第45話 誕生日の苺と穿つ白衣
東京第2現災署の研究室は、人工光に照らされながらもどこか殺風景だった。
壁際にはデスクが並び、パソコンのモニターが無数に点灯している。
書類や資料が山積みになったテーブルの上には、空になったエナジードリンクの缶が何本も散乱していた。
牧野は、キーボードをカタカタと叩きながら画面に向かっている。
疲労の色は濃く、肩や背中に力が入っているのが見て取れた。
研究室には、キーボードを叩く音だけが規則正しく響く。
カタッ……カタッ……カタッ……
それ以外の音は一切なく、静寂が重く室内を包んでいた。
エナジードリンクの空き缶がいくつもテーブルに並び、無言の証人のように散らばっていた。
「牧野おねぇちゃん!!」
ポンッ、と肩を叩く音。
弾んだ声が、静まり返った研究室の空気をいきなり切り裂いた。
「うわぁ!! びっくりしたぁ!!」
牧野は驚きの声をあげ、反射的に振り返る。
「一体どうしたの──」
そこには、満面の笑みを浮かべたしのと、横で誇らしげにケーキを抱える玄蔵の姿があった。
玄蔵の腕に抱えられたのは、苺がたっぷり乗ったホールケーキで、クリームはふわりと盛り上がり、表面は薄く光っている。
切り分ける前から甘い香りが漂い、見るからに食欲をそそる逸品だった。
「せーの」
しのと玄蔵が息を合わせる。
「おたんじょうびおめでとう!!」
「え……嘘おぉ」
牧野は眼鏡の下に手を覆い、顔を隠すようにして驚きと喜びを露わにした。
頬が熱を帯び、わずかに震える唇からは、思わずこぼれそうになる笑みが抑えられている。
目元には涙が滲み、喜びに胸が押しつぶされそうな感覚を抱えていた。
「ガハハハッ!! ありゃ泣くほど嬉しかったんかい」
玄蔵が豪快に笑いながら声を上げる。
「誕生日くらい休んでいいんだよ」
しのが優しい表情で、明るく牧野に告げた。
「だってぇ、護くんっ今日仕事だっていうからぁ……」
牧野は鼻をすすりながら、グスングスンと小さく泣いた。
「ガハハハッ!! じゃあ今日は儂らが彼氏の変わりに祝ってやるわい」
玄蔵は豪快に笑い、ケーキを差し出す。
三人は、研究室の中央にある大きな机を囲んだ。
薄暗い蛍光灯の下、色とりどりのケーキが皿に並んでいる。
牧野はフォークを手に取り、ふわりとしたスポンジを口に運ぶ。
一口噛むと、甘い香りと苺の酸味が舌に広がり、自然と目を細めた。
頬がほんのり赤くなり、無意識に小さく笑みがこぼれる。
「ん〜おいしい〜!!」
幸せそうな声が、静かな研究室に温かく響いた。
「そりゃそうじゃ!! 儂が腕を震わせて作ったケーキじゃからのお!!」
玄蔵は自慢げに胸を張る。
「お姉ちゃん、誕生日だから苺上げる!!」
しのはフォークで自分のケーキのてっぺんの苺を、牧野の皿にそっと乗せた。
「二人とも……ありがとね」
牧野は目を潤ませ、嬉しそうに二人に微笑む。
小さな研究室の中に、三人だけの柔らかい時間が静かに流れていた。
◇
──現在。
地下牢の奥。
広すぎる空間が、逆に逃げ場を奪っていた。
牧野の正面。
二体の現想生物が、すでにこちらを“敵”として認識している。
一体は、巨大な鳥の姿。
石のように硬質化した羽根が擦れ合い、ギチギチと嫌な音を立てる。
鉤爪が床を引っ掻くたび、火花が散った。
もう一体は、人型を思わせる菌の集合体。
胴体から伸びる菌糸が床を這い、呼吸するたびに胞子が噴き出す。
湿った臭気が、喉の奥に絡みついた。
牧野は、眼鏡の位置を直す。
視線は二体を捉えたまま、逸らさない。
「訓練以来だね……」
口元にわずかに浮かぶ、懐かしさと哀しみを帯びた微笑を添えていた。
「ギャァァァァァ――!!」
鳥の現想生物が、咆哮と共に突進する。
重い衝撃音が連続し、地下牢全体が震えた。
同時に、菌の現想生物が広がる。
――ズズ……ブシュッ。
胞子が破裂し、視界を白く染める。
牧野は視線を床に落としたまま、脚を大きく踏み込み前傾姿勢を取った。
両手は軽く広げ、肘をわずかに曲げて体のバランスを調整する。
足裏で地面をしっかりと捉え、体勢を固めていた。
「アギャアアアッ!!」
コカトリスが低く唸り、爪を振り上げて牧野に襲いかかる。
爪先がわずか数センチまで迫り、空気が裂ける音が耳を突いた。
──ドゴォンッ!!
次の瞬間、
轟音が地下牢の壁を震わせる。
コカトリスの視界の中心にいた白衣の牧野は、まるで霧が晴れるように、忽然と消えた。
コカトリスの背後。
牧野は、いつの間にかそこに立っていた。
走り抜けた体勢のまま、その場で静止している。
前傾した体が、突進の勢いを残して揺れていた。
「ギャアオォッ!!」
遅れたようにコカトリスが悲鳴をあげる。
けたたましく、鋭く、鳥のように甲高い鳴き声が地下にこだまする。
その身体には、まるで鉛筆でくり抜かれたかのような穴が、正確に牧野の輪郭に沿って空いている。
肉が裂け、内部の筋肉や血管が無秩序に露出していた。
──牧野の現想生装『ミノタウロス』
前方五メートルに直進し、あらゆる障害物を貫通する──
コカトリスは、裂けた穴から光の粒子となって散り、地下牢の空気に溶けていった。
「玄蔵さん……」
牧野は視線を床のまま、唇の端だけをわずかに上げ、悲しげに微笑んだ。
──能力の反動で十秒間、牧野は自身の意思で一切動くことができない──
マイコニドはその隙を見逃さなかった。
――グズ……グズズッ!!
黒い菌糸が地面を這い、跳ねるように牧野に向かって伸びた。
胞子が空中で弾け、舞い上がる。
菌糸が牧野の肩や腰を絡め取り、腕を引っ張るように力を加える。
体が無理やり回転させられ、胸がマイコニドの方へ向く。
ズキズキと肩に焼けるような痛みが走る。
白衣が裂けて血が滲んだ。
「……しのちゃん」
牧野は視線を上げ、マイコニドを見つめた。
その瞳は穏やかで、ほんの少しだけ微笑んでいる。
声は小さく、静かに漏れた。
「もう、終わらせるからね……」
――ドゴォンッ!!
牧野の体は、一瞬にしてマイコニドの背後へと移動していた。
走り抜けた体勢のまま、その場で静止。
マイコニドの胴体には、正確に牧野の輪郭に沿った穴が空いていた。
まるで鉛筆で削ったかのようにえぐり取られ、菌糸と胞子が無秩序に露出している。
――ブシュゥ……ッ
湿った肉の裂ける音が地下牢に響き渡る。
胞子と菌糸が光の粒子となり舞い散り消えた。
静寂が、地下牢を覆う。
「ゔ……ふぅ……」
牧野は重く息を吐き、ゆっくりと膝をつく。
肩や胸の痛みで体が小さく震え、白衣には血がにじんでいる。
床に赤い滴が落ち、冷たい石に小さな輪を描いた。
呼吸は荒く、胸の上下に力強い振動が伝わる。
「この体じゃ……いっても、足手まといかな……」
牧野は、かすれた声でつぶやいた。
視線を奥へ向ける。
(狩野くん……実くん……)
二人のことは、まだよく知らない。
それでも、
「任せたよ」
小さく告げる。
牧野はゆっくりと背を向けた。
白衣の裾が床を擦る音。
血の滲んだ肩と腕を抱えながら、足取りを確かめるように一歩ずつ、暗い通路を後にする。
視界の端で、地下牢の奥に二人の影が揺れているように感じた。
足音は控えめに、しかし確かに、彼女は戦場から距離を取って撤退した。
その背中には新たな仲間に向けた信頼を滲ませていた。




