第38話 逃げ場なき檻と三様の戦
夜の学校のプールは、異様なほど静まり返っていた。
水面は風一つなく、照明も落ちている。
月明かりすら届かず、フェンスと建物の影が、黒い檻のようにプールを囲んでいる。
その闇を、乾いた銃声が切り裂いた。
「くっ」
狩野は実を抱えたまま、横へ跳ぶ。
──バァン!!
弾丸が頬のすぐ横を掠める。
熱を伴った衝撃が走った。
次の瞬間、微かな痛みとともに血が滲む。
「……なるほど、素早いな」
低く、感心したような声。
サクヤは銃を下げることなく、静かに狩野を見据えていた。
同時に、ツグミが地面を蹴る。
一気に距離を詰め、その手を狩野へ伸ばした。
狩野は歯を食いしばり、実を空中へ放り投げる。
前足を振り抜く。
ツグミの胴を蹴り飛ばす。
「つめっ!!」
蹴り抜いた感触と同時に、足先に嫌な重みが走った。
踏み込もうとした瞬間、地面に吸い付くような抵抗。
視線を落とすと、前足の先端が白く覆われ、氷が関節を噛み締めている。
(……凍ってやがる)
感覚が鈍り、力の入り方が分からない。
それでも狩野は、空中から落ちてくる実を腕で受け止め、強引に抱え直した。
(こりゃ、まじでやばいな……)
息を整える暇はない。
乾いた金属音。
サクヤが、何の躊躇もなく再び銃を構えた。
──バァン!!
衝撃が狩野の肩を撃ち抜く。
焼けるような痛みが走る。
体が強制的に横へ振られた。
「ぐっ……!!」
足に力が入らず、膝が沈む。
凍った前足が踏ん張れず、体勢が一瞬崩れる。
右足が凍って、動きが鈍る。
その一瞬を、ツグミは見逃さなかった。
地面を蹴る音。
一気に距離が詰まり、視界いっぱいに迫る人影。
両手を広げ、触れるだけで終わらせるつもりの構え。
逃げ場はない。
「しまっ──」
その瞬間。
ピッ。
──バグオオオオンッ!!
突然。
爆風がプールを揺らした。
狩野とツグミは、それぞれ反対側のフェンスへと叩きつけられる。
「がっ!!」「うっ!!」
衝撃で、狩野の腕から実が滑り落ちる。
(なにが……起こった?)
意識の底から、ゆっくりと浮かび上がる感覚。
重たいまぶたが、言うことをきかない。
何度か瞬きをして、ようやく狭い隙間が開いた。
視界は滲み、光と影が溶け合っている。
焦点が合うまで、少し時間がかかった。
それでも、少しずつ世界が輪郭を取り戻していく。
狩野は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
目の前に広がる光景。
プールの一部が、粉々に砕け散っている。
コンクリートと水が宙に舞い、白い破片が地面に降り注ぐ。
その向こう──フェンスの上に、二つの人影がそこにはあった。
「サクヤっち〜、俺達を裏切った罪は重いっすよ〜」
爆谷。
「……現想生物『絡新婦』か……なるほど。お前の狙いも見えてきた」
橘想。
サクヤは、地面に片膝をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「……悟るのがいささか早いな、流石といった所か」
狩野は、倒れた実を抱え上げる。
(なんだこいつら……仲間割れか?)
視線を、サクヤ、フェンス上の二人へと行き来させる。
「お兄ちゃん……」
ツグミは血の滲む肩を押さえながら、サクヤに近づいた。
フェンスの上から視線を逸らさぬまま、サクヤは口を開く。
「ツグミ。今が勝負時だ」
「こいつらから、絡新婦を守り抜くぞ」
「……三つ巴ってわけかよ」
狩野が吐き捨てる。
「どうするっすか? 橘っち」
フェンスの上。
爆谷が、隣の橘想を見やる。
「……絡新婦は、俺達にとっても使える道具だ。奪い取るぞ」
氷に閉じ込められたまま、絡新婦──偽ツグミはぽかんと口を開けていた。
瞬きも忘れたように、状況を理解しきれない目で、周囲をきょろきょろと見回す。
首から下は完全に氷に縫い止められ、指一本動かせていない。
「あちし、道具じゃないし……」
抗議のつもりなのか、その声は間の抜けた調子だった。
「ああ、体中凍っていたいぃ……」
悲鳴というには締まりがなく、
氷の中で震えることすらできないまま、情けない声だけが漏れていた。
「ほーい」
軽薄な声。
爆谷はプールの真ん中へ"何か"を放った。
「ツグミ、離れろ」
サクヤとツグミが、投擲物から距離を取る。
ピッ。
──バグオオオオンッ!!
「ぐぅっ」
狩野は咄嗟に、実を背に庇った。
爆風が背中を焼き、熱が皮膚を走る。
(なんだ……あいつの能力か?)
背中を焼かれたまま、狩野はフェンス上をみあげた。
視界の端。
サクヤは地面に着いた手で身体を押し上げ、素早く体勢を立て直していた。
無駄な動きは一切ない。
膝が伸びきる前に、すでに腕は前へ。
黒光りする銃口が、一直線に爆谷を捉える。
──バァン。
爆谷はフェンスの上で、橘想のすぐ隣から身を翻した。
フェンスを蹴り、弾道から外れるようにフェンスの奥へと跳ぶ。
橘想は爆谷が横を抜けるのと入れ替わるように、静かに銃を構えた。
──バァン!!
サクヤは引き金の気配を察した瞬間、地面へ身を投げる。
肩から背中へ、砂利を噛むように転がった。
弾丸が、さっきまで頭があった位置を切り裂く。
勢いのまま一回転。
地面を蹴り、体を低くしたまま距離を取る。
サクヤの隣。
ツグミは一瞬、息を止めた。
次の瞬間、
地面を強く蹴り、身体を弾丸のように跳ね上がった。
橘想めがけて。
空気を切り裂きながら距離を詰め、
一直線に――手を伸ばした。
「チッ、バカが……」
サクヤの声だった。
計算を狂わされた苛立ちが、はっきりと滲んでいる。
――ツグミの手が、橘想へ届いた。しかし。
「……え」
一見指先は触れていた。
だがツグミの手は、橘想の体に触れられていない。
まるでそこに誰もいないかのように、橘想の身体を透過していた。
「なっ……」
ツグミの額から汗が滲む。
橘想は無言で、ツグミのこめかみに銃を向けた。
──バァン!!
サクヤの手元が閃いた。
撃鉄を引くよりも早く、指先から放たれた糸がツグミの体を絡め取る。
強く引き上げられ、ツグミの体が宙を切った。
一瞬。
ツグミはサクヤの腕の中へ引き寄せられていた。
ツグミが、サクヤの顔を見やる。
「お兄ちゃん、ありが──」
言葉が、途中で途切れた。
ゴッ。
鈍く、乾いた音。
サクヤの拳がツグミの左頬を容赦なく打ち抜いていた。
ツグミの体が宙を失う。
ツグミはそのまま地面へ叩きつけられ、勢いのまま転がった。
「……はあ?」
狩野は、実を抱えたまま唖然とした。
「お前のせいで、俺の能力の情報アドバンテージが無に帰した。なんかいうことがあるんじゃないか?」
サクヤは、倒れたツグミを一瞥しただけで言った。
そこにあったのは、怒りでも失望でもない。
何の期待も向けていない、ただ冷たい声だった。
「ごめん……なさい……」
ツグミは、俯いたまま呟いた。
狩野は、複雑な表情を浮かべ――すぐに切り替える。
(……いや、今はどうでもいい)
(敵陣営が内ゲバ中なら、好都合だ)
(俺に眼中がないのは癪だが、この隙に実を安全な場所へ)
その時。
「次はもっと威力、上げちゃうっすよ〜」
フェンスの向こう側で、爆谷が肩を回した。
金属の網越しに、その軽薄な笑みが見える。
「ほ〜い!!」
振りかぶった腕が、フェンス越しに大きく動いた。
小さな物体が弧を描いてフェンスを越え――
内側のプールサイドへと、勢いよく放り込まれた。
「チッ!!」
「まずっ!!」
ピッ
──バグオオオオンッ!!




