第37話 月なき逃走と塞ぐ兄妹
留置所の扉が、重たい音を立てて開いた。
夜気が一気に流れ込み、護は息を吸うより早く駆け出していた。
無機質な通路。白い蛍光灯。
足音だけが、やけに大きく響く。
外に出ると、迷わずスマホを取り出し、画面をタップする。
「牧野!!」
数コールのあと、気の抜けた声が返ってきた。
「ん〜……どうしたの、護?」
完全に寝起きの声だった。
「裏切り者はツグミだった!!」
「深海と一緒に、今すぐ実くんの所に向かってくれ!!」
「え、ええ!?」
牧野の声が一気に覚醒する。
「死んだはずの兄、黒羽サクヤが生きている」
「しかも敵組織に所属していた」
「え……いつから裏切って……?」
「恐らく最初からだ。ドラゴンが現想生装だった時点で怪しいとは思っていたが……」
「経緯はわからない。だがいずれにせよ、三年前の夏焼村の災害の日、サクヤとツグミは焔堂に接触している」
「その時点で、既にあっち側の人間だった可能性が高い」
一瞬の沈黙。
「……わかった。今すぐ向かうわ」
聞きたいことは山ほどあるはずなのに、牧野の声は即座に切り替わっていた。
「頼んだ」
通話を切り、護は立ち止まる。
(……俺の推測は、いつも一手遅れてる……)
(今日の現災対応、ツグミと実だったよな)
(実に死なれたら……)
(まじで罪悪感で死ぬな、これ……)
唇を噛み、護は再び走り出した。
◇
夜の学校プールは、異様なほど静まり返っていた。
月は雲に隠れ、灯りもない。
水面は闇を映し、風の気配すらない。
プールサイドで、二つの氷像があった。
一つは、立ったまま凍りついた偽ツグミ。
もう一つは、倒れ伏した実。
そのそばに、黒羽ツグミが立っていた。
「私の雪女は、触れた物の温度を下げる能力」
「苦労したんだよ。実くんにバレないように、力を調節するの」
実は答えられない。
身体は氷に侵され、感覚が曖昧になっていた。
(寒い……)
(痛い……)
(身体の輪郭が、わからない……)
ツグミは足元に落ちていた黄金の塊を拾い上げる。
「おもっ」
「……いや、大きさの割には軽いか」
「質量は変わらないってことかな」
巨大な金のハンマー。
それを、ためらいなく実に向けた。
──ドンッ!!
骨に直接叩き込まれたような、衝撃。
肺の中の空気が一気に吐き出され、喉から掠れた音が漏れる。
視界が白く弾け、世界が傾いた。
地面に叩きつけられる感覚すら、もう遅れてやってくる。
──ドンッ!!
逃げ場のない位置から、容赦なく。
鈍い音。
同時に身体の内側がぐしゃりと潰れる感触。
息が、吸えない。
吐くこともできない。
全身に、熱と冷たさが同時に走り、
凍りついた皮膚の下で、しも焼けのような痛みが爆ぜる。
指先が痺れ、感覚が剥がれていく。
(や……め……)
(つぐみさ……)
(なんで……?)
言葉は、もう形にならない。
視界の端が暗く染まり、音が遠ざかっていく。
自分の身体が、壊されていることだけは、
はっきりと、わかっていた。
「う……あ……」
声にならない音が漏れ、意識が遠のいていく。
「実くんは現災に巻き込まれて死んだって、報告しとくから」
「安心してね」
ハンマーが、再び振り上げられる。
――その時だった。
ガッ、と影が割り込んだ。
一瞬。
ツグミの視界から、実の姿が消えた。
「……来てたんだ」
狼男の姿をした狩野が、血にまみれた実を抱えていた。
腕の中の身体は、異様なほど力が抜けている。
頭がぐらりと傾き、濡れた前髪の隙間から、焦点の合わない目が覗く。
「実!! しっかりしろ!!」
揺さぶるたび、喉の奥で湿った音が鳴った。
胸はかすかに上下しているが、それが呼吸なのかも判然としない。
返事はない。
握った指先も、ぴくりとも動かなかった。
「……てめぇ……」
狩野の視線が、ツグミを射抜く。
「仕方ないでしょ」
「そこの偽物を殺される訳にはいかなかったんだから」
凍りついた偽ツグミの方を、悪びれもせず一瞥する。
「何のためにだよ……」
「人の姿をコピーできるフィクションの捕獲が、お兄ちゃんの目的だから」
「それ以上の理由なんて、ないかな」
会話を聞いて、偽ツグミは、氷の中でぱちぱちと目を瞬かせた。
睫毛の先まで霜に縁取られている。
「あちし……捕獲されるの?」
その声に、誰も答えなかった。
狩野は、凍りついた偽ツグミに視線すら向けない。
「お前の兄貴、生きてたのかよ……」
「いつからだ……」
「いつから俺達を裏切った!!」
狩野の声は、荒れていた。
「そんなことより、こっちも聞きたいんだけど」
「なんで、あんたここにいるのよ」
「護さんに言われてたんだよ……!!」
「お前を見張れってな」
一瞬、ツグミの目が細まる。
驚きでも怒りでもない、感情の温度がすっと落ちる気配。
「……食えない人よね」
吐き捨てるようにそう言って、
ツグミは静かに一歩、足を引いた。
体勢が変わり、空気が張り詰める。
次の瞬間に何かが起きる。
そう確信させる構えだった。
狩野は、無意識のうちに空を見上げていた。
(夜になって、ギリギリ実を助けられた)
(だが――)
雲に覆われた夜空には、月の輪郭すらない。
(月は出てねぇ)
(ってことは、あいつとの接近戦は不利)
(勝率三割……いや、実を抱えたままならもっと下がるか)
腕の中の重みが、嫌なほどはっきりと伝わる。
呼吸は浅く、身体は力なく揺れていた。
(戦えば、実を守りきれねぇ)
(なら――)
迷いは、そこまでだった。
狩野は歯を食いしばり、
実を強く抱き直すと、地面を蹴った。
「なに、逃げんの?」
(舐めてんな……ほんと……!!)
フェンスの上に着地し、腕の中の実を見る。
意識はない。苦しそうで、視線も定まっていない。
(だが今は、実を抱えて逃げる)
(それが最善策――)
そう思った瞬間。
「っ!!」
背筋をなぞるような、嫌な気配。
空気が、わずかに歪んだ。
考えるより先に、身体が反応していた。
狩野は反射的に地面へ飛び込む。
──バァン。
乾いた銃声が背後を流れた。
「……ツグミ、捕獲できたか」
声の方向へ振り返る。
銃口から煙を立てる拳銃。
黒いロングコートの男が立っていた。
「こいつ……まさか……」
その呟きに、間髪入れず応える声。
「うん、お兄ちゃん」
軽すぎる肯定だった。
狩野は、血に濡れた実を抱えたまま、ゆっくりと顔を上げる。
逃げることも、構えることもできない。
腕の中の重みが、すべてを縛っていた。
それでも――視線だけは逸らさない。
暗闇の向こうに立つ男を、睨みつける。
「……黒羽サクヤ」
夜のプールに、静かな緊張が満ちた。




