第32話 佐倉の過去と共に泣いた日
夕方の光に沈みかけた街の端。
人の気配を失った、使われていないビルが、実の正面にあった。
剥がれ落ちた外壁。
割れたままの窓。
ここに、いる。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく静かになった。
心臓の音だけが、やけに大きい。
「……殺してやる」
実は、その言葉を胸に抱えながら、ゆっくりと足を前に出す。
一歩、また一歩。アスファルトがわずかに沈む感覚。
夕暮れの光に沈む街を踏みしめ、目の前の使われていないビルへ向かう。
思考はまだまとまらず、頭の奥では言葉にならない怒りがうずく。
──ブォンッ
その瞬間、ポケットの中で、スマホが暴れるように震えた。
耳鳴りみたいに、思考の奥まで響く振動。
現実が、力づくで割り込んでくる。
実は、ポケットの中で震えたものに気づき、
少し遅れてスマホを取り出した。
画面を見た瞬間、
わずかに眉をひそめる。
《〇〇区にて、現想災害が発生》
「……はぁ?」
思わず、喉の奥から音が漏れる。
状況を理解したわけじゃない。
ただ、感情だけが先に反応した。
「このタイミングで……?」
胸の奥に溜め込んでいた熱が、急に方向を失う。
さっきまで、全部が一本に繋がっていたはずなのに。
怒りも、目的も、踏み出す覚悟も。
それを、無遠慮に横から叩かれたみたいだった。
喉の奥が、ひりつく。
乾いているのに、息が詰まる。
——復讐だ。
胸の内で、そう言い切る。
『こいつも殺せば……もっと殺る気になるか?』
──あいつが、母さんと花を殺した。
だから、殺す──
簡単なはずの理屈を、何度もなぞる。
そうしないと、足が動かなくなりそうだった。
『誰かが今にも死にそうで、
僕には、それをどうにかできる力があって……!!』
『なのに、何もしないなんて、
そんな生き方は"したくないんです"』
──全部、今はどうでもいい。
僕は復讐を"したい"んだ。
ここにいるあいつを、
僕が殺さなきゃいけない──
足元で、影が濃くなる。
世界が、夕暮れに溶けて、輪郭を失っていく。
実は荒い鼻息を漏らしながら、スマホを強くポケットに押し込み、 目の前のビルを見据えた。
◇
夕方の大黒駅前。
沈みきらない光が、舗道の影を長く引き延ばしている。
改札から人が吐き出され、車道ではブレーキ音とクラクションが混じる。
看板の明かりが一つ、また一つと灯り始める。
その中を佐倉は下を向いたまま歩いていた。
足先だけが前をなぞり、視線は地面に落ちたまま上がらない。
横断歩道の手前で、足が止まる。
顔を上げた先に、カラオケ店の看板。
派手な色のネオンが、薄暗くなり始めた空に浮かんでいる。
入口の自動ドアが開き、明るい店内の光と音が一瞬だけ外へ漏れた。
「……」
視線がそこに留まる。
店の奥へ続く階段口、貼り替えられたポスター、擦れた手すり。
出入りする人影を、追うでもなく見ている。
やがて、佐倉はポケットからスマホを取り出す。
画面が点き、青白い光が顔に落ちた。
──実との出会いは、正直もう、覚えていなかった。
幼稚園の頃から一緒で、気づけば、いつも同じ輪の中にいた。
友達の一人。そんな存在だった。
けれど、親友になったきっかけだけは、はっきりと覚えている──
◇
ある日、佐倉の家の犬が死んだ。
佐倉は、部屋の隅に座り込み、肩を震わせながら、声にならない声で泣いていた。
嗚咽を抑えようとしても、涙は止まらず、枕やぬいぐるみに湿りを残す。
カーテン越しの光は弱く、部屋の中はひんやりとして静かで、世界がすべて遠く感じられた。
「う……ううっ……」
泣きながら、何度も名前を呼んでしまう。
だが、誰も来ないし、もう会えない。
ただ、死んでしまった存在の温もりだけが、虚空に消えていた。
◇
次の日。
朝の教室は、ざわめきと笑い声で満ちていた。
窓から差し込む陽光が机の上を照らし、ノートや教科書が淡く輝く。
黒板には先生の手書きの今日の予定が書かれており、女子が席で小声で話している。
「ゴラクエの配合マジでやばくねー!!」
「うんまじやばい、僕スライムにベヒョイミ覚えさせたよ」
友達同士の声が重なり、窓の外の蝉の声と混ざり合って、いつも通りの学校の朝の空気が流れていた。
「ういっすー!!」
佐倉はその中で、にこにこしながら席に座り、友達に軽く手を振る。
「俺のゴラクエ、3面のボス前から動けないわ〜」
教室の後ろから笑い声がこだまする。
「いや、佐倉まじかよ!!」
「佐倉マッジでゲーム下手だよな〜」
「ぐはっ!! 俺に会心の一撃!!」
「実、べヒョイミして〜」
実は頭をかきながら、ちょっと笑った顔で口開いた。
「ごめん、MPない」
「俺は死んでしまった!!」
クスクスと笑う声が教室に広が。
──俺は、誰にも気づかれないよう、全部隠して、笑っていた。
だってみんなは、俺の犬には興味がないがないから。
それが普通だと、分かっていたから──
その日の放課後。
教室のざわめきが少しずつ消え、廊下には靴の音と窓から差し込む夕日の光だけが残る。
「……佐倉」
「ん? どした?」
振り返ると、実が少しだけ俯きながら、何か探るような目でこちらを見ていた。
「今日さ……二人で遊ばない?」
「え、ああ、いいけど……」
声がわずかに揺れるのを感じながらも、佐倉は自然に答えていた。
廊下の夕陽が二人の影を長く伸ばし、いつも通りの教室が、少しだけ特別な空間に変わった気がした。
◇
カラオケの個室。
佐倉は、そこでも変わらず明るく振る舞った。
「真っ青な〜ちか〜い〜♪」
無理やり声を張り上げる。
後ろで実が、パチパチと拍手する。
「佐倉、歌上手いんだね」
「いや〜、それほどでもな〜い!!」
精工な笑いを浮かべて応える。
胸の奥では、昨日の犬の死の悲しみが、まだくすぶっていた。
だが、それを隠すように、笑顔と元気な声を貼り付ける。
「何気にお前とカラオケ初めてだな〜。実、普段なに歌うの?」
「あー……ハニーゴールドとか」
「うわ、普通だな〜」
いつもみたいに大げさに笑った。
けれど、実はどこか複雑そうな表情を浮かべていて。
「……佐倉さ、なんかあった?」
「……え?」
唐突に聞かれ、佐倉の呼吸が一瞬止まる。
実の視線が、ただじっとこちらを捉えていた。
その真剣さに、言葉がうまく出てこない。
「勘違いだったらごめん。でも……辛そうに見えたから」
実は視線を逸らしながら言った。
カラオケの画面でも、佐倉の顔でもなく、テーブルの端を見つめている。
「あ、あ〜……バレちゃった?」
「実はさ、うちの犬が昨日、死んじゃってさ〜」
佐倉は、精一杯軽く言った。
冗談めかした声で、いつもの調子で。
──なのに。
その瞬間、実の目が大きく見開かれる。
一拍遅れて、息を呑む音。
「……え?」
気がつけば、実が声を押し殺すように泣いていた。
頬を伝う涙が、言葉よりも先に胸を締めつける。
「……いやいや、お前がなんで泣いてんだよ」
目の前で泣き崩れる実を見て、佐倉の心臓がざわついた。
戸惑いと動揺が入り混じる。
状況が、うまく理解できなかった。
「そんな辛いのに……明るく振る舞わせちゃったから……」
嗚咽をこらえながらも、実の声は震えていて、どうしても胸に刺さった。
「はぁ?」
思わず声が揺れる。
胸の奥がきしみ、涙がこみ上げる。
「佐倉……ごめん」
その言葉と涙で、いつもの作り笑いが、音を立てて崩れた。
頬を伝う感情の重みを、初めて素直に受け止める瞬間だった。
「……名前は、ポチっていってさ」
「うちに来てからずっと一緒だったんだ」
声が震える。
「うん……」
「毎日庭でボール遊びしてさ、夜は決まって俺の布団に潜り込むんだ」
言葉にするたび、目から熱いものが零れる。
「うん……」
「寝るときはさ、必ず俺の枕元に頭を置く癖があって……」
「うん……」
その後も、佐倉が泣きながら話し、実は泣きながら、「うん」と頷き続けた。
◇
泣き声がやっと収まり、カラオケルームには静寂が戻った。
スピーカーの音も、照明の光も、いつも通りの無言の存在感だけを漂わせている。
壁に反響するのは、二人の呼吸と、微かな机のきしみだけだった。
「はあ〜泣いた泣いた!!」
肩の力が抜け、胸の奥の重さが少しだけ軽くなる。
涙と一緒に、溜め込んでいた何かも流れた気がした。
心の中が、ほんの少しだけ晴れた。
「僕も、久々に泣いちゃったな……」
実は肩を小さく揺らしながら、まだ涙で赤くなった瞳を伏せている。
嗚咽は止まっているが、胸の奥に残った震えが、静かな声からも伝わってきた。
──こいつは、人のことで泣けるんだな。
小さく震える肩、潤んだ瞳、震える声。
それを見て、佐倉はそう感じた。
普通だと思っていた実が、異常なほど優しい人間に思えた。
「よし、せっかく来たんだし、実も歌おうぜ!!」
笑いながら選曲機を差し出す。
実は少し戸惑ったように視線を落とし、それから小さく頷いた。
「……じゃあ、得意なやつ、歌おっかな……」
声はわずかに震えていたが、その瞳には迷いと、かすかな期待が混じっていた。
◇
──現在。
「まさか、得意曲で平均点ピッタリとは思わなかったな……」
口元が自然と緩くなる。
佐倉はただ既読のつかないメッセージを見つめていた。
街の通りは夕暮れに染まり、影が長く伸びている。
建物の窓には橙色の光が漏れ、路地には人影がちらほらと見える。
日常のざわめきが、いつもより少し遠くに感じられた。
「きゃっ、な、何あれっ!!」
突然の声。
佐倉は咄嗟に顔を上げた。
「……え、なんだあれ」
視線の先。
ねじれた骨のような影が、ゆらゆらと揺れて立っている。
街の角を覆う不自然な動き。異形の存在感。
立ちすくむ人々の中で、子供たちの叫びと母親の悲鳴が、夕暮れの空気を震わせた。
「逃げて――!!」
「子供を守れ!!」
──逃げなきゃ。
考えるよりも先に、佐倉の身体は反応していた。
恐怖や混乱を整理する余裕もなく、足が勝手に前へ動く。
息を荒くし、肩で風を切りながら、その場を離れようとした。
「いっ!!」
足元がもつれる。
焦りと混乱が胸の内で歪む。
砂利に滑り、肘を地面に擦りながら転倒した。
ガラス片が腕や脚をかすめた。
──カシャッカシャッ
背後からの異様な音が耳に響く。
心臓。
跳ねるように脈打った。
肩で荒い息をしながら、地面に倒れたまま。
自分の足が恐怖で竦んでいるのがわかった。
──カシャッ、カシャッ
「……あ、あぁ」
ゆっくりと振り返る。
歪に曲がった骨のような骸骨。
その手には、割れたガラス片が握られて、
今まさに、
振りかぶられていた。
「っ!!」
全身に震えが走り、体が固まる。
目をきつく閉じ、視界を遮断する。
鼓動と荒い息だけが、耳の奥で響いた。
その瞬間。
金属音が、空気を裂いた。
「……?」
恐る恐る、震える目を開く。
視界の端に、光が差す。
金属がこすれる、微かな音。
そこに立っていたのは――
金色の剣を構えて、
背筋を伸ばした、
見覚えのある少年の姿だった。
「……実?」




