイッ』
受話器越しに、何かが砕けるような音。
遠くで響く轟音。
牧野の眉が、きゅっと寄る。
『っすよこれ!! 焔堂が渋家区で暴れてるっす!!』
実の目が見開かれる。
「なっ!!」
椅子を倒しかける勢いで立ち上がる。
喉が乾き、声がわずかに裏返った。
牧野の指先が、受話器を強く握りしめる。
白くなるほどに。
『あいつの狙いは俺だ!! 俺を殺して実に知恵の実を食わせようとして──』
言葉の向こうで、怒号と悲鳴が混ざる。
実の唇が震えた。
視線が宙を彷徨う。
渋家区という地名が、頭の中で具体的な街並みに変わる。
人通りの多い交差点。
商業施設。
休日の家族連れ。
「あんな都会でっ……あいつが……?」
声は掠れていた。
牧野は目を閉じ、深く息を吸う。
「わかった、今すぐみんなで向かう。もう少しだけ耐えて!!」
通話を切る。
さっきまでと同じ部屋のはずなのに、空気の質が変わっていた。
実は立ち尽くしたまま、拳を握っている。
爪が掌に食い込んでいるのに、気づいていない。
牧野は横目でその顔を見る。
強い責任感と、恐怖と、焦り。
全部が同時に浮かんでいる。
(実くんが知恵の実を食らえば、実くんが焔堂以上の災害になる危険性だってある……)
最悪の想定が、冷たく胸をなぞる。
(実くんには、ツグミちゃんと深海さんと一緒に来てもらう方が最悪の事態は避けられるかな……)
理性と感情がせめぎ合う。
牧野は顔を上げた。
「実くん!! 現場には私が先に向かうから、実くんはまず、深海さんとツグミちゃんに連絡し──」
振り返ったその瞬間、そこに実の姿はなかった。
半開きのドアが、誰もいない空気を撫でるように揺れていた。




