第61話 朝日の決戦と甘き誑し
「留置所が襲われた?」
実の声が、朝の空気をわずかに震わせた。
夜の名残を引きずっていた街は、ゆっくりと朝日に 溶かされていく。
東の空から差し込む橙色の光が、高層ビルの窓を順に照らし、路地裏に残っていた“地獄”の爪痕を白日の下に晒していた。
焦げたアスファルト。
崩れた外壁。
乾ききらない黒い染み。
だが、昨夜まで街を覆っていた地獄は、まるで幻だったかのように消えていた。
牧野はタブレット端末を手に、淡々と報告を続けた。
「うん、現場には看守の死体と多くの銃痕……そして、瞬ナナが消えていたらしい」
空気が重く沈む。
狩野が腕を組み、眉を寄せる。
「でも、あいつの能力はもう腐ってるんじゃ」
ツグミは視線を落とし、静かに呟いた。
「……お兄ちゃんの研究と何か関係があるんですかね」
牧野は一瞬だけ目を伏せ、それから頷く。
「その可能性が高いと思う」
「護くんはこういう展開をみこして、瞬ナナの体内にはGPSを埋め込んであるけど」
「……相手もそのぐらいは読めてるはず」
狩野が小さく鼻を鳴らす。
「待ち構えてるって訳っすか」
実は腕を組んだまま、わずかに視線を細めた。
「サクヤさんの時と変わらないのなら」
「タイムリミットは4、5時間ですかね……」
緊張が場を締め付ける。
狩野は肩を竦めた。
「となると、俺は待機だな。それも計算の上で仕掛けてきたんだろうが」
牧野は全員を見渡す。
その目に迷いはない。
「これが、橘想との最後の戦いになると思う」
「狩野くん以外の全戦力をかけて、橘想を止めよう」
ツグミは強く頷いた。
「はい」
深海は親指を立てる。
「(≧∇≦)b」
わずかに緊張が緩む。
だが実の視線は、どこか落ち着かない。
「牧野さん、護さんは……」
下を向いたまま、問いかける。
牧野の表情が、ほんのわずかに曇る。
「現場から、巨人は消えているらしいけど」
「……護とは、連絡が取れてない」
沈黙。
実の拳が、ゆっくりと握られる。
歯を食いしばり、奥歯が軋む。
視線は地面に落ちたまま動かない。
悔しさが、言葉にならず喉に詰まる。
牧野は一歩前に出た。
「絶対に無駄にはさせない」
「私達で終わらせよう」
実は顔を上げる。
揺れていた瞳が、真っ直ぐに戻る。
「……はいっ」
◇
朝。
地下にあるアジトは、外界の光をわずかに取り込む構造になっていた。
天窓から差し込む薄い朝日が、冷たいコンクリートの床を淡く照らしている。
巨大な水槽が、中央に鎮座していた。
透明な液体の中には、ナナが沈められていた。
両目はない。
瞼は閉じられたまま。
顔色は白く、数本の管が身体に接続されている。
液体の中で、髪がゆらゆらと揺れる。
水槽横のモニターには、赤い数字。
【03:57:12】
残り時間が、無機質に刻まれていく。
焔堂はソファにだらりと身体を預け、片足を投げ出していた。
退屈そうに天井を見上げ、指先でスマホを弄っている。
橘想は立ったまま、モニターを見つめる。表情は変わらない。
電子音だけが、一定の間隔で鳴っていた。
静寂。
空間は、張り詰めた糸のように静まり返っていた。
そのとき。
突然、アジト全体に衝撃が走った。
――ドゴォンッ!!
壁面に激しい打撃音。
コンクリートが軋み、粉塵が舞い上がる。
続けざまに、鈍い破砕音。
触手のような巨大な影が、壁を叩き破った。
コンクリートが崩れ、光が一気に流れ込む。
橘想はゆっくりと顔を上げる。
「……来たか」
崩れた壁の向こう。
朝日を背に、現災署のメンバーが並んで立っていた。
崩れた壁の粉塵が、朝日に照らされて白く舞う。
焔堂が口角を吊り上げた。
「ハハッきたきたあ!!」
ソファを蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、そのまま一直線に現災署へ向かって駆け出す。
床を踏み砕くような足音が響く。
牧野は一歩前へ出た。
「ここで全部終わらせる、作戦通りいくよ」
実は頷く。
「はい」
ツグミも短く応じる。
「了解です」
その瞬間。
「待て!!」
橘想の鋭い声が空間を裂いた。
焔堂が不機嫌そうに足を止め、振り返る。
「……なんだよ、うるせえな」
橘想はゆっくりと現災署の面々を見渡した。
崩れた壁から差し込む朝日が、輪郭を縁取る。
「現災署の隊員よ、聞いてくれ。もう、俺達が戦う理由はないんだ」
ツグミが眉をひそめる。
「何言ってんの……?」
橘想は淡々と言葉を続けた。
「……君達は旧約聖書における知恵の実を知っているか?」
「ある時、アダムとイヴは蛇の企みに乗り、神の戒めに反して知恵の実を食した。
二人はこれにより自分達が裸であることを知り、それに恥じらいを覚え、いちじくの葉を繋ぎあわせそれで腰を覆った。という伝承だ」
瓦礫の隙間から風が吹き抜ける。
ツグミは苛立ったように口を開いた。
「……それがなに?」
橘想の視線が鋭くなる。
「この話からわかる通り知恵の実は、人を1つ上の次元へと昇華させることができる」
「この世界の1つ上の次元……FICTIONのすべてがわかるはずなんだ」
実は目を細めた。
「……つまり、何がいいたんですか?」
橘想は静かに告げる。
「俺の目的は、知恵の実を現想させ、食らい、"FICTION"の全てと繋がること」
「知恵の実さえ現想させれば、もはや俺は災害分子や、現想生物ではない……神だ」
牧野の拳が小刻み震えた。
「あなたっ、今まで何人の人を犠牲にしてきたと思ってるの……!?」
「護くんだって、あなたの弟だって死んだんだよ!!」
橘想は一切動じない。
「わかっているさ……護は巨人と道連れに死んだのだろう?その為に巨人を現想させたのだから」
「こちらの戦力的にも、焔堂を道連れにされる訳にはいかないからな。必要な犠牲だ」
「だが、その犠牲のおかげで俺は知恵の実を食らい神になることができる」
牧野の表情が歪む。
「……はぁ?」
ツグミが吐き捨てる。
「さっきから戦う理由しか見当たらないんだけど」
橘想は淡々と続ける。
「神になるという言葉が少し抽象的すぎたか。噛み砕いて説明してやろう」
「つまり俺が神になれば──死者を蘇らせる"フィクション"を自由に現想させられる──ということだ」
ツグミの瞳が大きく開く。
「!?」
実の喉が鳴る。
「え……」
橘想の声は静かだ。
「確かに、俺のせいで多くの犠牲者がでたのは事実だ」
「だが俺が知恵の実を食らえば……犠牲になった者はみんな蘇る……灯も……」
「護も……」
牧野の拳がさらに強く握られる。
「井川という隊員も……」
深海が目を見開く。
「(・_・;)」
「サクヤも……」
ツグミの呼吸が乱れる。
唇が震える。
「お兄ちゃん……」
橘想は最後に実を見た。
「……焔堂に殺された君の家族も」
実の視界が、
揺れる。
「母さんと……花が……?」
膝がわずかに崩れそうになる。
拳が震え、奥歯が鳴る。
一方、焔堂はつまらなそうに欠伸をしていた。
「はぁ……まだやってんのかよ」
橘想は静かに両手を広げた。
「俺が知恵の実を食らえば、死という概念さえ空想の産物にできるんだ」
「これは俺にしかできない。唯一フィクションに落ち……幽霊としてこの世に落ちたこの俺の身体だけが」
「全てのFICTIONの情報を受け止めることができる神の媒体になれる」
静寂。
言葉は空間には、残らなかった。
各々の胸の内にのみ、こべりついた。
(母さんと花に……もう一度会える……?)
甘い囁きのように、その可能性が心を揺らす。
橘想は水槽へ視線を向ける。
「今から犠牲になるナナでさえ……俺なら蘇らせることができる」
「本当に君達のすべきことは、俺を止めることなのか?」
朝の光が、全員の表情を等しく照らしていた。
その問いの答えは、まだ誰も口にしていない。




