第33話 謝恩の棘とつく既読
「……実……?」
佐倉の声が、夕暮れの空気を震わせた。
沈みかけた太陽が、街の端を橙色に染めている。
割れたアスファルトの隙間に伸びる影が長く引き延ばされ、
壊れた街灯は、まだ点く気配もなく沈黙していた。
遠くでは、誰かの叫び声や慌ただしい足音が、風に紛れて聞こえる。
けれど、この場所だけが切り取られたみたいに静かで、
砕けた塵が、夕風にさらわれていくだけだった。
世界はいつも通り進んでいるのに、
ここだけが、時間を失ったようだった。
──なんで僕はここにきたんだ──
──殺してやる──
──もう逃げられたよな──
──なんで佐倉がここにいる?──
実の視界が、急激に狭まる。
夕焼けも、街も、佐倉の姿さえも、輪郭を失って滲んでいく。
胸の奥で何かが暴れ、思考を押し流した。
「う"わ"あ"あ"あ"っ!!」
叫びと同時に、実の手の中で金色の剣が砕け、無数の針へと変わった。
光の雨が降り注ぎ、骸骨たちの身体を貫く。
──佐倉が生きててよかった──
──殺さなきゃ──
──違う逃げられた──
──花と母さんは僕のせいで──
「あ"あ"あ"あ"あ"っ!!」
穴だらけになりながらも動こうとする骸骨に、今度は剣が巨大なハンマーへと変わる。
鈍い衝撃音が何度も響く。
骨が砕けて、飛び散っていく。
──したくないこと──
──僕が引き金をひきたくなかったから──
──殺さなきゃ──
──もっとしたくないこと──
「あ"あ"あ"あ"あ"っ!!」
顔を歪めて、何度も、何度も、力任せに叩きつぶす。
──あぁ──
──そうか──
──僕は──
その瞬間。
胸の奥で何かが、鈍くと落ちた。
実は、はっとなって動きを止める。
振り下ろしていた腕が、宙で固まった。
──結局。
したくないことをしない生き方しか、
できないんだ──
荒い息だけが、耳の奥で響いている。
ゆっくりと視線を落とすと、そこにあったはずの骸骨の姿はもうない。
地面には、砕け散った塵が風に押されて転がっているだけだった。
ただ見下ろす。
もう何もない地面。
霧などかかっていないのに、
なぜか実には曇って見えた。
「……」
実の背後。
佐倉は、その場に立ち尽くしていた。
砕けた骨の名残と、宙に残る衝撃の余韻。
目の前で起きた出来事が、現実として噛み合わない。
(訳がわからねえ……なんだこの状況)
喉がひくりと鳴る。
足は動かず、ただ視線だけが、実の背中を追っていた。
実は、何も言わない。
振り返ることもなく、金色の光を失った手を下ろしたまま、背を向けている。
まるでここにいる理由を、もう失ってしまったみたいに、
そのまま、歩き出した。
「っ、まってくれ!!」
張り裂けるような声だった。
思考より先に、喉から飛び出した叫び。
その声に、実の足がぴたりと止まる。
けれど、振り向かない。
背中越しに、拒絶するような沈黙だけを残す。
(今はどうでもいいよな。それよも今は……)
佐倉は、ぐっと唇を噛む。
整理できない状況も、説明のつかない光景も、全部後回しでいい。
「あ、のさ」
言葉が、喉の奥で一度引っかかった。
佐倉は視線を泳がせ、無意識に頭を掻く。
いつもの軽口も、勢いのある声も出てこない。
「俺正直、今の状況、わけわかんねーんだけど……」
それでも、間を埋めるみたいに、必死に声を絞り出した。
「それでも、これだけは伝えなきゃだよな」
佐倉は、ゆっくり立ち上がり、無理に笑って言った。
実は黙ったまま、その場にた背を向けていた。
──違う、やめてよ──
「助けてくれてありがとうな」
その言葉が、背中越しに突き刺さった。
実の肩が、わずかに震える。
「……僕はそんなこと言われるような人間じゃないよ」
絞り出すような声。
感情を押し殺すように、ただ拒絶した。
「……は?」
背後で佐倉の間の抜けた声が聞こえた。
──だって僕は今、思っちゃったんだ──
実は、唇を噛みしめる。
振り返らないまま、一歩、足を前に出した。
その時、
──ダンッ!!
壁に叩きつけられていた。
胸ぐらを掴まれて。
眉を寄せた親友の顔だけが視界に入る。
「いや……それは違うだろ……」
低く、噛みしめるような声。
胸ぐらを掴む佐倉の指に、力がこもっているのが伝わった。
実は、ぎゅっと唇を結び、視線を逸らす。
「そりゃ、なんか大変なことに巻き込まれてんのはさ、俺にだってわかるよ……」
佐倉の声が、少しだけ揺れる。
掴んだ手は離さないまま、言葉を探すように、間が空いた。
「無理に話せとは言わねえよ……別に俺に話さなくてもいい、それでいいよ……」
佐倉は眉をきつく寄せて俯く。
「……でも!!」
その声と同時に顔を上げた。
「自分へのありがとうぐらい、ちゃんと見ろよお!!」
張り上げた声が、狭い路地に叩きつけられた。
怒鳴った。
というより、必死に引き留めるための叫びのようだった。
その言葉に、実の目が大きく揺れる。
「……違うんだよ」
揺れ動く視線は定まらず、行き場を失ったみたいに彷徨った。
「……だってっ……」
必死に何かを否定しようとして、けれど支えきれない。
「僕はぁ!!」
次の瞬間、力が抜けた。
膝が折れ、身体がずるりと崩れ落ちる。
限界だったみたいに、地面にへたり込んだ。
「聞かせてくれよ……ちゃんと聞くからさ」
佐倉の手がそっと実の肩に触れた。
温かい、感触。
そこにいることを確かめるみたいな、弱い力。
その瞬間、実の中で張りつめていたものが、一斉に込み上げてきた。
「僕がぁ、わるっいやつ」
「ころっさなかったからあ……」
喉が震える。
声が裏返る。
「……うん」
「……花と母さんがっ!! 悪いやつに殺されちゃってえ」
言葉が、うまく繋がらない。
「っ……うん」
「悪いやつの居場所見つけたのにっいまっでてきちゃって、逃げるからあっ!!」
絞り出すたびに、息が詰まる。
ただ涙が溢れ落ちる。
「……うん」
「僕っ……こっちにきてっ」
必死に言葉を掴もうとして、指が空を掻く。
「僕はっ……僕っ」
胸が詰まり、息が続かない。
「佐倉を……」
名前を呼んだ瞬間、堪えていたものが決壊した。
「助けなきゃ良かったってえ」
「思っちゃったあ"あ"あ"あ"!!」
叫びは形を失い、喉の奥で潰れた。
嗚咽に変わった声。
何度も途切れ途切れに漏れ出していく。
身体が小さく縮こまる。
涙が地面に落ちていく。
「……そっか」
短い相槌だった。
その声は否定も、慰めもせず、ただ受け止めるようで。
「でもさ、助けにきてくれたじゃん」
佐倉は、実の背中に手を置いた。
驚かせないように、
逃げられないように、
ゆっくりと。
円を描くみたいに、何度も、何度も擦った。
泣きじゃくる背中が、少しだけ上下する。
その温度を確かめるみたいに、佐倉の手は離れなかった。
「ありがとうぐらい、受け取ってくれよ」
佐倉の声は、低くて、静かだった。
押しつけるでもなく、逃げ道を塞ぐでもなく、ただそこに置くみたいに。
「だめ"なんだよ"お!!」
実は、首を激しく振る。
「はな"も"っがあさんも"」
「僕があ、ごろざながっだかあ"!!」
言葉は崩れ、音にならない。
喉を引き裂くみたいな叫びが漏れ、涙が止まらない。
否定するみたいに、縋るみたいに、何度も首を振り続ける。
受け取ってしまったら、
自分が許されてしまう気がして。
それだけは、どうしても出来なかった。
「僕があ"っ……ころざなぎぁっ」
声にならない音が、喉の奥で絡まる。
言葉にしようとするほど、息が詰まり、涙が溢れた。
その時、
「……殺さなくていいんだよ」
驚くほど静かな声。
「……え?」
実は、ゆっくりと顔を上げる。
ぐちゃぐちゃになった顔のまま、目を見開いて佐倉を見上げた。
理解が追いつかず、何かを聞き返そうとして、言葉が出てこない。
胸の奥で、張り詰めていた糸が、かすかに軋んだ。
「実はそのままでいいんだよ。そんな責任、負わなくていいんだよ……!!」
潤んだ瞳。
必死な声色。
震えた語尾が、実に届いた。
事情も知らない少年が、
何も知らないただの親友が、
無責任な言葉を、
責任を持って伝えていた。




