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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
第3章 兄と約束編

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第50話 責任の天秤と焼ける腕

爆風で抉れた天井の穴から、夜が覗いている。


 地下室は原形を失い、上階の炎がそのまま流れ落ちていた。

 焦げた紙片が舞い、熱気が視界を揺らす。


 砕けた水槽の残骸と、床に広がる液体。

 赤く滲んだそれが、炎を鈍く照り返している。


 その中央で、黒羽ツグミは倒れている。

 外れた管が手足に絡み、液が静かに滴っていた。


『じゃあ、また今度やりましょう』


 実の声。

 不意に、胸の奥で響く。

 炎の轟音の中なのに、その言葉だけがやけに鮮明だった。


(……あの約束も破っちゃったな……)


 指先が、焼けた床に触れる。


 熱い。


 それでも、わずかに力を込める。

 爪先が、焦げた表面を、かり……と掻いた。


 力は入らない。

 ただ、逃げるように、縋るように。


 黒く焼けた粉が、指の腹に付着する。


(私が約束を破ったせいで、パパとママは死んだ……)


 あの日の光景が、炎と重なる。

 視界が揺れ、息が浅くなる。


(私は、お兄ちゃんの道具。最後まで使えない……道具)


 そう思えば、楽になれるはずだった。

 なのに胸の奥が、ぎり、と軋む。


「でもっ」


 声が勝手にこぼれる。


「死にたく……ないなっ……」


 喉が震える。

 涙が頬を伝い、床に落ちる。


 落ちた瞬間、じゅ、と小さく音を立てて消えた。


 その時──


 爆ぜる音の向こうから、


 声が落ちてきた。


「ツグミさん!!」


 炎の唸りにかき消されそうになりながらも、はっきりと届く。


「……え?」


 涙で歪んだ視界を、かろうじて持ち上げる。


 崩れた書架の上。

 燃え残った本を踏み越え、実がこちらを覗き込んでいた。


 煤で汚れた頬。裂けた額。

 焼け焦げた制服の袖。

 火の粉が肩に降りかかっても、払おうともしない。


 しゃがみ込み、身を乗り出し、

 ただ真っ直ぐにツグミを見下ろしている。


 炎を背に受けたその輪郭が、揺れる。


「よかった……」


 掠れた声が、熱気の中に溶けた。


「なんで……」


 喉の奥で擦れた声が落ちる。

 涙と煤で濡れた顔が、かすかに強張る。

 状況、、目の前の現実、どれも噛み合っていない。


「だいぶ火がまわってます」


 書架の上から飛び降りた勢いのまま、実はツグミの前に踏み込んだ。

 着地の衝撃で灰が跳ね、火の粉が散る。


 体勢を立て直すより早く、右手を差し出した。

 焼け焦げた袖の先から伸びる、煤まみれの手。


「速く逃げま──」


「なんでよっ!!」


 叫びが叩きつけられ、差し出された手が空中で止まる。

 炎が大きく爆ぜた。


「あんたっ……イカれてんじゃないの……?」

「私は……あんた達を裏切ってたんだよ……」

「あんたを本気で殺すつもりだった!!」


 言葉がうまく繋がらない。

 途切れ、噛み、震えながら吐き出される。

 呼吸は荒く、喉が焼けつくように痛む。


 炎に照らされた顔は、怒りよりも、行き場を失った色をしていた。


「なんで来たのよ……意味わかんないっ!!」


 視線が落ちる。


 それきり、言葉は途切れた。


 しばらく、誰も動かない。


 メラ……メラ……と、炎が柱を舐める音だけが響く。

 爆ぜた木材が、ぱちり、と弾ける。


 熱気が二人のあいだを揺らした。


 やがて、ツグミは床すれすれまで俯く。

 肩が、小さく震えている。


 その静けさを裂くように、


「……僕だって」


 実が口を開く。


「思うところはあります……」


 差し出していた手が、止まる。


 指先が引き、拳へと変わる。


 熱気の中で、その声だけが、まっすぐに落ちた。


「っ……」


 炎の音だけが、間を埋める。


──コツンッ


「いたっ」


 額。


 ほんの小さな衝撃。


 叩かれたというより、触れられたに近い。

 熱の中では、それさえ少しひんやり感じるほどの弱さ。


 顔を上げると、実が軽く握った拳をこちらに向けていた。


「これでおあいこですっ」


 唇を尖らせ、不器用に。

 煤で汚れた顔のまま、妙に真面目な表情だった。


「……え?」


 状況が飲み込めず、瞬きが止まる。


「僕たちはお互い、やっちゃダメなことをしました」


 実は、ほんの少しだけ視線を下げた。

 責めるような色は、どこにもない。


「……だからもう、ツグミさんだけが責任を負う必要はないんです」


 一度握った拳を、ゆっくりと開く。


 赤くなった指先。

 火の粉で小さく裂けた皮膚。


 その手が、今度こそまっすぐ差し出される。


「帰りましょうよ……ツグミさん」


 優しい笑顔だった。


 無理に作ったものでも、強がったものでもない。

 煤で汚れ、頬に血が滲んだままなのに、

 その目だけはまっすぐで、揺れていなかった。


 ツグミの喉が、ひくりと鳴る。


 唇を強く噛む。

 震えを止めようとして、うまくいかない。


 視界が滲む。

 炎の赤も、実の輪郭も、すべてが溶ける。


 それでも、逃げるようには逸らさなかった。


 ゆっくりと、指先を持ち上げる。


 躊躇いが、ほんの一瞬だけ挟まる。

 触れたら、戻れなくなる気がして。


 それでも──


 震える手が、そっと重なる。


 煤と涙で濡れた指が、実の手を掴む。

 弱く、けれど確かに。


 ぎゅ、と力がこもった。



 燃え盛る屋敷の廊下。

 梁が崩れ、天井は炎に包まれ、足場は崩れかけている。


「はあっ……はあっ……」


 実はツグミに肩を貸したまま、前だけを見て進む。

 片腕で支え、もう片方で崩れた机を押しのける。


 足取りは重い。

 踏み出すたびに灰が舞い、焼けた床が軋む。

 呼吸は荒く、喉の奥でかすれた音が混じる。


 ツグミは俯いたまま、視線だけを横へ滑らせた。


 煤にまみれた横顔。

 歯を食いしばり、汗が頬を伝っている。


(なんで、そんなことで許せるの……?)

(なんで、そんなに必死になって、助けてくれるの……?)


 唇が、かすかに震える。


 強く噛んでいたはずなのに、力が抜けていく。

 眉が寄り、目尻が歪む。


 涙が、また一筋こぼれる。


 横顔を見つめるその瞳が、揺れていた。


 その瞬間。


「っ!!」


 実の表情が強張る。


 前方――出口付近。


 炎が壁のように立ちはだかっていた。


 天井から落ちた梁が燃え、

 吹き上がる火が通路を塞いでいる。

 熱風が押し寄せ、肌を刺す。


 一歩踏み出しかけた足が止まる。

 空気が、押し返す。


「……っ」


 実は歯を鳴らし、すぐに視線を切り替える。


「っ一旦引き返しましょう」


 ツグミを支えたまま、体の向きを素早く横へ。

 炎の勢いが弱い通路を探し、壁伝いに移動する。

 背後で、柱が崩れ落ちた。


「っ実くん!!」


 ツグミの叫びに、実が上を見上げる。


 天井の梁が、赤く裂けていた。

 次の瞬間、それが崩れ落ちる。


──ドンッ!!


 炎をまとった木材。


「あ"あ"あ"っ!!」


 実はとっさにツグミを背へ押しやり、腕を振り上げた。

 燃え盛る梁を、正面から受け止める。


 鈍い衝撃。


 膝が沈み、床にひびが入る。


 火の粉が、視界いっぱいに散った。


「実くんっもういいっ!!」「もういいからっ!!」


 喉が裂けるような声だった。

 涙で視界が滲み、炎が歪む。


「私はほっといて1人で逃げてよっ!!」


 胸の奥から、無理やり絞り出す。

 突き放す言葉なのに、指先は服を掴んで離れない。

 願っているのか、拒んでいるのか、自分でも分からないまま。


「ゔぐっ……いやだ……」


 梁を押さえたまま、実が絞り出す。


「実くん!!」


「いやだ!!」


 痛みに歪みながらも、

 その拒絶だけは、まっすぐだった。


 梁を押し返しながら、実が吐き出す。


「誰かが死ぬのをみるのは……」


 炎に照らされた実の横顔が、わずかに強張る。


 その目が、一瞬だけ遠くを見た。


「もういやなんだっ!!」


 その叫びに、ツグミの胸が強く打つ。


 実は受け止めていた梁を払い落とし、

 そのまま出口を塞ぐ炎へ向かった。


 壁のように立ち上がる火。

 近づくだけで皮膚が焼ける熱。


 それでも実は止まらない。


「はあ"あ"っ!!」


 実が、燃えた壁へ手を伸ばす。


 次の瞬間、


 炎が腕に噛みついた。


 袖が一気に燃え上がる。

 布が縮み、肉は黒く焦げ、火の粉が散る。


 熱が弾け、空気が歪む。


 焦げた繊維の匂いが、はっきりとツグミの鼻を刺した。


「うぐあ"あ"っ!!」


 それでも実は手を引かない。


 焼けた壁に押し当てたままの指先が、わずかに食い込む。


 次の瞬間、赤く軟化した木材が内側から歪んだ。


 軋みが走り、炎が揺れ、形を保てなくなった火が左右へ崩れる。


 触れた一点から、壁が歪む。


「はあ"あ"あ"あ"あ"っ!!」


 意地。


 叫びとともに、壁が不自然に形を変える。


 燃える屋敷に夜が差し込んだ。

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