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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
第3章 兄と約束編

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第45話 誕生日の苺と穿つ白衣

東京第2現災署の研究室は、人工光に照らされながらもどこか殺風景だった。

 壁際にはデスクが並び、パソコンのモニターが無数に点灯している。

 書類や資料が山積みになったテーブルの上には、空になったエナジードリンクの缶が何本も散乱していた。


 牧野は、キーボードをカタカタと叩きながら画面に向かっている。

 疲労の色は濃く、肩や背中に力が入っているのが見て取れた。


 研究室には、キーボードを叩く音だけが規則正しく響く。


 カタッ……カタッ……カタッ……


 それ以外の音は一切なく、静寂が重く室内を包んでいた。

 エナジードリンクの空き缶がいくつもテーブルに並び、無言の証人のように散らばっていた。


「牧野おねぇちゃん!!」


 ポンッ、と肩を叩く音。

 弾んだ声が、静まり返った研究室の空気をいきなり切り裂いた。


「うわぁ!! びっくりしたぁ!!」


 牧野は驚きの声をあげ、反射的に振り返る。


「一体どうしたの──」


 そこには、満面の笑みを浮かべたしのと、横で誇らしげにケーキを抱える玄蔵の姿があった。


 玄蔵の腕に抱えられたのは、苺がたっぷり乗ったホールケーキで、クリームはふわりと盛り上がり、表面は薄く光っている。

 切り分ける前から甘い香りが漂い、見るからに食欲をそそる逸品だった。


「せーの」


 しのと玄蔵が息を合わせる。


「おたんじょうびおめでとう!!」


「え……嘘おぉ」


 牧野は眼鏡の下に手を覆い、顔を隠すようにして驚きと喜びを露わにした。

 頬が熱を帯び、わずかに震える唇からは、思わずこぼれそうになる笑みが抑えられている。

 目元には涙が滲み、喜びに胸が押しつぶされそうな感覚を抱えていた。


「ガハハハッ!! ありゃ泣くほど嬉しかったんかい」


 玄蔵が豪快に笑いながら声を上げる。


「誕生日くらい休んでいいんだよ」


 しのが優しい表情で、明るく牧野に告げた。


「だってぇ、護くんっ今日仕事だっていうからぁ……」


 牧野は鼻をすすりながら、グスングスンと小さく泣いた。


「ガハハハッ!! じゃあ今日は儂らが彼氏の変わりに祝ってやるわい」


 玄蔵は豪快に笑い、ケーキを差し出す。


 三人は、研究室の中央にある大きな机を囲んだ。

 薄暗い蛍光灯の下、色とりどりのケーキが皿に並んでいる。


 牧野はフォークを手に取り、ふわりとしたスポンジを口に運ぶ。

 一口噛むと、甘い香りと苺の酸味が舌に広がり、自然と目を細めた。

 頬がほんのり赤くなり、無意識に小さく笑みがこぼれる。


「ん〜おいしい〜!!」


 幸せそうな声が、静かな研究室に温かく響いた。


「そりゃそうじゃ!! 儂が腕を震わせて作ったケーキじゃからのお!!」


 玄蔵は自慢げに胸を張る。


「お姉ちゃん、誕生日だから苺上げる!!」


しのはフォークで自分のケーキのてっぺんの苺を、牧野の皿にそっと乗せた。


「二人とも……ありがとね」


 牧野は目を潤ませ、嬉しそうに二人に微笑む。

 小さな研究室の中に、三人だけの柔らかい時間が静かに流れていた。



──現在。


 地下牢の奥。

 広すぎる空間が、逆に逃げ場を奪っていた。


 牧野の正面。

 二体の現想生物が、すでにこちらを“敵”として認識している。


 一体は、巨大な鳥の姿。

 石のように硬質化した羽根が擦れ合い、ギチギチと嫌な音を立てる。

 鉤爪が床を引っ掻くたび、火花が散った。


 もう一体は、人型を思わせる菌の集合体。

 胴体から伸びる菌糸が床を這い、呼吸するたびに胞子が噴き出す。

 湿った臭気が、喉の奥に絡みついた。


 牧野は、眼鏡の位置を直す。

 視線は二体を捉えたまま、逸らさない。


「訓練以来だね……」


 口元にわずかに浮かぶ、懐かしさと哀しみを帯びた微笑を添えていた。

 

 「ギャァァァァァ――!!」


 鳥の現想生物が、咆哮と共に突進する。

 重い衝撃音が連続し、地下牢全体が震えた。


 同時に、菌の現想生物が広がる。


――ズズ……ブシュッ。


 胞子が破裂し、視界を白く染める。


 牧野は視線を床に落としたまま、脚を大きく踏み込み前傾姿勢を取った。

 両手は軽く広げ、肘をわずかに曲げて体のバランスを調整する。

 足裏で地面をしっかりと捉え、体勢を固めていた。


「アギャアアアッ!!」


 コカトリスが低く唸り、爪を振り上げて牧野に襲いかかる。

 爪先がわずか数センチまで迫り、空気が裂ける音が耳を突いた。


──ドゴォンッ!!


 次の瞬間、


 轟音が地下牢の壁を震わせる。


 コカトリスの視界の中心にいた白衣の牧野は、まるで霧が晴れるように、忽然と消えた。


 コカトリスの背後。


 牧野は、いつの間にかそこに立っていた。


 走り抜けた体勢のまま、その場で静止している。

 前傾した体が、突進の勢いを残して揺れていた。


「ギャアオォッ!!」


 遅れたようにコカトリスが悲鳴をあげる。

 けたたましく、鋭く、鳥のように甲高い鳴き声が地下にこだまする。


 その身体には、まるで鉛筆でくり抜かれたかのような穴が、正確に牧野の輪郭に沿って空いている。


 肉が裂け、内部の筋肉や血管が無秩序に露出していた。


──牧野の現想生装『ミノタウロス』

 前方五メートルに直進し、あらゆる障害物を貫通する──


 コカトリスは、裂けた穴から光の粒子となって散り、地下牢の空気に溶けていった。


「玄蔵さん……」


 牧野は視線を床のまま、唇の端だけをわずかに上げ、悲しげに微笑んだ。


──能力の反動で十秒間、牧野は自身の意思で一切動くことができない──


 マイコニドはその隙を見逃さなかった。


――グズ……グズズッ!!


 黒い菌糸が地面を這い、跳ねるように牧野に向かって伸びた。

 胞子が空中で弾け、舞い上がる。

 菌糸が牧野の肩や腰を絡め取り、腕を引っ張るように力を加える。


 体が無理やり回転させられ、胸がマイコニドの方へ向く。


 ズキズキと肩に焼けるような痛みが走る。


 白衣が裂けて血が滲んだ。


「……しのちゃん」


 牧野は視線を上げ、マイコニドを見つめた。

 その瞳は穏やかで、ほんの少しだけ微笑んでいる。

 声は小さく、静かに漏れた。


 「もう、終わらせるからね……」


――ドゴォンッ!!


 牧野の体は、一瞬にしてマイコニドの背後へと移動していた。

 走り抜けた体勢のまま、その場で静止。


 マイコニドの胴体には、正確に牧野の輪郭に沿った穴が空いていた。

 まるで鉛筆で削ったかのようにえぐり取られ、菌糸と胞子が無秩序に露出している。


 ――ブシュゥ……ッ


 湿った肉の裂ける音が地下牢に響き渡る。


 胞子と菌糸が光の粒子となり舞い散り消えた。


 静寂が、地下牢を覆う。


「ゔ……ふぅ……」


 牧野は重く息を吐き、ゆっくりと膝をつく。

 肩や胸の痛みで体が小さく震え、白衣には血がにじんでいる。

 床に赤い滴が落ち、冷たい石に小さな輪を描いた。

 呼吸は荒く、胸の上下に力強い振動が伝わる。


「この体じゃ……いっても、足手まといかな……」


 牧野は、かすれた声でつぶやいた。


 視線を奥へ向ける。


(狩野くん……実くん……)


 二人のことは、まだよく知らない。


 それでも、


「任せたよ」


 小さく告げる。


 牧野はゆっくりと背を向けた。


 白衣の裾が床を擦る音。

 血の滲んだ肩と腕を抱えながら、足取りを確かめるように一歩ずつ、暗い通路を後にする。

 視界の端で、地下牢の奥に二人の影が揺れているように感じた。


 足音は控えめに、しかし確かに、彼女は戦場から距離を取って撤退した。


 その背中には新たな仲間に向けた信頼を滲ませていた。

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