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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
第四章 最終決戦編

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第65話 不気味な口端と溢れた普通

「……田中実だ」


 焔堂の声が、崩壊した研究室の空間に落ちた。


 瓦礫と砕けたガラスが床一面に散らばり、培養液がまだ細く流れている。崩れた天井から差し込む白い光が、埃を照らして漂わせている。


 空気は、重く沈んでいた。


「ぼくが……?」


 実の喉から掠れた声が漏れる。

 床に手をついたまま顔を上げ、信じられないものを見るように焔堂を見つめた。瞳が揺れ、口元がわずかに開いたまま閉じない。


 焔堂は黄金の果実を掌で転がした。


「そうだ。お前が知恵の実を食えれば、ちょー強くなるんだよ」


 指先で軽く弾かれた果実が、掌の上でくるりと回る。


「母さんの敵が討てるかもなあ?」


 くつくつと喉を鳴らす。


「あーと姉ちゃんもいたか……あれ、妹だっけ?」


 一瞬だけ首を傾げてから、鼻で笑った。


「まあどうでもいいか」


「おまえっ……!!」


 実の目が見開かれる。

 奥歯が強く噛み合い、頬の筋肉がぴくりと震えた。


 焔堂は肩を揺らして笑うと、果実を軽く跳ね上げた。


「ほら、さっさと食えよ」


 掌の上で転がしながら、今にも放るような動きを見せる。


「ほら、ほら」


 その様子を睨みながら、実の身体が前へ出る。

 ふらつく足で一歩踏み出した。


「まって、実くん!!」


 背後から飛んできた声に、実の足が止まる。振り返ると、


 崩れた壁にもたれながら、牧野が肩に刺さった瓦礫を押さえていた。血が指の隙間から滲んでいる。それでも視線だけは鋭く焔堂を睨みつけていた。


「橘想と違ってあなたは現想生物じゃない。人間の身体じゃ危険過ぎると思う。第一──」


 言葉の途中で一度息を吸い直す。


「焔堂のいうことが正しいなんて保証はない」


「チッ……」


 舌打ちが落ちる。


 焔堂は肩をすくめた。


「しらけるこというなよ。眼鏡のねえちゃん」


 手にした知恵の実を指先でくるりと回しながら、背後を親指で指す。


「疑うんならなら、橘想の研究データを調べろよ。そこにいっーぱいあるからよお?」


 焔堂は指先で果実をくるりと回した。


「まあでもよお、実。俺はお前に聞いてみてえなあ?」


 口角が吊り上がる。


「家族の敵討ちたいだろ?」


 わざと間を置く。


「おめえのせいで死んだんだからなあ?」


 その言葉に、実の視線が焔堂へ向く。


 奥歯がきしむほど、強く。


──今まで僕が見てきた人達はみんな、


 共感できるしたいことを持ってた。


 でも、こいつは違う。


 こいつは、ただ、暴れたいだけ。


 ただ、戦いたいだけ。


 僕の目の前にいるのは、人の形をした、


 災害だ──


「僕はああっ!!」


 実の足が前へ出る。瓦礫を踏み越え、焔堂へ向かう。


「実くんっ!!」


 背後で牧野の声が追いかけてくる。


(やっぱりこいつは)


 足は止まらない。


「知恵の実を食べたら──」


(殺さなきゃ。僕が──)


「──君が死んじゃうかもしれないんだよ!!」


 その言葉が鮮明に耳に響いた。


 実の肩がびくりと揺れる。


『死にそうになったら、ちゃんと逃げてよ』


 言葉が、脳裏に蘇る。


「……はな」


 唇がかすかに動く。眉が寄り、視線が床へ落ちる。


(でも、コイツを野放しにはっ……)


 震える唇を手で押さえた。


(また、誰が死ぬのだけはっ……!!)


 息がうまく整わない。


 喉が鳴る。


 吸っても、吸っても、胸の奥まで届かない。


 瓦礫の向こうで、なにかが崩れる小さな音がした。


「たべなぃ……」


 聞こえてきたのは、


 自分の声。

 

 実の目が見開かれた。


(……え?)


 焔堂は眉をひそめる。


「……なんだよ。つまんねえなあ」


 手の中の知恵の実を、だらりと下げる。


 その背中から、龍の翼が音もなく広がった。黒い膜が空気を押し、埃が舞い上がる。


「まあ、いいや」


 焔堂は軽く膝を曲げた。


「気が変わったら食ってくれよな?」


 次の瞬間。


 爆風のような羽ばたき。


 巨体が天井の穴へ跳び上がる。


 背を向けたまま空へ昇り――


 ふと、顔だけ振り返る。


 口の端がゆっくり吊り上がった。


「責任を取ってさあ?」


 それだけ。


 それだけを言い残して、焔堂は空へと消えた。


 羽音が遠ざかる。


 やがて、それも聞こえなくなった。


 残ったのは、瓦礫の匂いと、止まったままの空気だけ。


 実はその場に立ち尽くす。


 口がわずかに開き、視線が宙に止まったまま動かない。


──食べるっていうつもりだったのに。


なんで僕は、


食べないって。


なんで……?


なんで──


「実くんっ」


 ツグミが駆け寄ってくる。息を切らし、不安げな顔のまま。


「実くん。これでいいんだよ。あなたが死ぬリスクを背負う必要なんてないよ」


 そっと肩に手を置いた。


 その瞬間。


 実の目から、光が抜けた。


──ああ、そうか。


僕は、ただ──


 実は空を見上げた。


 焔堂が消えていった、白みはじめた空を。


 口の端を、かすかに引きつらせて。


──死にたくなかったんだ──



──三日後。


 灰色の空の下、現災署の建物が静かに佇んでいる。


 その周囲を取り囲むように、市民たちが押し寄せている。


 怒号は、もはや不安ではない。


 明確な怒りだった。


「動画は本当なんだろ!?」

「現想災害は国の実験だったって言えよ!!」

「防災省が潰れたのも隠蔽失敗したからじゃねえのか!?」

「俺の家族が巻き込まれた事故も現想だったんだろ!?」

「橘想は嘘ついてなかったんじゃないのか!!」

「現災署もグルなんだろうが!!」


 スマホを掲げ、動画の画面を見せつける者もいる。

 拡散された映像は、もはや都市伝説ではない。


“防災省直属の現災署によって”


 その一文が、怒りの矛先をここへ向けていた。


 封鎖線の向こうで、職員たちが必死に対応している。


 窓のそばに立った狩野は、外に押し寄せる市民の群れを見下ろした。


「暴動は収まんねぇな……」


 深海は椅子に座ったまま、肩を落としている。


「( ;∀;)」


ツグミは腕を組み、低い声で静かに呟いた。


「防災省が巨人に潰されて指揮系統が全滅したからね。正直どう収集つけるのかわかんないな……」


「収集ねぇ……」


 狩野の視線が、ゆっくりと実へ向く。


 実は机の表面に視線を落としたまま微動だにせず、膝の上で拳をぎゅっと握りしめていた。指先にまで力が入り、白くなっている。


「僕は……本当にあの時知恵の実を食べなくてよかったんでしょうか」


 声はかすれ、言葉に迷いと不安が滲む。部屋の空気は重く張りつめ、静寂がわずかに揺れるように響いた。


 ツグミは息を呑み、実に目を向ける。

 額にうっすらと影が落ち、焦燥と苦悩で歪む横顔が、見る者の胸を締めつけるようだった。


「っ……」


 狩野が鼻で軽く息を吐き、肩越しに実をちらりと見る。


「結局リスクがありすぎって牧野さんが突っぱねたら、焔堂が不機嫌そうに帰ったんだろ?」


 言葉の端々に呆れと軽い諦めが混じる。


「じゃあそもそも、食う機会なかったじゃねえかよ」


 狩野の手がゆっくりと伸び、タンッ、と実の頭を軽く叩く。

 音の軽さとは裏腹に、どこか親しみがにじむ叩き方だった。


「いてっ」


 実は思わず顔をしかめ、目を瞬かせる。


「そんなの気にすんなよ。まじで後ろ向きだなお前は」


 低く、でも確かな声が部屋の空気を震わせる。

 実は肩を少し落とし、小さく息を吐く。膝の上の拳も、ほんのわずかに緩んだ。


「はい……すみません」


 静かな沈黙のあと、意識的に言葉を添えるように、声を少しだけ柔らかくする。


「ありがとうございます」


 その表情には、わずかに光が差し込むような変化があった。硬さが解け、緊張がほんの一瞬、薄らいだかのようだった。


 深海が小さく息を吐く。


「ε-(´∀`*)」


 そのとき。


 ガチャッ、とドアが開き、重みのある音が室内に響いた。


 牧野が静かに部屋へ入ってくる。

 その背筋は真っ直ぐだが、足取りにはわずかに緊張が滲む。


 ツグミは咄嗟に立ち上がり、視線を固定した。


「牧野さん……どうだした?」


 声には不安が混じり、わずかに震える。


 牧野は一瞬、視線を伏せる。

 机の書類に目を落とし、ゆっくりと息を吸う。

そして口を開いた。


「現場に残されてた橘想の研究を見る感じ……確かに知恵の実を食べれば、実くんは全てのフィクションと繋がることになると思う」


 狩野が思わず目を見開く。


「やっぱ超強くなるってことっすか?」


 声に興奮と不安が混ざる。


 牧野は首を振り、視線を逸らす。


「全てのフィクションと繋がるってことは、数多の人が空想した情報が全て実くんの脳に流れ込むってこと」


「脳にそんな負担を与えて……実くんが実くんでいられる保証はない。 身体だって5日も耐えられないと思う」


 ツグミが思わず声を震わせ、腕を強く組みながら前に踏み出す。


「そんなのダメ!!」


 涙をこらえ、今にも零れ落ちそうだった。


 実はその言葉に押し潰されるように、苦悶の表情で下を向く。

 肩がわずかに震え、膝の上の拳も固く握りしめられていた。


 ツグミは少し前に寄り、必死に実を見つめる。


「そんなのいいわけないっ……やっぱり実くんはあの時食べなくてよかったよ」


 だが、実の表情は複雑に歪んだまま。

 眉がきつく寄り、唇は硬く噛み締められ、目は虚ろに揺れていた。


「でも、実際焔堂は倒せませんでした」


「いや……それはっ」


 ツグミは声を詰まらせ、思わず手を震わせる。


 実は視線をゆっくりと牧野に移す。

 迷いと悲しみ、少しの諦めが混ざった瞳。


「僕が知恵の実を食べれば……倒せるは倒せるんですよね?」


 牧野は視線を逸らし、唇を薄く噛む。

 その沈黙が、答えそのものだった。


「やっぱり、そうなんですね……」


 実は唇を噛み、眉を歪ませる。

 肩がわずかに落ち、全身から力が抜けていく。


 タンッ。

 狩野の手が再び実の頭に軽く触れ、短い音を立てる。


「実、俺さっきいったよな?そんなの気にすんなって」


 声は低く、だがどこか優しさを帯びている。


「勝てなかったっつってもそん時俺いねぇし」


「だいだい知恵の実は今焔堂が持ってんだから考えても無駄」


 少し説教めいた口調。


 実は机に突っ伏すように下を向き、黙ったまま微かに肩を震わせる。


「(・_・;)」


 ツグミが小さく声を落とす。


「実くん……」


 声は震え、しかし確かな存在の呼びかけだった。



 廃墟の中。

 崩れかけた建物の中で、瓦礫の山に囲まれながら焔堂が立つ。

 粉塵が微かに漂い、光の隙間から舞い上がる。


「があああああああっ!!んだよおもんねえな」


 その声と同時に壁を思い切り蹴飛ばす。

 砕け散るコンクリートが周囲に降り注ぎ、鈍い衝撃音が響く。


 焔堂の目が、瓦礫の奥や空虚な床の影を這う。


「まあいいか。橘想は消えて、ドラゴンは自由に使える訳だし」


 唇に浮かんだ笑みは、冷酷であり、どこか愉しんでいるようでもあった。


「時間はたっぷりあるからな」


 その瞳は、獲物を探す獣のように光を反射する。


 焔堂は腕を組み、顎に手を当てて思案する。

 微かに眉が吊り上がり、唇がゆっくりと歪む。


「……でも、どうやって食わすかなあ」


 その声には、興奮と計算が入り混じる。


『殺してやる』


 脳裏に、あのときの実の表情が鮮明に浮かぶ。

 瓦礫の隙間から差し込む光に、焼き付くように残っている。


 焔堂の口元が、ゆっくりと吊り上がる。

 低く、楽しげな笑いが漏れる。


「フハハッやっぱ本気にさせるには……」


 空気が揺れ、粉塵が舞う。

 その声には、狂気と好奇心が混じっていた。

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