第60話 嫌いという縁と夜明けの託し
深夜の街路を、爆谷はふらつきながら歩いていた。
血に濡れたシャツが肌に張りつき、焼け爛れた痕からはまだ熱が残っている。アスファルトに落ちる足取りは不規則で、片足を引きずるたびに黒い影が滲んだ。
「ぅ゙……ぁ"」
喉の奥から、かすれた音が漏れる。
(地獄が消えてる……橘っちはちゃんと間に合ったんすかね……)
見上げた夜空は、さっきまでの灼熱が嘘のように静まり返っていた。
次の一歩が出ない。
爆谷はその場に崩れ落ちる。
冷えた路面に頬がついた。
遠くで車の走る音がする。
意識が薄れていく中――
『君がミスするたびに』
『灯に辿り着く時間が、延びる』
『それが分からないなら』
『一緒にやる意味がない』
かつての声が、はっきりと蘇る。
(ああ……まじで嫌いだったっすわ)
闇が、視界を覆った。
◇
──8年前。
研究室。
白い蛍光灯の下、資料と機材が無秩序に並ぶ空間。
「爆谷くん、大丈夫?」
椎名灯が、椅子に座った爆谷の顔を覗き込んだ。
「ま、まぁ余裕っすよ、こんぐらい!!」
爆谷は無理に口角を上げる。
「ならいいんだけど……辛くなったらいつでも言ってね」
「私が想くんにガツンと言ってあげるから」
灯はそう言って、奥でパコソンをカタカタさせている橘想の方へ顔を向ける。
「……俺はそんなに厳しいことは言ってないぞ」
「そのぐらいのタスクなら5時間もあれば片付けられるはずだ」
橘想は振り向かない。
「コラッ想くん、想くんがそんなだから、爆谷くん以外みんな出ていっちゃうんだよ!!」
「ちょっとぐらい褒めたらどうなの?」
「……?まだ、褒めるようなことを爆谷はしてないはずだが」
橘想は手を止め、不思議そうに二人を見つめる。
灯が小さくため息をつく。
白い蛍光灯の光が、彼女の睫毛の影を頬に落としていた。
「ごめんね爆谷くん。いつもありがとね。想くんの無理難題に付き合あってくれて」
まっすぐに向けられた視線は柔らかい。
爆谷は一瞬だけ目を逸らし、すぐにいつもの調子を作った。
「いやいや、俺っちは全然大丈夫っすよ!!」
「それに、橘っちの言う通りっす」
「俺っちにかかればこのくらい余裕なんで」
歯を見せて笑う。肩をすくめ、大げさに胸を叩く。
軽い冗談のような仕草。だが、握った拳の爪が掌に食い込んでいた。
(ああ、橘とかいうゴミまじでうぜええええぇ)
(ちょっと天才だからって調子に乗りやがってムカつくわ)
(灯さんがいなかったら、マジ秒でやめてるわこんな研究室)
その笑顔を、灯はじっと見つめていた。
「爆谷くん、無理に笑わなくていいんだよ」
静かな声だった。
爆谷の喉がわずかに鳴る。
「あ……うっす」
視線を逸らし、後頭部をかく。耳の先が赤い。
(まじで天使っすわ〜)
灯は少し困ったように眉を下げる。
「想くん、ほんとに無神経で鈍感だけど悪気はないから。どうか、許してあげて」
その言葉に、部屋の奥から低い声が飛ぶ。
「おい、聞こえてるぞ」
キーボードを打つ手は止まらない。
「いや、俺っちは全然気にしてないっすよ!!」
即答だった。勢いよく手を振る。
(あぁ〜なんで灯さん橘想とかいうゴミと付き合ってんのかなぁ。まじムカつくわ〜)
灯はむっと頬を膨らませ、椅子ごと橘想の方へ向き直る。
「想くんはほんとに、爆谷くんに感謝しなさいよ」
橘想はようやく手を止め、ゆっくりと振り返る。
無表情のまま、二人を見比べる。
「……いや、感謝はしてるつもりだが」
「ならちゃんと言葉にしなさい!!」
研究室に、灯の声がはっきりと響いた。
静かな機械音の中で、三人の距離だけが、わずかに歪んでいた。
笑い声の混じる研究室。
だが爆谷の笑みだけは、どこか薄かった。
(あいつが天才だから?)
橘想を見つめる。
和気あいあいとした空間の中で、爆谷の心だけが浮いていた。
◇
椎名灯が昏睡状態になった。
以降、研究室の明かりは昼夜を問わず灯り続けていた。
「……爆谷」
橘想が低い声で名を呼ぶ。
「このデータ、三箇所ズレてる。仮定条件が甘い。そのまま進めたら、全部無意味になる」
机の上の資料を指でなぞる。
「修正しろ。今すぐ。時間がない」
爆谷は奥歯を強く噛み締めた。
顎の筋肉が浮き、こめかみに血管が浮き出る。
(こいつ……俺っちがどんだけ頑張ってると!!)
机の上には、徹夜で積み上げた資料と数式の束。
赤い修正跡が、無造作に引かれている。
「いや、橘っち……俺っちも徹夜で――」
「関係ない」
言葉は刃のように短い。
橘想は顔も上げない。
「努力の量じゃなくて、精度の話をしてる」
「結果が出なければ、やってないのと同じ」
淡々とした声。感情の揺れはない。
その無機質さが、爆谷の胸を内側から引っ掻く。
(ゴミが……)
拳を握る。
爪が食い込み、白くなった指先がわずかに震える。
「君がミスするたびに」
「灯に辿り着く時間が、延びる」
その名が出た瞬間、空気が変わった。
爆谷の眉がぴくりと動く。
視界の端で、眠る灯の姿がよぎる。
点滴の管。規則的な電子音。
「それが分からないなら」
「一緒にやる意味がない」
橘想は資料を引き寄せ、赤ペンを走らせる。
紙を削る音が、静まり返った研究室に響く。
機械の駆動音と、その乾いた擦過音だけが残った。
(……くっそ!!)
喉の奥で押し殺す。
爆谷は深く息を吸い込み、吐く。
視線を落とし、修正箇所を見つめる。
怒りも悔しさも飲み込み、何も言わずに資料を受け取る。
背筋を伸ばし、橘想の隣に立つ。
逃げずに、その場に留まり続ける。
研究室の灯りは、夜が明けるまで消えなかった。
◇
その後、椎名灯が死んだ。
葬儀の白い花の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
昼の街は何事もなかったかのように騒がしく、信号は規則正しく色を変え、人の波が絶えず流れていた。
その中を、爆谷はふらふらと歩いていた。
肩は落ち、足取りは不安定で、影だけがやけに長く伸びている。
(灯っちは死んで、研究も完成できないまま……)
(俺っちって今まで、何のために頑張ってたんだろう)
(俺っちの人生って……なんだったんだろう)
視界が滲む。
瞬きをしても、にじんだ景色は戻らない。
クラクションの音も、通り過ぎる会話も、どこか遠くに聞こえる。
ポケットの中でスマホが震えた。
現実に引き戻されるように、ゆっくりと取り出す。
「はい……爆谷っす」
声は掠れていた。
『爆谷さん、大変なんです!!』
受話口の向こうで荒い息。
「……護くん?どうしたんすか」
足を止める。
雑踏の真ん中で、車のクラクションも、人々の声も、一瞬だけ音を奪われたように消える。
『兄貴っ……兄貴が!!』
スマホの小さな画面から流れる声に、爆谷は目を見開き、体の力が抜ける。手が震え、指先で握るスマホが微かに揺れた。言葉の意味が脳を突き抜け、頭の中でざわめきが渦を巻く。
やがて震える指で通話を切ると、爆谷は荒い息を吐き、遠くの街路を睨みつけた。
「あのゴミがっ……!!」
胸の奥で怒りが泡立ち、全身に熱が広がる。拳を強く握り込むと、爪が掌に食い込み、白くなった指先が小刻みに震えた。
──橘想が、現実から逃げやがった。
ふざけんなよ。
俺っちがどれだけ手伝って、どれだけ思ってたと思ってんだ。
灯っちを救うんじゃなかったのかよ。
ゴミが。
ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。
ゴミが──
歯を強く食いしばる。
顎の筋肉がこわばり、視界の端が少し揺れる。
「俺っちが救ってみせる……」
「てめえみたいなゴミじゃなく、俺っちが……」
◇
爆谷の研究室。
白い蛍光灯がまぶしく、埃を帯びた机の上には、無数の資料と数式が散乱していた。
窓の外の光はすでに夜を追い越し、室内に差し込むのは街灯の橙色だけ。
爆谷は椅子に深く座り、肩を震わせながらキーボードを叩く。
眉がぎゅっと寄せられ、唇が歯を噛むように固まる。目を細め、指先を震わせながらキーボードのキーを押し込む。肩を強く震わせ、息を荒く吐き出す。
橘想がFICTIONに落ちた影響で、現実とFICTIONの結びつきは格段に強くなっていた。
あれだけ遅々としていた研究は、爆谷の必死の手とFICTIONの影響で急速に、確実に進んでいる。
だが、現実の壁は依然として厚く、ひとつの計算の誤差が全てを無に帰す。
──カタカタカタッバキッカタカタッ
キーボードの一部が割れ、キーが外れ飛ぶ。
爆谷は拳を震わせ、額に皺を寄せて歯を食いしばる。
指先を硬く握り、画面を睨みつける。肩が小刻みに震え、呼吸が浅く、唇をぎゅっと噛みしめた。
「クソがあ"あ"あ"っ!!」
言葉と共に、机の上のキーボードを叩きつける。
残骸が飛び散り、爆谷は手当たり次第に資料や道具を叩きつけ、怒りの波をぶつける。
部屋に響くのは、叩き割れる音と、息の荒さだけ。
既に、爆谷は独りで研究を続けて1年が経っていた。
その年月の中で、爆谷の心は、
怒り。
執念。
悔しさ。
無力感。
そして──橘想という人間の真意を、
理解してしまっていた。
◇
研究室の扉を開けた瞬間、冷えた空気が頬を撫でた。
人の気配の消えた部屋は、音を吸い込んだまま沈黙している。
埃の積もった机。
止まったままのモニター。
配線はそのまま、椅子もあの日の位置のまま。
(ここに来るのは、1年ぶりっすね……)
爆谷はゆっくりと室内を見渡す。
足を踏み出すたび、床がわずかに軋む。
「橘想。あんたは辛い現実から自分勝手に逃げたゴミだ」
かつて橘想が座っていた席を見る。
整然と並べられていたはずの資料は、そのまま時間に取り残されている。
「でも……俺はもっとゴミだ」
橘想の机に手を置く。
指先にうっすらと埃がつく。
「俺の力じゃ、灯っちを生き返らせる手立ては何も、何も……」
指先の感触が、妙に現実的だった。
「ほんとは、わかってるんすよ」
「あんたは逃げたんじゃないってことぐらい」
喉が詰まる。
視界が歪む。
「自分の命と引き換えに……俺に研究を任せたんだってことも」
爆谷はゆっくりと膝を折り、机に額を押しつける。
硬い天板の冷たさが、熱を持った皮膚に伝わる。
「……あんたと灯っちが、お似合いだったってこともっ」
声にならない音が、机に吸い込まれる。
肩が小さく震えた。
そのとき。
「爆谷」
背後から声がした。
懐かしい嫌いなあの淡々とした声。
空気が揺れる。
風が頬をつたう。
「へ?」
爆谷はゆっくりと顔を上げた。
涙で滲んだ視界の中、逆光に立つ人影が輪郭を持つ。
「たちばな……っち?」
立ち上がることもできず、呆然と見つめる。
止まっていたはずの時間が、かすかに軋みながら動き出すのを感じた。
◇
──現在。
ひび割れた路面に、爆谷は仰向けに倒れている。
衣服は裂け、皮膚は焼け爛れ、乾ききらない血が黒く固まりつつあった。
夜明け前の空は薄青く、街灯の光がかすかに残っている。
胸が上下するたび、湿った音が喉の奥で鳴る。
そのとき、胸元でスマホが震えた。
無機質な着信音が、静まり返った路地にやけに大きく響く。
爆谷は指先をわずかに動かす。
血で滑る手で、どうにか端末を掴み取る。
画面の光が、赤黒い掌を照らす。
そのままゆっくりへと耳に当てた。
「橘っち……ナナっち捕まえられたんすよね」
声は掠れ、息が混じる。
『ああ』
短い返答。
向こう側の空気は静かだ。
「……でも俺っち、もう無理っすわ。身体中もうボロボロで」
「どうするっすか、モルモットにでもするっすか?」
「ゴミな俺っちには……もうそれぐらいしかできないっす」
乾いた笑いが、途中で咳に変わる。
口端から新しい血がこぼれ、路面に落ちる。
夜明け前の静寂が流れる。
遠くで風がビルの隙間を抜ける音。
流れ出た血が、細い筋となってアスファルトの溝を伝う。
『……するわけないだろう』
『俺がここまでこれたのは、お前がいてくれたおかげだ』
爆谷は唇を強く噛む。
血の味が広がる。
視界が揺れる。
空が白み始めている。
『爆谷……今までありがとう』
(くっそ)
血まみれの手で顔を覆う。
指の隙間から、熱いものが滲む。
(だからあんたが、嫌いなんすよ……)
沈黙が続く。
世界が、ゆっくりと明るくなっていく。
遠くで鳥の声がひとつ、またひとつと重なる。
「橘っち」
震える声。
息を吸うたび、胸が軋む。
「灯っちを頼んだっす……」
親指が力なく動く。
通話が途切れ、画面の光が消える。
スマホが、手から滑り落ちた。
◇
日が昇り始めるアジト。
地下空間に設けられた広いフロアに、薄い朝の光が天窓から差し込む。
コンクリートの床を淡く照らし、無数の機材の影を長く引き伸ばす。
静かな電子音だけが規則的に鳴っている。
「……ああ」
橘想はスマホを強く握る。
指先が白くなるほどに。
「後は任せろ」
低く、はっきりと告げる。
顔を上げ、まっすぐ前を向く。
その先――
巨大な水槽が鎮座している。
分厚いガラスの内側で、淡い光が揺れる。
透明な液体の中、ナナの身体が静かに沈んでいる。
長い髪が水中でゆらりと揺れている。
水槽の外で、橘想は一歩踏み出す。
朝の光が、その横顔を静かに照らしていた。




