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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
第四章 最終決戦編

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第60話 嫌いという縁と夜明けの託し

 深夜の街路を、爆谷はふらつきながら歩いていた。


 血に濡れたシャツが肌に張りつき、焼け爛れた痕からはまだ熱が残っている。アスファルトに落ちる足取りは不規則で、片足を引きずるたびに黒い影が滲んだ。


「ぅ゙……ぁ"」


 喉の奥から、かすれた音が漏れる。


(地獄が消えてる……橘っちはちゃんと間に合ったんすかね……)


 見上げた夜空は、さっきまでの灼熱が嘘のように静まり返っていた。


 次の一歩が出ない。


 爆谷はその場に崩れ落ちる。


 冷えた路面に頬がついた。


 遠くで車の走る音がする。


 意識が薄れていく中――


『君がミスするたびに』

『灯に辿り着く時間が、延びる』


『それが分からないなら』

『一緒にやる意味がない』


 かつての声が、はっきりと蘇る。


(ああ……まじで嫌いだったっすわ)


 闇が、視界を覆った。



──8年前。


 研究室。


 白い蛍光灯の下、資料と機材が無秩序に並ぶ空間。


「爆谷くん、大丈夫?」


 椎名灯が、椅子に座った爆谷の顔を覗き込んだ。


「ま、まぁ余裕っすよ、こんぐらい!!」


 爆谷は無理に口角を上げる。


「ならいいんだけど……辛くなったらいつでも言ってね」

「私が想くんにガツンと言ってあげるから」


 灯はそう言って、奥でパコソンをカタカタさせている橘想の方へ顔を向ける。


「……俺はそんなに厳しいことは言ってないぞ」

「そのぐらいのタスクなら5時間もあれば片付けられるはずだ」


 橘想は振り向かない。


「コラッ想くん、想くんがそんなだから、爆谷くん以外みんな出ていっちゃうんだよ!!」

「ちょっとぐらい褒めたらどうなの?」


「……?まだ、褒めるようなことを爆谷はしてないはずだが」


 橘想は手を止め、不思議そうに二人を見つめる。


 灯が小さくため息をつく。

白い蛍光灯の光が、彼女の睫毛の影を頬に落としていた。


「ごめんね爆谷くん。いつもありがとね。想くんの無理難題に付き合あってくれて」


 まっすぐに向けられた視線は柔らかい。

 爆谷は一瞬だけ目を逸らし、すぐにいつもの調子を作った。


「いやいや、俺っちは全然大丈夫っすよ!!」

「それに、橘っちの言う通りっす」

「俺っちにかかればこのくらい余裕なんで」


 歯を見せて笑う。肩をすくめ、大げさに胸を叩く。

 軽い冗談のような仕草。だが、握った拳の爪が掌に食い込んでいた。


(ああ、橘とかいうゴミまじでうぜええええぇ)

(ちょっと天才だからって調子に乗りやがってムカつくわ)

(灯さんがいなかったら、マジ秒でやめてるわこんな研究室)


 その笑顔を、灯はじっと見つめていた。


「爆谷くん、無理に笑わなくていいんだよ」


 静かな声だった。

 爆谷の喉がわずかに鳴る。


「あ……うっす」


 視線を逸らし、後頭部をかく。耳の先が赤い。


(まじで天使っすわ〜)


 灯は少し困ったように眉を下げる。


「想くん、ほんとに無神経で鈍感だけど悪気はないから。どうか、許してあげて」


 その言葉に、部屋の奥から低い声が飛ぶ。


「おい、聞こえてるぞ」


 キーボードを打つ手は止まらない。


「いや、俺っちは全然気にしてないっすよ!!」


 即答だった。勢いよく手を振る。


(あぁ〜なんで灯さん橘想とかいうゴミと付き合ってんのかなぁ。まじムカつくわ〜)


 灯はむっと頬を膨らませ、椅子ごと橘想の方へ向き直る。


「想くんはほんとに、爆谷くんに感謝しなさいよ」


 橘想はようやく手を止め、ゆっくりと振り返る。

 無表情のまま、二人を見比べる。


「……いや、感謝はしてるつもりだが」


「ならちゃんと言葉にしなさい!!」


 研究室に、灯の声がはっきりと響いた。

 静かな機械音の中で、三人の距離だけが、わずかに歪んでいた。


 笑い声の混じる研究室。


 だが爆谷の笑みだけは、どこか薄かった。


(あいつが天才だから?)


 橘想を見つめる。


 和気あいあいとした空間の中で、爆谷の心だけが浮いていた。



 椎名灯が昏睡状態になった。


 以降、研究室の明かりは昼夜を問わず灯り続けていた。


「……爆谷」


 橘想が低い声で名を呼ぶ。


「このデータ、三箇所ズレてる。仮定条件が甘い。そのまま進めたら、全部無意味になる」


 机の上の資料を指でなぞる。


「修正しろ。今すぐ。時間がない」


 爆谷は奥歯を強く噛み締めた。

 顎の筋肉が浮き、こめかみに血管が浮き出る。


(こいつ……俺っちがどんだけ頑張ってると!!)


 机の上には、徹夜で積み上げた資料と数式の束。

 赤い修正跡が、無造作に引かれている。


「いや、橘っち……俺っちも徹夜で――」


「関係ない」


 言葉は刃のように短い。

 橘想は顔も上げない。


「努力の量じゃなくて、精度の話をしてる」

「結果が出なければ、やってないのと同じ」


 淡々とした声。感情の揺れはない。

 その無機質さが、爆谷の胸を内側から引っ掻く。


(ゴミが……)


 拳を握る。

 爪が食い込み、白くなった指先がわずかに震える。


「君がミスするたびに」

「灯に辿り着く時間が、延びる」


 その名が出た瞬間、空気が変わった。

 爆谷の眉がぴくりと動く。


 視界の端で、眠る灯の姿がよぎる。

 点滴の管。規則的な電子音。


「それが分からないなら」

「一緒にやる意味がない」


 橘想は資料を引き寄せ、赤ペンを走らせる。

 紙を削る音が、静まり返った研究室に響く。

 機械の駆動音と、その乾いた擦過音だけが残った。


(……くっそ!!)


 喉の奥で押し殺す。

 爆谷は深く息を吸い込み、吐く。


 視線を落とし、修正箇所を見つめる。

 怒りも悔しさも飲み込み、何も言わずに資料を受け取る。


 背筋を伸ばし、橘想の隣に立つ。

 逃げずに、その場に留まり続ける。


 研究室の灯りは、夜が明けるまで消えなかった。



 その後、椎名灯が死んだ。


 葬儀の白い花の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。

 昼の街は何事もなかったかのように騒がしく、信号は規則正しく色を変え、人の波が絶えず流れていた。


 その中を、爆谷はふらふらと歩いていた。

 肩は落ち、足取りは不安定で、影だけがやけに長く伸びている。


(灯っちは死んで、研究も完成できないまま……)

(俺っちって今まで、何のために頑張ってたんだろう)

(俺っちの人生って……なんだったんだろう)


 視界が滲む。

 瞬きをしても、にじんだ景色は戻らない。

 クラクションの音も、通り過ぎる会話も、どこか遠くに聞こえる。


 ポケットの中でスマホが震えた。

 現実に引き戻されるように、ゆっくりと取り出す。


「はい……爆谷っす」


 声は掠れていた。


『爆谷さん、大変なんです!!』


 受話口の向こうで荒い息。


「……護くん?どうしたんすか」


 足を止める。

雑踏の真ん中で、車のクラクションも、人々の声も、一瞬だけ音を奪われたように消える。


『兄貴っ……兄貴が!!』


 スマホの小さな画面から流れる声に、爆谷は目を見開き、体の力が抜ける。手が震え、指先で握るスマホが微かに揺れた。言葉の意味が脳を突き抜け、頭の中でざわめきが渦を巻く。


 やがて震える指で通話を切ると、爆谷は荒い息を吐き、遠くの街路を睨みつけた。


「あのゴミがっ……!!」


 胸の奥で怒りが泡立ち、全身に熱が広がる。拳を強く握り込むと、爪が掌に食い込み、白くなった指先が小刻みに震えた。


──橘想が、現実から逃げやがった。


 ふざけんなよ。


 俺っちがどれだけ手伝って、どれだけ思ってたと思ってんだ。


 灯っちを救うんじゃなかったのかよ。


 ゴミが。


 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。ゴミが。 ゴミが。 ゴミが。


 ゴミが──


 歯を強く食いしばる。

 顎の筋肉がこわばり、視界の端が少し揺れる。


「俺っちが救ってみせる……」

「てめえみたいなゴミじゃなく、俺っちが……」



 爆谷の研究室。

 白い蛍光灯がまぶしく、埃を帯びた机の上には、無数の資料と数式が散乱していた。

 窓の外の光はすでに夜を追い越し、室内に差し込むのは街灯の橙色だけ。


 爆谷は椅子に深く座り、肩を震わせながらキーボードを叩く。

 眉がぎゅっと寄せられ、唇が歯を噛むように固まる。目を細め、指先を震わせながらキーボードのキーを押し込む。肩を強く震わせ、息を荒く吐き出す。


 橘想がFICTIONに落ちた影響で、現実とFICTIONの結びつきは格段に強くなっていた。


 あれだけ遅々としていた研究は、爆谷の必死の手とFICTIONの影響で急速に、確実に進んでいる。


 だが、現実の壁は依然として厚く、ひとつの計算の誤差が全てを無に帰す。


──カタカタカタッバキッカタカタッ


 キーボードの一部が割れ、キーが外れ飛ぶ。

 爆谷は拳を震わせ、額に皺を寄せて歯を食いしばる。

 指先を硬く握り、画面を睨みつける。肩が小刻みに震え、呼吸が浅く、唇をぎゅっと噛みしめた。


「クソがあ"あ"あ"っ!!」


 言葉と共に、机の上のキーボードを叩きつける。

 残骸が飛び散り、爆谷は手当たり次第に資料や道具を叩きつけ、怒りの波をぶつける。

 部屋に響くのは、叩き割れる音と、息の荒さだけ。


 既に、爆谷は独りで研究を続けて1年が経っていた。

 その年月の中で、爆谷の心は、


 怒り。


 執念。


 悔しさ。


 無力感。


 そして──橘想という人間の真意を、


 理解してしまっていた。



 研究室の扉を開けた瞬間、冷えた空気が頬を撫でた。

 人の気配の消えた部屋は、音を吸い込んだまま沈黙している。


 埃の積もった机。

 止まったままのモニター。

 配線はそのまま、椅子もあの日の位置のまま。


(ここに来るのは、1年ぶりっすね……)


 爆谷はゆっくりと室内を見渡す。

 足を踏み出すたび、床がわずかに軋む。


「橘想。あんたは辛い現実から自分勝手に逃げたゴミだ」


 かつて橘想が座っていた席を見る。

 整然と並べられていたはずの資料は、そのまま時間に取り残されている。


「でも……俺はもっとゴミだ」


 橘想の机に手を置く。

 指先にうっすらと埃がつく。


「俺の力じゃ、灯っちを生き返らせる手立ては何も、何も……」


 指先の感触が、妙に現実的だった。


「ほんとは、わかってるんすよ」

「あんたは逃げたんじゃないってことぐらい」


 喉が詰まる。

 視界が歪む。


「自分の命と引き換えに……俺に研究を任せたんだってことも」


 爆谷はゆっくりと膝を折り、机に額を押しつける。

 硬い天板の冷たさが、熱を持った皮膚に伝わる。


「……あんたと灯っちが、お似合いだったってこともっ」


 声にならない音が、机に吸い込まれる。

 肩が小さく震えた。


 そのとき。


「爆谷」


 背後から声がした。


 懐かしい嫌いなあの淡々とした声。


 空気が揺れる。


 風が頬をつたう。


「へ?」


 爆谷はゆっくりと顔を上げた。

 涙で滲んだ視界の中、逆光に立つ人影が輪郭を持つ。


「たちばな……っち?」


 立ち上がることもできず、呆然と見つめる。

 止まっていたはずの時間が、かすかに軋みながら動き出すのを感じた。



──現在。


 ひび割れた路面に、爆谷は仰向けに倒れている。

 衣服は裂け、皮膚は焼け爛れ、乾ききらない血が黒く固まりつつあった。

 夜明け前の空は薄青く、街灯の光がかすかに残っている。


 胸が上下するたび、湿った音が喉の奥で鳴る。


 そのとき、胸元でスマホが震えた。

 無機質な着信音が、静まり返った路地にやけに大きく響く。


 爆谷は指先をわずかに動かす。

 血で滑る手で、どうにか端末を掴み取る。

 画面の光が、赤黒い掌を照らす。


 そのままゆっくりへと耳に当てた。


「橘っち……ナナっち捕まえられたんすよね」


 声は掠れ、息が混じる。


『ああ』


 短い返答。

 向こう側の空気は静かだ。


「……でも俺っち、もう無理っすわ。身体中もうボロボロで」

「どうするっすか、モルモットにでもするっすか?」

「ゴミな俺っちには……もうそれぐらいしかできないっす」


 乾いた笑いが、途中で咳に変わる。

 口端から新しい血がこぼれ、路面に落ちる。


 夜明け前の静寂が流れる。

 遠くで風がビルの隙間を抜ける音。

 流れ出た血が、細い筋となってアスファルトの溝を伝う。


『……するわけないだろう』

『俺がここまでこれたのは、お前がいてくれたおかげだ』


 爆谷は唇を強く噛む。

 血の味が広がる。


 視界が揺れる。

 空が白み始めている。


『爆谷……今までありがとう』


(くっそ)


 血まみれの手で顔を覆う。

 指の隙間から、熱いものが滲む。


(だからあんたが、嫌いなんすよ……)


 沈黙が続く。

 世界が、ゆっくりと明るくなっていく。

 遠くで鳥の声がひとつ、またひとつと重なる。


「橘っち」


 震える声。

 息を吸うたび、胸が軋む。


「灯っちを頼んだっす……」


 親指が力なく動く。

 通話が途切れ、画面の光が消える。


 スマホが、手から滑り落ちた。



 日が昇り始めるアジト。

 地下空間に設けられた広いフロアに、薄い朝の光が天窓から差し込む。

 コンクリートの床を淡く照らし、無数の機材の影を長く引き伸ばす。


 静かな電子音だけが規則的に鳴っている。


「……ああ」


 橘想はスマホを強く握る。

 指先が白くなるほどに。


「後は任せろ」


 低く、はっきりと告げる。

 顔を上げ、まっすぐ前を向く。


 その先――


 巨大な水槽が鎮座している。

 分厚いガラスの内側で、淡い光が揺れる。


 透明な液体の中、ナナの身体が静かに沈んでいる。

 長い髪が水中でゆらりと揺れている。


 水槽の外で、橘想は一歩踏み出す。

 朝の光が、その横顔を静かに照らしていた。

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