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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
第四章 最終決戦編

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第62話 甘き幻と消えぬ灯火

実は唇の内側を噛み、ゆっくりと視線を落とした。


 足元に広がる瓦礫の影が、朝の光に引き伸ばされている。

 崩れた壁から吹き込む風が、粉塵をわずかに揺らす。


(どうすればいいんだろう……)

(橘想のしたいことは、間違ってるとは思えない)

(それに僕は……)


 思考の奥底に、封じ込めていた映像が浮かび上がる。


──グチャリ


 乾いた音。

 黒龍の巨大な手。

 抵抗もできず、握り潰される花。


 小さな身体。

 宙に散った赤。


 実の喉がひくりと鳴る。

 肺がうまく空気を取り込めない。


(もう一度会いたい……花とも、母さんとも)


 胸の奥で、何かが軋む。

 痛みと渇望が絡み合い、形を失う。


 それは希望ではない。

 だが、絶望でもない。


 甘い救済の幻が、静かに心へ入り込もうとしていた。


 隣でツグミも俯いている。

 肩がわずかに上下し、握り締めた拳の関節が白くなっている。

 何かを振り払うように、強く目を閉じている。


 深海もまた沈黙していた。

 口元は固く閉ざされ、視線は床の一点に縫い止められている。


 静寂。


 橘想の声が、無機質なほど穏やかに響く。


「君達は人を救う為に戦ってきたんだろう」

「もう、いいんだ。後は俺に任せてくれ」


 押しつけるでもなく、煽るでもない。

 ただ、当然の帰結のように。


 実はゆっくりと顔を上げる。


 橘想の姿が、逆光の中に立っている。

 その表情は読めない。


 実の瞳は揺れていた。

 迷いが、そのまま形になったように。


(もう、終わってもいい?)

(花と母さんが死んだ責任も、生き返るなら……負わなくていい)


 胸の奥に沈めていた罪悪感が、わずかに軽くなる感覚。

 それを、自分が求めていることに気づいてしまう。


 喉が震える。


「僕は──」


 言葉が形になりかけた、その瞬間。


「止めるよ!!」


 鋭い声が空間を断ち切った。


 実、ツグミ、深海が同時に顔を上げる。


 牧野が一歩に前でている。

 眼鏡の奥に涙を浮かべながら、それでも一歩も引かずに。


 その視線は、橘想だけを射抜いていた。


「護くんは……あなたの罪を背負って死んだっ」

「本来背負わなくていい罪を……重すぎる責任を背負ってずっと生きてきたの!!」


 声は震えている。

 だが、その震えは恐怖ではない。


 怒りと、悔しさと、喪失。

 

それらを抱えたまま、折れない意志が立っている。


 実の心臓が強く打つ。


「護くんが死んだのは必要な犠牲ですって?……ふざけないで!!」

「護くんの人生を軽んじるあなたに……神なんて役目は任せられる訳がない」


 空気が張り詰める。


 その言葉が、実の胸の奥に深く刺さった。


――『これから君は、この残酷な現実と君自身がどう向き合うのかを、一生懸命考えるんだ』


 護の声。


 優しくも、逃げ道を与えない声。


 実の視界が揺れる。


 甘い救済と、痛みを伴う現実。


 どちらを選ぶのか。


 胸の奥で、何かが静かに定まっていく。


「僕の……向き合い方……」


 ぽつりと零れたその言葉は、

 問いではなく、確認に近かった。


 実の指先の震えが、ゆっくりと止まっていく。


 実は、ゆっくりと顔を上げた。


 迷いは消えていない。

 胸の奥にはまだ痛みが残っている。


 だがその奥に、微かな芯のようなものが灯っていた。

 揺れてはいるが、消えてはいない光。


「護さん……正直、まだ答えは出ないですけど……」


 一度、息を吸って。


「甘い現実に、逃げるのは……違いますよね」


 視線が定まる。


 橘想を、真っ直ぐに見据える。


 その目は強くも鋭くもない。

 だが、もう逸れない目だった。


 ツグミが実を見る。


 ほんの一瞬。

 確認するように。


 そして、小さく、やわらかく微笑んだ。


「私は……実くんに救われた」


 言葉を選ぶように、ゆっくりと。


「だから、実くんと同じ方を、私も向くよ」


 その視線も橘想へ向けられる。


「( ・´ー・`)」


 三人の立ち位置が、静かに定まる。


 橘想はしばらく沈黙したまま、その光景を見つめていた。


 やがて、わずかに息を吐く。


 諦めとも、感心ともつかない呼気。


「交渉決裂か……」


 低く呟き、視線を落とす。

 次に顔を上げたとき、その瞳から情は消えていた。


「焔堂。好きに暴れろ」


 その一言で、空気が変わる。


 焔堂の口角がゆっくりと吊り上がった。


「……ハ」


 喉の奥で笑いが膨らみ、

 次の瞬間、堰を切ったように弾けた。


「ハハハハハッ……そうこなくちゃなぁ!!」


 無遠慮な笑声が、コンクリートの壁に反響する。

 天井の配管が、わずかに震えた。


 焔堂は肩を回しながら前に出る。

 骨が鳴る。

 関節が軋む。


 歩幅は大きくも速くもない。

 だが一歩ごとに床が鈍く軋んだ。


「初対面の奴もいるな。なら、自己紹介させてもらうぜ」


 その表情には、獲物を前にした獣の凶暴さよりも、

 長く待たされた遊園地に入る子どものような無邪気さがあった。


「俺の名前は焔堂凶牙。好きな食いもんは特にねぇ。嫌いな食いもんもねぇ」

「職業は、元地下格闘家だ。リングで何人か殺しちまってな。ある日、扱いづらいって理由で放り出されちまってよ。それ以来、適当にぶらぶらしてたところを、あいつに拾われた」


 親指で橘想を示す。


「俺は昔っから天才でさあ。運動も勉強も負け知らず」

「何でも勝つのが当たり前。努力もいらねぇが刺激もねぇ」

「退屈で退屈で、腐りそうな人生だった」


 視線が鋭くなる。


「だが三年前――サクヤと、“フィクション同士”でやり合った」


 その瞬間だけ、声に熱が混じる。


「初めてだったよ。心の底から楽しいって思えたのは」


 唇が歪む。


「それ以来、趣味は現実を踏み越えた力同士の殺し合いだ」


 一歩、踏み出す。


 床が低く悲鳴を上げる。

 粉塵が、わずかに跳ねた。


「自己紹介はこんなもんだな」


 両腕をゆっくりと広げる。


 抱きしめるように。

 すべてを受け入れるように。


「よし――じゃあお前ら」


 目が細まり、

 獰猛な愉悦が滲む。


「今から楽しく……」


 次の瞬間、声が爆ぜた。


「殺し合おうぜぇぇぇ!!」


 牧野が叫ぶ。


「みんないくよっ!!」


 実とツグミが同時に応える。


「はい!!」


 朝日が差し込む。


 薄い光が空間を白く染め、

 影が長く伸びた。

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