第46話 逆用の一閃と漁夫の笑み
巨大で、暗い地下空間だった。
天井は見えず、湿った空気が重く垂れ込めている。石造りの壁には古い鎖の跡が残り、地下牢のような閉塞感が空間全体を支配していた。床に溜まった水が、揺れるたびに鈍い音を立てる。
指先から伸びる無数の糸が闇に溶け、その先で――巨大な影がうねる。
その影の後ろでサクヤが両手を構え続けた。
暴れ回る触手の嵐の中を、狩野は実を背負ったまま駆けている。
床を蹴り、跳び、転がり、紙一重で触手をかわす。風圧が背中を叩き、遅れれば一瞬で押し潰される距離感だった。
狩野の肺が軋む。それでも足を止めなかった。止まった瞬間、終わりだと分かっている。
実の体重は思ったより軽い。だが軽いからといって楽な状況ではない。
視界の端を、触手が何本も横切る。
叩きつけられた床が割れ、水が跳ねる。
逃げる、逃げる、ただ逃げるしかない。
「チッ、思ってたよりは楽だが、やっぱ逃げるだけで精一杯だな」
狩野は歯を食いしばりながら零した。
「実、なんか見えたか?」
「……9本です」
「あ?」
「クラーケンは20本触手があるのに、9本しか動かしてないんです」
実は続けた。
「サクヤさんは、両手から出した糸を、頭と触手9本に繋げて操っているんだと思います」
「なるほど、なっ!!」
狩野は迫る触手を大きく跳んでかわした。
「どうりで深海さんよりも楽に逃げられる訳だ」
着地した狩野は、床を蹴ってさらにもう一度身を翻す。
「ただ、だからといって――」
視界いっぱいに迫る影に、狩野は舌打ちする。
「俺と実じゃ、火力不足だな……」
「……僕に、ひとつ考えがあります」
その直後、
クラーケンの触手が連打のように叩きつけられた。
逃げ場を塞ぐように、四方から伸びる。
サクヤは、クラーケン越しにその動きを見ていた。
(……逃げ回るしかないか)
(いや、上の奴が思考を回してるってところか)
視線を実へと向ける。
(俺が9本しか動かせないのは、既に気が付かれてるか……?)
「行くぞ!!」
「はい!!」
狩野は実を背負い一気に踏み切った。
クラーケンの正面、かなり前方へと跳躍する。
(仕掛けてきたな……)
サクヤの口元が歪む。
(……だが同時に、罠にかかった)
狩野と実のその真下。
これまで使われていなかった1本の触手が、床にだらりと転がっている。
サクヤは、口の端をつり上げた。
「糸を付け替えれば、動かせるんだよ!!」
──ブオオオンッ!!
触手。
地面を抉る勢いで振り上げられる。
(……勝った)
そう確信した、その瞬間だった。
「っ!! なに!?」
サクヤの視界の端。
そこには予想外の構図が出来上がっていた。
奥に横たわっていた、これまで一度も使われていなかった別の触手。
その先端には、狩野の腰に巻き付けられていた金が、糸のように繋がれている。
サクヤの振り上げた触手の衝撃。
その力を受け、金で繋がれた触手を軸に、二人の体が弧を描いて跳ね上がった。
(こいつら……)
サクヤの目が見開かれる。
(クラーケンの力を、利用したのか!?)
「狩野さん!!」
実は狩野の背から身を投げ出すようにして、その体を前方へと押し出した。
跳躍で得た勢いが、そのまま狩野の体に乗る。
狩野の体は、矢のようにクラーケンの眼前へと、
射出。
「獲った」
狩野の爪が振るわれる。
空気を引き裂く音すら遅れる。
一閃。
狙いは一点――巨体の奥に潜む核。
爪が触れた瞬間、クラーケンの体が内側から裂けた。
眩い光が噴き出す。
悲鳴にもならない振動を残して、
怪物は無数の光の粒子となり、夜の闇へと霧散した。
「チッ、クソ!!」
サクヤは歯を食いしばり、思わず一歩退いた。
足裏が濡れた床を擦り、体勢を立て直す。
クラーケンが消えた空間を、信じられないものを見るように睨みつけた。
(だが、まだだ、『狼男』を盗ればまだ――)
サクヤは両腕を前へ突き出す。
その瞬間だった。
視界の端。
横合いから、金が伸びてきた。
サクヤの腕に、手錠のように巻き付く。
「なっ!!」
巻き付いた金が一気に収縮する。
抵抗する間もなく、サクヤの体は引き寄せられる。
空気が肌を擦る。
そのまま、床に叩き伏せられた。
「くっ……」
転がった勢いのまま、顔を上げる。
視線の先には、間近に立つ実の姿。
「はああああ!!」
実の手のひらの金が、瞬時に形を変える。
メリケンサック。
実の拳が金に鈍く光り、
次の瞬間――
踏み込んだ体重ごと、実の拳がサクヤの顎を打ち抜いた。
乾いた衝撃音。
サクヤの体が後方へと吹き飛ばされる。
「……あ……がはっ……」
後ずさるように、サクヤは匍匐前進した。
滲む視界。
ふと焦点が合った先――
床に転がっていたのは、
無造作にポイ捨てされた、おやつのゴミ。
「あなたが力を手に入れたい理由は、なんとなくわかりました……」
実は、サクヤの背後から零した。
「でもあなたは、力を手に入れて、何がしたかったんですか……!!」
「がっ……ぐぅ……!!」
喉を震わせたまま、サクヤの動きが止まった。
床を掻いていた指が力を失う。
伏せた顔がわずかに上がった。
「俺の……したかったこと……?」
かすれた声が、地下に落ちる。
その問いに答えが形を持つよりも、早く――
床に転がっていたゴミの内側から、
突如として光が噴き出した。
ピッ。
──ボゴオオオオオンッ!!
白熱した衝撃が空間を飲み込む。
「っ!!」
実が咄嗟に身を固める。
「なっ!!」
狩野が低く叫んだ、その直後――
爆風が二人を正面から叩きつけた。
足が床を離れ、体が後方へと押し流されそうになるのを、必死に踏みとどまる。
「俺があ"あ"ああ!!」
「俺がした"かったこ"とはああああ!!」
サクヤの叫び。
それは炎と混ざり合い、もはや人の声ではなかった。
剥き出しの感情が崩れていき、言葉だけが落ちていく。
「ツグミ"イ"イ"イ"イ"イ"イ"!!」
「うわあ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!」
燃え上がる影がのたうち、断末魔の音だけが地下に残る。
ピッ。
──ボゴオオオオオンッ!!
爆音が重なり、地下全体が軋みを上げた。
ドゴゴゴゴ、と地鳴りが連なり、崩壊が始まる。
「チッ、爆谷の野郎……!!」
狩野が、牙を剥くように吐き捨てた。
◇
夜の闇に浮かび上がる、燃え盛る屋敷。
黒く沈んだ空を背景に、炎が赤々と揺らめき、窓という窓から噴き出していた。
柱が爆ぜ、瓦礫が崩れ落ちるたび、火の粉が星屑のように舞い上がる。
遠くから見れば美しくすらあるその光景は、しかし、確実に何かが終わったことを告げていた。
「両陣営どっちも崩壊させながら、目的のデータまで取っちゃうなんて」
爆谷は肩をすくめ、指先でUSBをくるりと回した。
「俺っちてば、優秀だな〜」
背後で燃え続ける屋敷を、ほんの一瞬だけ振り返る。
そこに未練はなく、確認するような視線ですらなかった。
「じゃあね〜、サクヤっち」
気の抜けた調子で手を振った。
炎を背にして、笑みを浮かべて。
「貰っていくっすよ」




