第51話 二人への宿題と繋がる約束
「ん……」
薄く消毒液の匂いが漂う部屋で、実はゆっくりと目を開けた。
白い天井。規則正しく並ぶ蛍光灯。簡易的なパーテーションで区切られた空間の向こうからは、かすかな話し声と足音が聞こえてくる。ここは現災署の特設医務室だった。通常の医療設備に加え、応急処置用の器具が整然と並んでいる。
「あ、起きた?」
穏やかな声がして、実は視線を横へ向ける。
「護さん……」
ベッド脇の椅子に、片手に本を持った眼帯姿の護が座っていた。いつも通りの飄々とした雰囲気だが、その目はしっかりと実を見ている。
「ほんとよく寝るね〜君は。丸5日も寝てたんだよ」
実ははっとして、自分の身体へ視線を落とした。
上半身には厚く包帯が巻かれ、両腕は特に厳重に固定されている。白いガーゼの隙間から覗く皮膚は赤黒く変色し、火傷の痕が生々しく残っていた。胸部や脚にも固定具があてられ、骨にヒビが入ったことを物語っている。大きな手術を受けた後なのだと、嫌でも理解できた。
その瞬間、記憶が一気に蘇る。
「ツグミさんは……!!」
護はわざとらしく、はぁ〜と長いため息をついた。
「……ツグミちゃんはウチで報告書書かせてるよ。今までの同行ぜ〜んぶの」
実の肩から、目に見えて力が抜ける。
「……よかった」
胸の奥に溜まっていた重石が、ようやく外れたようだった。強張っていた表情が、心底安堵したものへと変わる。
その様子を見つめたまま、護は本を閉じた。
「……正直」
声音が、少しだけ低くなる。
「君のしたことを俺は褒められないよ」
実は静かに護へ視線を向けた。
「俺も狩野と同じ気持ちだ。あの時、君は命を張ってまで、ツグミちゃんを助けるべきではなかったと思う」
淡々としているが、誤魔化しのない言葉だった。
「君があの場で死んでいたかもしれないし。もし今、錬金術じゃないと対処できない災害が発生したら、ツグミちゃんを助けたことで、失われる命がある。厳しいようだけど、命を選ばなきゃいけないほど……現実は残酷だ」
実はゆっくりと視線を落とす。
「……はい」
短い返事だった。
実の視線は膝の上に落ちたまま、包帯を巻かれた指先がわずかに強張る。
護は少し間を置き、続ける。
閉じた本の角を、親指でとん、と整える。
「……でも、俺の考えを君に押し付けるつもりはない」
静かな声だった。
その視線だけが、まっすぐに実を射抜く。
「え」
実が顔を上げる。
驚きに、まばたきが一拍遅れる。
「君が後先考えずに動いたおかげで、ゾンビ災害のひよりちゃん、サラマンダー災害の男の子、応声虫災害の家族、亜空間災害の大勢の市民、焔堂に襲われてたOL、そしてツグミちゃん」
護は指折り数えるように言った。
「この2カ月の間に救われた命は簡単に切り捨てていい数じゃない。……だからさ」
真っ直ぐに実を見る。
眼帯の奥の視線は揺れない。
「これから君は、この残酷な現実と君自身がどう向き合うのかを、一生懸命考えるんだ」
護の声は低く、静かに落ちる。
指先が、本の背をゆっくりと撫でた。
「後先考えずに動くんじゃなくて、向き合った上で動いてほしい。おっけー?」
わずかに首を傾ける。
口元だけが、かすかに緩んだ。
実は小さく息を吸い込み、うなずいた。
「はい……ありがとうございます」
護はにっと笑う。
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
「はいっよろしい」
椅子を引き、ゆっくりと立ち上がる。
ベッド脇に小型のゲーム機をそっと置いた。
「んじゃゲーム置いとくから。病人はしっかりと安静にしとくんだぞ〜」
ひらりと手を振る。
スーツの裾が揺れ、医務室の扉が静かに閉まった。
◇
護が廊下に出ると、静かな空気が流れている。
「……護さん」
護は足を止める。
前を向くと、ツグミがまっすぐ立っていた。
「実くんのお見舞い?」
「はい、報告書があらかた書けたので……」
手にした書類の端を、ぎゅっと握りしめている。
護はふと、先ほどの実の安堵した顔を思い出す。
一瞬だけ視線を伏せ、すぐに戻した。
「……ツグミちゃん。誰も言わないから俺がはっきりいわせて貰うよ」
ツグミは真剣な面持ちで護を見る。
背筋が、さらに伸びる。
「君のしたことは許されることじゃない。正直、人手不足じゃなかったら今すぐクビにしてるよ」
空気が冷える。
ツグミの喉が、小さく上下した。
「っ……はい」
奥歯を噛みしめる。
指先が白くなるほど、書類を握り込んだ。
「経緯はどうあれ君は同僚を殺そうとしたんだ。しかも内部情報横流し。それがなければ助かってた命もあったかもしれない」
言葉が静かに落ちる。
廊下の空調音だけが、やけに響いた。
ツグミは俯き、強くうなずく。
長い前髪が影を落とす。
「……はい」
声は低く、かすれていた。
握った拳がわずかに震える。
護はまた、はぁ〜とため息をつく。
額を軽く掻き、視線を外す。
「でも、それは俺も同じ」
わずかに肩をすくめる。
声色が、ほんの少しだけ柔らぐ。
「え」
ツグミが顔を上げる。
目が大きく見開かれた。
「実は俺、実くんをなが〜い間疑っててさ。その疑ってた時間があれば、同時災害の被害を抑えられてたかもしれない。実くんにはどうでもいいって言われたけどね」
軽く笑うが、目は笑っていない。
視線が廊下の先へと流れる。
ツグミの唇がわずかに開く。
けれど声にはならず、指先だけが小さく震えた。
「俺も君を一番許されちゃいけない人に許されてる」
静かに言い切る。
その目が、まっすぐにツグミを捉える。
その言葉に、ツグミの表情が引き締まる。
背筋がすっと伸びた。
「だから俺達だけは、忘れちゃいけない。自分の過去の責任を。背負った上で生きていくんだ。おっけー?」
穏やかな声に戻る。
口元がわずかに緩む。
「……はい、ありがとうございます」
深く頭を下げる。
短い白髪がさらりと揺れ、うなじが覗いた。
「よしっじゃあ実くんもう起きてるから」
護は手を叩き、軽く笑う。
廊下の空気が少しだけ緩む。
「ごめんなさいしておいで〜」
ひらりと手を振り、そのまま背を向ける。
足音がゆっくり遠ざかっていく。
ツグミはその背中をしばらく見つめた。
きゅっと結んでいた唇が、ほんのわずかにほどけた。
やがて医務室の扉を開ける。
消毒液の匂いが、ふわりと鼻をかすめた。
ベッドの上でゲーム機をポチポチしていた実が、顔を上げる。
指の動きが止まった。
「あ、ツグミさん!!」
ぱっと、花が咲くように明るい表情。
目尻が一気に下がった。
ツグミは片手を軽く上げる。
口元がわずかに緩み、すぐに整えられる。
「実くん……身体大丈夫?」
ベッドの隣の椅子に腰を下ろす。
白いパイプ椅子が小さく軋んだ。
「大丈夫ですっしばらくは安静にしてないとダメらしいですけど」
胸を張ろうとして、わずかに顔をしかめる。
それでも笑みは崩れない。
「そっ……か」
視線が包帯へと落ちる。
指先が、膝の上で静かに重なる。
「ツグミさんは怪我大丈夫なんですか?」
首をかしげる。
まっすぐな視線が向けられる。
「私は全然。……実くんが庇ってくれたおかげで」
一瞬、言葉の間が空く。
白い短髪が、わずかに揺れた。
「ならよかったです」
迷いのない声。
頬がふっと緩む。
無邪気な笑顔。
包帯だらけの姿に、不思議と影はない。
視線が合い、ツグミは思わず目を逸らす。
白い睫毛が震え、すぐに伏せられる。
代わりに、包帯だらけの実の身体へ視線が落ちる。
白と赤黒い痕。
嫌でも目に入る。
指先がわずかに強ばる。
「……ごめんなさいっ」
ツグミはベッドの布団を掴み、深く頭を下げた。
皺が、きつく寄る。
「実くんを殺そうと、なんども、なんども、ハンマーで叩いた。それなのにっ……君はそんな私を助けてくれて、そのせいでこんな大怪我を……」
途切れ途切れの声が落ちる。
白い短髪が額にかかる。
肩が小さく上下する。
「本当に……ごめんなさいっ」
布団を握る手に、さらに力がこもる。
額が沈み込むほど、深く。
「いやいや、そんな気にしないでくださいよ!!」
実は慌てて身を起こしかける。
すぐに痛みに顔をしかめ、息を詰まらせた。
「僕も、コツンってやっちゃいましたし……」
頭をかく。
視線が少しだけ泳ぐ。
ツグミは布団をぎゅっと握りしめ、顔を上げた。
白い短髪がさらりと揺れる。
「私の命はあなたのおかげで助かった。だから、私にできることがあったらなんでもする。これから……ずっと」
言葉の終わりが、わずかに震える。
握った拳が、布団を強く引く。
潤んだ瞳が、真っ直ぐに実を見つめる。
まばたきもせず、逸らさない。
実は少し困ったように笑った。
頬をかすめるように、視線を横へ逃がす。
「……そんな責任負わないでくださいよ」
そう言って、布団を掴むツグミの手にそっと触れる。
包帯越しの指先が、白い指に重なる。
ツグミの肩が小さく跳ねる。
指先が、ぴくりと震えた。
「私の気が収まらないよ……」
声がかすれる。
視界が滲み、まつ毛の先が濡れる。
涙が頬を伝い、布団へ落ちた。
「……じゃあ」
実はもう一方の手でゲーム機を持ち上げた。
軽い電子音が鳴る。
「一緒にゴラクエしましょ!!」
包帯だらけの顔いっぱいに笑みが広がる。
目尻が、無防備に下がった。
『じゃあ、また今度やりましょう』
約束。
胸がぎゅっと締めつけられる。
胸元を押さえる。
鼓動が、強く打つ。
「っ……うんっ」
慌てて涙を拭う。
そのまま口元を持ち上げる。
その時、
重なった手が視界に入った。
白い指と、包帯の巻かれた指先。
「っあああっ!!」
一気に顔が赤く染まる。
弾かれたように手を引っ込めた。
「……ツグミさん?」
実が首をかしげる。
まっすぐな視線が向けられる。
目が、合う。
白い肌に、不自然なくらい赤みが浮く。
「あっ……その、そうだ!!」
声が裏返る。
視線が落ち着きなく揺れる。
ツグミは勢いよく立ち上がり、背を向ける。
椅子が大きく鳴った。
「私、今からゲームとってくるからっ!! 約束だったしね、うんっ」
早口に言い切る。
白い短髪がばさりと跳ねる。
逃げるように部屋を飛び出していく。
扉が勢いよく閉まった。
実はぽかんとしながら、その背中を見送った。
ゲーム機を持ったまま、まばたきをして。
扉の向こう。
廊下を走る足音が、やけに大きく響く。
胸元を押さえる。
鼓動が、速く強く打ちつけていた。
(なんなの……なんなのこれっ)
息が浅くなる。
喉の奥が、ひりつく。
立ち止まり、壁に背を預ける。
視線が、ゆっくりと自分の手へ落ちる。
押さえた手のひらは、じんわりと熱を帯びていた。




