第47話 燃える屋敷と迷いなき背中
夜の屋敷は、炎に呑まれていた。
天井を這う装飾梁が軋み、赤く焼けた漆喰がひび割れて剥がれ落ちる。絵画は黒く縮れ、額縁ごと炎に包まれ、豪奢だったカーテンは火の舌に舐め取られながら灰へと変わっていく。シャンデリアは溶けかけた鎖を震わせ、いつ落ちてもおかしくない不安定さで揺れていた。
爆ぜる音。崩れる音。燃え盛る音。
酸素を奪う熱風が廊下を駆け抜ける。
その中を、実と狩野は走っていた。
狩野は振り返りながら叫ぶ。
「もう少しで出口だ!!踏ん張れよ実!!」
実はふらつきながらも、必死に足を前へ出していた。
肺が焼けるように痛い。視界が揺れる。だが止まれば終わる。
そう分かっているのに――
「……」
その足が、止まった。
狩野が気配に気づき、足を止める。
「……?どうした」
炎の向こう、崩れかけた階段の奥。
赤く揺れる視界の中で、その先だけがやけに暗く見えた。
煙が渦を巻き、焼け落ちた手すりが斜めに突き刺さっている。
その奥――まだ崩れきっていない空間。
実は、そこから目を離せなかった。
熱で頬が焼ける。肺が痛む。
それでも視線だけが、動かない。
「ツグミさんが……まだ中にいるはずです」
振り返らないまま、絞り出すように零した。
「はあ?」
狩野の声が低く落ちる。
苛立ち。理解不能への拒絶。そんな色が、はっきりと混じっていた。
天井から火の粉が降る。梁が軋む。
実は唇を噛み、それでも言葉を続ける。
「僕……助けにいってきま──」
「ふざけんな!!」
怒声が、空気を震わせた。
爆ぜる炎の音さえ、一瞬遅れて聞こえるほどの、鋭い一喝。
狩野の足が床を踏み鳴らす。焦げた木片が跳ねる。
実は狩野を見上げた。
まぶたがわずかに震え、視線が揺れる。
唇の端がかすかに下がり、噛みしめた歯の隙間から浅い息が漏れた。
狩野の拳が、ぎり、と鳴った。
「俺が助けなきゃ……お前は確実にあいつに殺されてたんだぞ……?」
「あいつが情報を流したせいで……東京第2は壊滅した」
炎が爆ぜる。
天井の梁が崩れ、火の粉が散る。
「あいつは俺達を裏切ってたんだよ……!!」
実の瞳が大きく見開かれる。
「……っ」
唇がわずかに開き、すぐに閉じる。
喉が動くが、声にはならない。
視線は揺れず、狩野を見たまま。
「悪いが俺は……」
「あいつをお前が命をかけてまで、助ける価値を感じない」
突きつけるように。だがどこか諭すように、言い切った。
炎の向こうで、梁が軋んだ。
焼け焦げた木材が崩れ落ち、火の粉が弾ける。
赤い火花が宙を舞い、二人の間を横切った。
天井の一部が崩れ、床に叩きつけられる。
衝撃で空気が揺れ、熱風が吹き抜ける。
ぱち、ぱち、と爆ぜる音。
ぱらぱらと灰が降る。
炎だけが揺れ続け、
その赤い光が、互いの顔を交互に照らした。
それでも、空間には言葉はなかった。
その沈黙を、実が破る。
「……僕は」
かすれた声。
だが、はっきりと届いた。
狩野の視線がわずかに動く。
実は一度だけ息を吸う。
「サクヤさんの話を聞いた時、僕は彼に共感したんです……」
まぶたがわずかに伏せられる。
炎の赤が、その奥で静かに揺れた。
「狩野さんは……正しいことを言ってると思います」
声は強くない。
押し返すでも、否定するでもない。
ただ、そっと置くように。
責める響きはなく、
まっすぐに、狩野へ向けられていた。
「でも僕は!!」
「命の選別者になりたくないんです!!」
次の瞬間
実は体を屋敷の奥へ向けた。
熱風が頬を打つ。
火の粉が舞う。
振り返らない。
そのまま、燃え盛る屋敷の奥へと駆け出した。
「おい、実!!」
狩野が地面を蹴る。
追いつける距離だった。
腕を伸ばせば、掴めたかもしれない。
──ボゴオオン。
天井の梁が、火をまとったまま落下する。
衝撃で床が揺れ、火の粉が爆ぜる。
焼け焦げた木材が横倒しになり、通路を塞いだ。
熱風が押し寄せる。
思わず足が止まる。
「っ……」
炎の向こう。
揺れる赤の中に、実の背中が見えた。
小さい。
頼りないほど細い。
それでも、足取りは止まらない。
迷いのない背中。
「……クソッ!!」
狩野は歯を食いしばる。
視線を一度だけ炎の奥へ向け、すぐに外す。
出口へ向かって、狩野は踵を返した。
◇
深夜の路地裏。
濡れたアスファルトが街灯を鈍く反射している。積まれたゴミ袋からは腐臭が漂い、遠くでパトカーのサイレンがかすかに響く。
──バァン!!
静寂を裂く銃声。
「……う……あ」
偽ツグミが地面に蹲る。
両手に穿たれた穴から血が溢れ、アスファルトに落ちる。
足音が近づく。
一定の速さ。迷いがない。
「……」
橘想が立ち止まる。
銃口はぶれない。
見下ろす視線に、揺れはない。
偽ツグミが、震える声で問う。
「あちしに……なにをするつもりなの……」
銃口は揺れない。
橘想の声が落ちる。
「色んな奴に変身してもらう……誰の奥に知恵の実があるのか、探すためにな」
低く、抑揚のない声だった。
偽ツグミの肩がびくりと揺れる。
血が指先から滴り落ちた。
──バァン!!




