第36話 凍てつく痛みと重なる姓
使われなくなった地下施設は、時間そのものが澱んでいた。
天井の蛍光灯は半分が切れ、残った灯りも不規則に明滅している。壁には古い配線がむき出しになり、床には用途不明の機材が無造作に転がっていた。空調は生きているのか死んでいるのかわからず、空気は重く、かすかに鉄と埃の匂いが混じっている。
その中央に置かれたソファで、焔堂はだらんと体を預けていた。
手足を投げ出し、天井を睨んだまま、唐突に叫ぶ。
「暴れてええぇ!!」
反響した声が、コンクリートの壁にぶつかって戻ってくる。
その音を鬱陶しそうに受け止めながら、少し離れたデスクに座る軽薄な青年──爆谷が耳を指で塞いだ。
「うるっさいっすよ〜」
「焔堂っち、サラマンダーほっといて暴れたんだから、しばらく能力はお預けっすよ」
「でも、おもんねぇよ!!」
焔堂は子供のように手足をばたつかせる。
「それじゃあよお!!」
爆谷は返事をせず、キーボードを叩き続ける。
隣の端末でも、もう一人。
年長の青年──橘想が静かに作業をしていた。画面から目を離さず、指だけを動かしている。
「橘っち〜」
爆谷が軽く声をかける。
「ディープフィクションのデータ、どこっすか?」
橘想は、打鍵を止めてから答えた。
「……なに?」
短く息を整える。
「俺は触れてない」
「あっれれ、おっかしいなぁ」
爆谷は画面に顔を近づけ、眉を寄せる。
そのやり取りを、焔堂は横目で眺めていた。
体は動かさず、首だけを僅かに傾ける。
「んあ?」
気の抜けた声。
「それなら、多分サクヤが消してったぞ」
「はぁ!?」
爆谷が勢いよく振り向いた。
「なんでそれ、もっと早く言わないんすか!!」
「いや言わんくても、わかるかなって思ってよ」
「あいつさっき露骨にスマホ見るや否やパソコン触って出てったし」
焔堂は悪びれもせずに言った。
部屋の空気が一段沈む。
橘想の眉が静かに寄った。
「……なぜ、このタイミングで裏切ったんだ?」
「えぇ……」
爆谷が曖昧な声を漏らす。
「やっぱ、まじで裏切ってます、これ?」
視線を焔堂に向け、冗談めかした口調を保とうとする。
「焔堂っち。あんたが連れてきたんだから、責任とってくださいよ〜」
「おーん……」
焔堂は体を起こし、橘想へ向けた。
「じゃあ、責任とるから能力くれよ」
「……無理だ」
橘想は即答した。
それ以上の言葉はなかった。
◇
留置所は、無機質な静けさに包まれていた。
金属製の床。曇った防弾ガラス。一定間隔で鳴る電子音が、時間の流れを刻んでいる。
護は、椅子に腰掛けたまま、動けずにいた。
「……兄貴……?」
自分の口から出た言葉が、現実感を持たない。
喉の奥が乾き、呼吸が浅くなる。
ガラスの向こうで、両目を包帯でぐるぐるに巻かれたナナが、淡々と続けた。
「リーダーはね」
「触れた相手を、フィクションに繋がらせることができる」
声は落ち着いているが、どこか距離があった。
「私、爆谷、焔堂はそれで現想を使えるようになった」
護は、ゆっくりと息を吐く。
「……なぜお前らは」
間を置き、言葉を選ぶ。
「あに……橘想に、従ってるんだ?」
「……あいつに、もう一回触れられたら」
ナナは唇を引き結ぶ。
「現想との繋がりは消える。能力は没収」
自分の指先を絡み合わせる。
「また触れたら、また繋がる」
「そうやって、周りの力を制御して、従わせてるのよ」
少しだけ間を置いて、付け足した。
「……特に焔堂を」
護は黙ったまま、話を促す。
「……橘想の目的は?」
「……人に空想物の中で」
「最も知識と密接で」
「最も強く、思考力を底上げできる物」
「現想技物『知恵の実』。それを現想させることが橘想の目的」
護の眉が僅かに動く。
「私達が今までやってたのは、いわば、知恵の実ガチャね」
「第2を襲った理由は?」
ナナは、すぐには答えなかった。
少しだけ首を下げ、それから話し出す。
「……人為的に起こす現災はランダム」
「でも出てくる奴は、結局似たりよったりだった」
「知恵の実が、ガチャの中身に入ってないってわかったのが、三ヶ月前」
淡々と、事実だけを並べる。
「いくら橘想が天才でも、個人の研究には限界がある」
「だから国の研究施設を襲って、データをパクろうとしたのよ」
「三ヶ月間。東京第2の管轄か、あんたらの管轄か、現災を起こして調べ上げて」
「ついにあの日、隊員をバラバラに誘導」
「私が、その隙にデータ回収って流れ」
「……なるほどね」
護は、静かに頷いた。
「もういいでしょ?」
「私の知ってることは、もうほとんど話したわよ」
護は、すぐには答えなかった。
数秒の沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「……いや、最後に、一つだけ聞かせてくれ」
「爆谷、焔堂、そして……お前」
護はゆっくりと言葉を選びながら問いかけた。
「あと一人は、従ってないのか?」
ナナは一瞬だけ顔を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「……あぁ、サクヤのことね」
声は低く、どこか面倒くさそうだった。
「橘想も自然にフィクションに繋がったやつは触れても消せないのよ」
「サクヤとかあんたらとかね」
護の喉がわずかに鳴った。
「橘想とサクヤは研究同盟みたいなもの」
ナナは淡々と続ける。
「だから正直あいつのことは私もよく知らない。橘想以上に何考えてんのかよくわかんないし、気味の悪いやつってことしか」
「何が目的かも、未だにわかんない」
「……待て」
護の声色が変わった。
「サクヤって言ったか?」
◇
プールサイドに、乾いた風が吹き抜ける。
「……じゃ、仕切り直しね〜」
偽ツグミは、くるりと一回転して見せた。
「本物が二人もいると、さすがにややこしいわねぇ」
ツグミは、何も言わなかった。
ただ一歩、前に出る。
氷のように冷えた視線が、偽ツグミを真正面から捉えた。
「そんな顔しないでよ」
偽ツグミは唇を尖らせる。
「この体、結構再現度高いと思うけど?」
指先が、ゆらりと揺れる。
次の瞬間。
偽ツグミの影から無数の糸が放たれた。
白く、細く、蜘蛛の巣のように広がる。
「くっ……!!」
実は金を再構築。
板状の防壁。
糸が触れた部分から、瞬時に霜が走った。
「っ、やっぱ凍る……!!」
「当然でしょ」
偽ツグミの口角が上がる。
「だって、今のあちしは“彼女”だもの」
「……っ」
ツグミが一歩、踏み込んだ。
迷いなく距離を詰める。
瞬間、偽ツグミの腕に伸びた指先がわずかに触れた。
――ジュッ。
触れた部分だけが、白く霜を噴く。
凍結は一瞬で、しかし確実に皮膚を侵す。
「っ、冷たっ!?」
偽ツグミは舌打ちしながら腕を振り払い、跳ねるように距離を取る。
凍りついた箇所を押さえ、顔を歪めた。
「やっぱ触られるとアウトなのねぇ……」
軽口を叩きながらも、視線ははっきり警戒に変わっている。
ツグミは何も言わない。
ただ、指先に残った冷気を払うように手を下ろし、次の動きに備えた。
「実くん、左右から行く」
「っ、わかりました!!」
実は頷き、金を再構築する。
細長く伸び、槍状に変化した黄金が、陽光を反射した。
「え、武器選びがエグいってそれ!!」
実が踏み込み、槍を突き出した。
偽ツグミは身を捻って避けて、
糸を床に打ち込んだ。
――引かれる。
「しまっ……!!」
足元の糸が収縮し、実の体勢が崩れた。
前につんのめる。
「実くん!!」
次の瞬間、背中に腕が回された。
ツグミが実の腕を引き寄せ、支える。
「っ……!!」
ツグミの顔が一瞬、近づく。
「……前見て」
ツグミは短く言う。
「あ、はい……!!」
実は慌てて視線を逸らした。
心臓の音が、やけに大きい。
「ちょっとちょっと〜」
偽ツグミが頬を膨らませる。
「なんか距離近くない? 妬いちゃうんだけど」
偽ツグミは後退しながら、両腕を広げる。
影がうねり、糸が複雑に絡み合う。
「あちし、怒ったかんね」
「……来る」
実が息を呑む。
糸が一斉に地面を叩き、
次の瞬間、プールサイド全体が凍結した。
「っ、足が……!!」
実の靴底が、凍結したタイルを噛みきれずに滑る。
踏み込みが浅い。
「――!!」
体勢を立て直そうとした、その横を、
ツグミが静かに前へ出た。
距離は、ほんの一歩分。
肩が触れそうなほど近い。
実は一瞬だけ、視線を横にやる。
ツグミは何も言わない。
ただ、偽ツグミをまっすぐに見据えている。
そのまま、ツグミは、実のすぐ横から踏み出した。
肩が触れるほど近い距離を抜け、一直線に偽ツグミへ向かう。
糸が飛ぶ。
頬の横を裂き、髪を掠める。
それでもツグミは止まらない。
距離、一歩。
「え、ちょ何!?」
偽ツグミが後ろへ下がろうとした、その瞬間――
ツグミは踏み込み、迷いなく腕を伸ばした。
触れたのは、足首。
指先がかすった、その一点から、
冷気が一気に噴き上がる。
パキン、と乾いた音。
「っ……!?」
偽ツグミの足が、瞬時に凍りついた。
足首から靴底まで、氷が絡みつく。
体勢を立て直そうとして、
逆に重心が前へ流れていた。
その隙を、実は見逃さない。
一気に駆け抜ける。
金を再構築。
巨大なハンマー。
「はああああ!!」
黄金の質量が、唸りを上げる。
凍りついた足。
崩れた体勢。
逃げ場は、ない。
「え、ちょ、待っ……!!」
「こんなの、聞いて――!!」
偽ツグミの声が裏返る。
実は走り込み、
ツグミの横へ一気に並び立った。
巨大なハンマーが、
偽ツグミを砕く軌道に入る。
振り下ろす。
――その瞬間。
トンッと、短い音が耳元で鳴った。
腹部。
ツグミが逆手で、そっと触れていた。
「氷葬連鎖」
「……え」
さっきまで、触れられてきた場所。
壁や地面だけではない。
腹部。
肩。
腕。
そこに、遅れていた冷気が一斉に目を覚ます。
点だったはずの冷たさが、線になる。
線が絡み合い、重なり、体の内側から実を縛り上げていく。
「あがっ……!!」
体が、言うことをきかない。
──ガタンッ。
ダンッ。
力を失った指から、
巨大なハンマーが床へ落ちた。
氷はさらに広がる。
実の体を覆い尽くし、
同時に、偽ツグミの体にも白い結晶が走った。
二人の時間が、そこで凍りつく。
体中に張りついた氷が、皮膚の下まで噛み込んでくる。
凍結。
鋭い冷えが、何度も刺し直されるような――
しも焼け特有の、鈍くて逃げ場のない痛み。
指先が痺れ、感覚が溶ける。
次の瞬間には、焼けるような疼きが遅れて押し寄せる。
「ゔあ"っ……!!」
喉が凍りつき、息がうまく吸えない。
肺の奥まで冷気が入り込み、声にならない音が漏れる。
それでも実は、必死に口を動かした。
「つ……ぐ……み……さ……」
舌が回らない。
唇が割れ、歯が打ち鳴る。
体中が冷たく、痛く、
それなのに熱を持ったように脈打っている。
逃げろと本能が叫んでいるのに、
指一本、動かせない。
黒羽ツグミは、その様子を黙って見下ろしていた。
ただ、凍りついた実験体を見るような目。
その視線は、
実の体を覆う氷よりも、ずっと冷たかった。
◇
同時刻、留置所。
護は、確認するように、語尾を落として言った。
「そいつの、苗字は?」
ナナは、一瞬だけきょとんとした顔になる。
それから、何かを探るように顔を上げて、
「え? えーと、確か……」
記憶の底から、名前を掬い上げた。
「……黒羽サクヤ」




