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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
第3章 兄と約束編

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第46話 逆用の一閃と漁夫の笑み

 巨大で、暗い地下空間だった。

 天井は見えず、湿った空気が重く垂れ込めている。石造りの壁には古い鎖の跡が残り、地下牢のような閉塞感が空間全体を支配していた。床に溜まった水が、揺れるたびに鈍い音を立てる。


 指先から伸びる無数の糸が闇に溶け、その先で――巨大な影がうねる。

 その影の後ろでサクヤが両手を構え続けた。


 暴れ回る触手の嵐の中を、狩野は実を背負ったまま駆けている。

 床を蹴り、跳び、転がり、紙一重で触手をかわす。風圧が背中を叩き、遅れれば一瞬で押し潰される距離感だった。

 狩野の肺が軋む。それでも足を止めなかった。止まった瞬間、終わりだと分かっている。


 実の体重は思ったより軽い。だが軽いからといって楽な状況ではない。

 視界の端を、触手が何本も横切る。

 叩きつけられた床が割れ、水が跳ねる。

 逃げる、逃げる、ただ逃げるしかない。


「チッ、思ってたよりは楽だが、やっぱ逃げるだけで精一杯だな」


 狩野は歯を食いしばりながら零した。


「実、なんか見えたか?」


「……9本です」


「あ?」


「クラーケンは20本触手があるのに、9本しか動かしてないんです」


 実は続けた。


「サクヤさんは、両手から出した糸を、頭と触手9本に繋げて操っているんだと思います」


「なるほど、なっ!!」


 狩野は迫る触手を大きく跳んでかわした。


「どうりで深海さんよりも楽に逃げられる訳だ」


 着地した狩野は、床を蹴ってさらにもう一度身を翻す。


「ただ、だからといって――」


 視界いっぱいに迫る影に、狩野は舌打ちする。


「俺と実じゃ、火力不足だな……」


「……僕に、ひとつ考えがあります」


 その直後、


 クラーケンの触手が連打のように叩きつけられた。


 逃げ場を塞ぐように、四方から伸びる。


 サクヤは、クラーケン越しにその動きを見ていた。


(……逃げ回るしかないか)

(いや、上の奴が思考を回してるってところか)


 視線を実へと向ける。


(俺が9本しか動かせないのは、既に気が付かれてるか……?)


「行くぞ!!」


「はい!!」


 狩野は実を背負い一気に踏み切った。

 クラーケンの正面、かなり前方へと跳躍する。


(仕掛けてきたな……)


 サクヤの口元が歪む。


(……だが同時に、罠にかかった)


 狩野と実のその真下。


 これまで使われていなかった1本の触手が、床にだらりと転がっている。


 サクヤは、口の端をつり上げた。


「糸を付け替えれば、動かせるんだよ!!」


──ブオオオンッ!!


 触手。


 地面を抉る勢いで振り上げられる。


(……勝った)


 そう確信した、その瞬間だった。


「っ!! なに!?」


 サクヤの視界の端。


 そこには予想外の構図が出来上がっていた。


 奥に横たわっていた、これまで一度も使われていなかった別の触手。


 その先端には、狩野の腰に巻き付けられていた金が、糸のように繋がれている。


 サクヤの振り上げた触手の衝撃。

 その力を受け、金で繋がれた触手を軸に、二人の体が弧を描いて跳ね上がった。


(こいつら……)


 サクヤの目が見開かれる。


(クラーケンの力を、利用したのか!?)


「狩野さん!!」


 実は狩野の背から身を投げ出すようにして、その体を前方へと押し出した。

 跳躍で得た勢いが、そのまま狩野の体に乗る。


 狩野の体は、矢のようにクラーケンの眼前へと、


 射出。


「獲った」


 狩野の爪が振るわれる。

 空気を引き裂く音すら遅れる。


 一閃。


 狙いは一点――巨体の奥に潜む核。

 爪が触れた瞬間、クラーケンの体が内側から裂けた。

 眩い光が噴き出す。


 悲鳴にもならない振動を残して、

 怪物は無数の光の粒子となり、夜の闇へと霧散した。


「チッ、クソ!!」


 サクヤは歯を食いしばり、思わず一歩退いた。

 足裏が濡れた床を擦り、体勢を立て直す。

 クラーケンが消えた空間を、信じられないものを見るように睨みつけた。


(だが、まだだ、『狼男』を盗ればまだ――)


 サクヤは両腕を前へ突き出す。


 その瞬間だった。 


 視界の端。


 横合いから、金が伸びてきた。

 サクヤの腕に、手錠のように巻き付く。


「なっ!!」


 巻き付いた金が一気に収縮する。

 抵抗する間もなく、サクヤの体は引き寄せられる。


 空気が肌を擦る。


 そのまま、床に叩き伏せられた。


「くっ……」


 転がった勢いのまま、顔を上げる。

 視線の先には、間近に立つ実の姿。


「はああああ!!」


 実の手のひらの金が、瞬時に形を変える。


 メリケンサック。


 実の拳が金に鈍く光り、


 次の瞬間――

 踏み込んだ体重ごと、実の拳がサクヤの顎を打ち抜いた。


 乾いた衝撃音。


 サクヤの体が後方へと吹き飛ばされる。


「……あ……がはっ……」


 後ずさるように、サクヤは匍匐前進した。


 滲む視界。


 ふと焦点が合った先――


 床に転がっていたのは、


 無造作にポイ捨てされた、おやつのゴミ。


「あなたが力を手に入れたい理由は、なんとなくわかりました……」


 実は、サクヤの背後から零した。

 

「でもあなたは、力を手に入れて、何がしたかったんですか……!!」


「がっ……ぐぅ……!!」


 喉を震わせたまま、サクヤの動きが止まった。

 床を掻いていた指が力を失う。

 伏せた顔がわずかに上がった。


「俺の……したかったこと……?」


 かすれた声が、地下に落ちる。


 その問いに答えが形を持つよりも、早く――


 床に転がっていたゴミの内側から、


 突如として光が噴き出した。


 ピッ。


──ボゴオオオオオンッ!!


 白熱した衝撃が空間を飲み込む。


「っ!!」


 実が咄嗟に身を固める。


「なっ!!」


 狩野が低く叫んだ、その直後――


 爆風が二人を正面から叩きつけた。


 足が床を離れ、体が後方へと押し流されそうになるのを、必死に踏みとどまる。


「俺があ"あ"ああ!!」

「俺がした"かったこ"とはああああ!!」


 サクヤの叫び。


 それは炎と混ざり合い、もはや人の声ではなかった。


 剥き出しの感情が崩れていき、言葉だけが落ちていく。


「ツグミ"イ"イ"イ"イ"イ"イ"!!」

「うわあ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!」


 燃え上がる影がのたうち、断末魔の音だけが地下に残る。


 ピッ。


──ボゴオオオオオンッ!!


 爆音が重なり、地下全体が軋みを上げた。


 ドゴゴゴゴ、と地鳴りが連なり、崩壊が始まる。


「チッ、爆谷の野郎……!!」

 狩野が、牙を剥くように吐き捨てた。



 夜の闇に浮かび上がる、燃え盛る屋敷。

 黒く沈んだ空を背景に、炎が赤々と揺らめき、窓という窓から噴き出していた。

 柱が爆ぜ、瓦礫が崩れ落ちるたび、火の粉が星屑のように舞い上がる。

 遠くから見れば美しくすらあるその光景は、しかし、確実に何かが終わったことを告げていた。


「両陣営どっちも崩壊させながら、目的のデータまで取っちゃうなんて」


 爆谷は肩をすくめ、指先でUSBをくるりと回した。


「俺っちてば、優秀だな〜」


 背後で燃え続ける屋敷を、ほんの一瞬だけ振り返る。

 そこに未練はなく、確認するような視線ですらなかった。


「じゃあね〜、サクヤっち」


 気の抜けた調子で手を振った。


 炎を背にして、笑みを浮かべて。


「貰っていくっすよ」

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