第65話 不気味な口端と溢れた普通
「……田中実だ」
焔堂の声が、崩壊した研究室の空間に落ちた。
瓦礫と砕けたガラスが床一面に散らばり、培養液がまだ細く流れている。崩れた天井から差し込む白い光が、埃を照らして漂わせている。
空気は、重く沈んでいた。
「ぼくが……?」
実の喉から掠れた声が漏れる。
床に手をついたまま顔を上げ、信じられないものを見るように焔堂を見つめた。瞳が揺れ、口元がわずかに開いたまま閉じない。
焔堂は黄金の果実を掌で転がした。
「そうだ。お前が知恵の実を食えれば、ちょー強くなるんだよ」
指先で軽く弾かれた果実が、掌の上でくるりと回る。
「母さんの敵が討てるかもなあ?」
くつくつと喉を鳴らす。
「あーと姉ちゃんもいたか……あれ、妹だっけ?」
一瞬だけ首を傾げてから、鼻で笑った。
「まあどうでもいいか」
「おまえっ……!!」
実の目が見開かれる。
奥歯が強く噛み合い、頬の筋肉がぴくりと震えた。
焔堂は肩を揺らして笑うと、果実を軽く跳ね上げた。
「ほら、さっさと食えよ」
掌の上で転がしながら、今にも放るような動きを見せる。
「ほら、ほら」
その様子を睨みながら、実の身体が前へ出る。
ふらつく足で一歩踏み出した。
「まって、実くん!!」
背後から飛んできた声に、実の足が止まる。振り返ると、
崩れた壁にもたれながら、牧野が肩に刺さった瓦礫を押さえていた。血が指の隙間から滲んでいる。それでも視線だけは鋭く焔堂を睨みつけていた。
「橘想と違ってあなたは現想生物じゃない。人間の身体じゃ危険過ぎると思う。第一──」
言葉の途中で一度息を吸い直す。
「焔堂のいうことが正しいなんて保証はない」
「チッ……」
舌打ちが落ちる。
焔堂は肩をすくめた。
「しらけるこというなよ。眼鏡のねえちゃん」
手にした知恵の実を指先でくるりと回しながら、背後を親指で指す。
「疑うんならなら、橘想の研究データを調べろよ。そこにいっーぱいあるからよお?」
焔堂は指先で果実をくるりと回した。
「まあでもよお、実。俺はお前に聞いてみてえなあ?」
口角が吊り上がる。
「家族の敵討ちたいだろ?」
わざと間を置く。
「おめえのせいで死んだんだからなあ?」
その言葉に、実の視線が焔堂へ向く。
奥歯がきしむほど、強く。
──今まで僕が見てきた人達はみんな、
共感できるしたいことを持ってた。
でも、こいつは違う。
こいつは、ただ、暴れたいだけ。
ただ、戦いたいだけ。
僕の目の前にいるのは、人の形をした、
災害だ──
「僕はああっ!!」
実の足が前へ出る。瓦礫を踏み越え、焔堂へ向かう。
「実くんっ!!」
背後で牧野の声が追いかけてくる。
(やっぱりこいつは)
足は止まらない。
「知恵の実を食べたら──」
(殺さなきゃ。僕が──)
「──君が死んじゃうかもしれないんだよ!!」
その言葉が鮮明に耳に響いた。
実の肩がびくりと揺れる。
『死にそうになったら、ちゃんと逃げてよ』
言葉が、脳裏に蘇る。
「……はな」
唇がかすかに動く。眉が寄り、視線が床へ落ちる。
(でも、コイツを野放しにはっ……)
震える唇を手で押さえた。
(また、誰が死ぬのだけはっ……!!)
息がうまく整わない。
喉が鳴る。
吸っても、吸っても、胸の奥まで届かない。
瓦礫の向こうで、なにかが崩れる小さな音がした。
「たべなぃ……」
聞こえてきたのは、
自分の声。
実の目が見開かれた。
(……え?)
焔堂は眉をひそめる。
「……なんだよ。つまんねえなあ」
手の中の知恵の実を、だらりと下げる。
その背中から、龍の翼が音もなく広がった。黒い膜が空気を押し、埃が舞い上がる。
「まあ、いいや」
焔堂は軽く膝を曲げた。
「気が変わったら食ってくれよな?」
次の瞬間。
爆風のような羽ばたき。
巨体が天井の穴へ跳び上がる。
背を向けたまま空へ昇り――
ふと、顔だけ振り返る。
口の端がゆっくり吊り上がった。
「責任を取ってさあ?」
それだけ。
それだけを言い残して、焔堂は空へと消えた。
羽音が遠ざかる。
やがて、それも聞こえなくなった。
残ったのは、瓦礫の匂いと、止まったままの空気だけ。
実はその場に立ち尽くす。
口がわずかに開き、視線が宙に止まったまま動かない。
──食べるっていうつもりだったのに。
なんで僕は、
食べないって。
なんで……?
なんで──
「実くんっ」
ツグミが駆け寄ってくる。息を切らし、不安げな顔のまま。
「実くん。これでいいんだよ。あなたが死ぬリスクを背負う必要なんてないよ」
そっと肩に手を置いた。
その瞬間。
実の目から、光が抜けた。
──ああ、そうか。
僕は、ただ──
実は空を見上げた。
焔堂が消えていった、白みはじめた空を。
口の端を、かすかに引きつらせて。
──死にたくなかったんだ──
◇
──三日後。
灰色の空の下、現災署の建物が静かに佇んでいる。
その周囲を取り囲むように、市民たちが押し寄せている。
怒号は、もはや不安ではない。
明確な怒りだった。
「動画は本当なんだろ!?」
「現想災害は国の実験だったって言えよ!!」
「防災省が潰れたのも隠蔽失敗したからじゃねえのか!?」
「俺の家族が巻き込まれた事故も現想だったんだろ!?」
「橘想は嘘ついてなかったんじゃないのか!!」
「現災署もグルなんだろうが!!」
スマホを掲げ、動画の画面を見せつける者もいる。
拡散された映像は、もはや都市伝説ではない。
“防災省直属の現災署によって”
その一文が、怒りの矛先をここへ向けていた。
封鎖線の向こうで、職員たちが必死に対応している。
窓のそばに立った狩野は、外に押し寄せる市民の群れを見下ろした。
「暴動は収まんねぇな……」
深海は椅子に座ったまま、肩を落としている。
「( ;∀;)」
ツグミは腕を組み、低い声で静かに呟いた。
「防災省が巨人に潰されて指揮系統が全滅したからね。正直どう収集つけるのかわかんないな……」
「収集ねぇ……」
狩野の視線が、ゆっくりと実へ向く。
実は机の表面に視線を落としたまま微動だにせず、膝の上で拳をぎゅっと握りしめていた。指先にまで力が入り、白くなっている。
「僕は……本当にあの時知恵の実を食べなくてよかったんでしょうか」
声はかすれ、言葉に迷いと不安が滲む。部屋の空気は重く張りつめ、静寂がわずかに揺れるように響いた。
ツグミは息を呑み、実に目を向ける。
額にうっすらと影が落ち、焦燥と苦悩で歪む横顔が、見る者の胸を締めつけるようだった。
「っ……」
狩野が鼻で軽く息を吐き、肩越しに実をちらりと見る。
「結局リスクがありすぎって牧野さんが突っぱねたら、焔堂が不機嫌そうに帰ったんだろ?」
言葉の端々に呆れと軽い諦めが混じる。
「じゃあそもそも、食う機会なかったじゃねえかよ」
狩野の手がゆっくりと伸び、タンッ、と実の頭を軽く叩く。
音の軽さとは裏腹に、どこか親しみがにじむ叩き方だった。
「いてっ」
実は思わず顔をしかめ、目を瞬かせる。
「そんなの気にすんなよ。まじで後ろ向きだなお前は」
低く、でも確かな声が部屋の空気を震わせる。
実は肩を少し落とし、小さく息を吐く。膝の上の拳も、ほんのわずかに緩んだ。
「はい……すみません」
静かな沈黙のあと、意識的に言葉を添えるように、声を少しだけ柔らかくする。
「ありがとうございます」
その表情には、わずかに光が差し込むような変化があった。硬さが解け、緊張がほんの一瞬、薄らいだかのようだった。
深海が小さく息を吐く。
「ε-(´∀`*)」
そのとき。
ガチャッ、とドアが開き、重みのある音が室内に響いた。
牧野が静かに部屋へ入ってくる。
その背筋は真っ直ぐだが、足取りにはわずかに緊張が滲む。
ツグミは咄嗟に立ち上がり、視線を固定した。
「牧野さん……どうだした?」
声には不安が混じり、わずかに震える。
牧野は一瞬、視線を伏せる。
机の書類に目を落とし、ゆっくりと息を吸う。
そして口を開いた。
「現場に残されてた橘想の研究を見る感じ……確かに知恵の実を食べれば、実くんは全てのフィクションと繋がることになると思う」
狩野が思わず目を見開く。
「やっぱ超強くなるってことっすか?」
声に興奮と不安が混ざる。
牧野は首を振り、視線を逸らす。
「全てのフィクションと繋がるってことは、数多の人が空想した情報が全て実くんの脳に流れ込むってこと」
「脳にそんな負担を与えて……実くんが実くんでいられる保証はない。 身体だって5日も耐えられないと思う」
ツグミが思わず声を震わせ、腕を強く組みながら前に踏み出す。
「そんなのダメ!!」
涙をこらえ、今にも零れ落ちそうだった。
実はその言葉に押し潰されるように、苦悶の表情で下を向く。
肩がわずかに震え、膝の上の拳も固く握りしめられていた。
ツグミは少し前に寄り、必死に実を見つめる。
「そんなのいいわけないっ……やっぱり実くんはあの時食べなくてよかったよ」
だが、実の表情は複雑に歪んだまま。
眉がきつく寄り、唇は硬く噛み締められ、目は虚ろに揺れていた。
「でも、実際焔堂は倒せませんでした」
「いや……それはっ」
ツグミは声を詰まらせ、思わず手を震わせる。
実は視線をゆっくりと牧野に移す。
迷いと悲しみ、少しの諦めが混ざった瞳。
「僕が知恵の実を食べれば……倒せるは倒せるんですよね?」
牧野は視線を逸らし、唇を薄く噛む。
その沈黙が、答えそのものだった。
「やっぱり、そうなんですね……」
実は唇を噛み、眉を歪ませる。
肩がわずかに落ち、全身から力が抜けていく。
タンッ。
狩野の手が再び実の頭に軽く触れ、短い音を立てる。
「実、俺さっきいったよな?そんなの気にすんなって」
声は低く、だがどこか優しさを帯びている。
「勝てなかったっつってもそん時俺いねぇし」
「だいだい知恵の実は今焔堂が持ってんだから考えても無駄」
少し説教めいた口調。
実は机に突っ伏すように下を向き、黙ったまま微かに肩を震わせる。
「(・_・;)」
ツグミが小さく声を落とす。
「実くん……」
声は震え、しかし確かな存在の呼びかけだった。
◇
廃墟の中。
崩れかけた建物の中で、瓦礫の山に囲まれながら焔堂が立つ。
粉塵が微かに漂い、光の隙間から舞い上がる。
「があああああああっ!!んだよおもんねえな」
その声と同時に壁を思い切り蹴飛ばす。
砕け散るコンクリートが周囲に降り注ぎ、鈍い衝撃音が響く。
焔堂の目が、瓦礫の奥や空虚な床の影を這う。
「まあいいか。橘想は消えて、ドラゴンは自由に使える訳だし」
唇に浮かんだ笑みは、冷酷であり、どこか愉しんでいるようでもあった。
「時間はたっぷりあるからな」
その瞳は、獲物を探す獣のように光を反射する。
焔堂は腕を組み、顎に手を当てて思案する。
微かに眉が吊り上がり、唇がゆっくりと歪む。
「……でも、どうやって食わすかなあ」
その声には、興奮と計算が入り混じる。
『殺してやる』
脳裏に、あのときの実の表情が鮮明に浮かぶ。
瓦礫の隙間から差し込む光に、焼き付くように残っている。
焔堂の口元が、ゆっくりと吊り上がる。
低く、楽しげな笑いが漏れる。
「フハハッやっぱ本気にさせるには……」
空気が揺れ、粉塵が舞う。
その声には、狂気と好奇心が混じっていた。




