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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
第2章 同時災害編

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第28話 災害の爪痕とつかない既読

「俺があんたを……殺してやる」


 どこか労わるような、優しい声色だった。


 狩野は"異形"を押し飛ばし、後方へと距離を取る。


 地面を踏み締めた瞬間、アスファルトが軋んだ。


 ──狩野の現想生装『狼男』は、月の満ち欠けに比例して、身体速度が上昇する──


 狩野の骨格が歪み、筋肉が盛り上がり、指先に黒い爪が伸びていく。


──だが、満月の時だけは例外。

 その速度は、指数関数的に跳ね上がる──


 背後から、湿った足音が一斉に重なった。

 腐臭を撒き散らしながら、ゾンビたちが波のように殺到する。

 無数の腕が伸び、喉を鳴らし、狩野の背中へと距離を詰めてきた。


──その速度は、通常時の八倍──


 狩野の足首が、わずかに沈む。


 影が弾けた。

 

 異形が狩野の動きを追うように首を動かす。


 次の瞬間。首が不自然な角度に折れる。


 悲鳴は途中で潰れ、鈍い音だけが地面に落ちた。


 潰れる。


 三体。


 十二体。


 首が追いつく前に、影が崩れ落ちていく。


 爪が閃く。


 異形が光に溶けていく。


 数秒。

 それだけで、群れは沈黙した。


 残ったのは、倒れ伏す腐臭の身体と、

 夜に戻っていく静けさだけだった。


 狩野は獣のように前屈みになり、地面を滑るように体勢を整える。


 一瞬。


 低く息を吐いた。


 そして、前を見上げる。


 視線の先。


 最後の“異形”が、そこに立っていた。


「……俺、あんたに伝えたいことがあるんだ……」


 狩野は、目の前の異形から視線を逸らさなかった。


 異形が走る。

 怒りとも悲しみともつかない叫びを上げ、一直線に突っ込んでくる。


「あの時、俺をさ」


──ジャキン。


 爪が月光を切り裂いた。


「助けてくれて、ありがとう」


 夜の気配が張りつめ、風の音さえ遠のく。


 満月が、"二人"を等しく照らしていた。



 体育館。

 ワックスの匂いと、床を叩く軽い足音。


 女子中学生たちが、現実感の薄いままにバレーボールをしている。

 歓声は遠く、色彩は淡い。


 高く上がったトス。

 助走。


──バンッ。


 強烈なスパイクが決まる。


「花ああぁ!!」


 隣で、母が泣きながら叫んだ。

 体育館の応援席で上ずった、感極まった声。


 点数板が捲られ、「25」に変わる。


「おめでとおぉ!!」


 実も釣られて、胸の奥が熱くなるままに大声を上げていた。


 円陣を組んでいた花が振り返り、

 いつもの仏頂面が嘘みたいに、思いきり笑った。


 それを見た瞬間。

 胸の奥がきゅっとして、

 気づけば実も、


 同じくらい大きく笑い返し──


 『こいつも殺せば……もっと殺る気になるか?』



 息が、荒い。


 実は跳ね起きるように目を覚ました。

 喉がひりつき、肺がうまく膨らまない。


 朝日が差し込む。

 白い天井、消毒薬の匂い。

 規則正しい機械音と、清潔すぎる空気。


 病院のベッドの上だった。


「よかった。目が覚めたみたいだね」

「丸一日死んだように寝てたから、心配したよ」


 声の方を見ると、見覚えのある青年が椅子に座っていた。


「……護さん」


 護は軽く手を上げ、「よっ」とでも言うようなハンドサインを返す。


 実は視線を落とした。


 沈黙。

 言葉を探す時間だけが、重く流れた。


「……他のみんなは……」


 実の声は低く、平坦だった。

 問いかけながら、答えを期待していない声音だった。


「……狩野は無傷。ツグミと深海は軽傷」


 護はそこで、わずかに息を整えた。


「……井川さんは、ゾンビ化して死亡」


 実の眉が、わずかに動いた。


「東京第2は壊滅。研究員の七割がゾンビ化。玄蔵さんと、しのちゃんは路地裏で死体が見つかった。

 ……隊員で生き残った牧野には今後ウチに所属してもらうことになった」


 護の声は落ち着いているはずだった。

 それでも、どこか無理に形を整えた音で、最後まで真っ直ぐには続かなかった。


「……」

 実は、固まったままだった。

 息をしているだけで、体は一切動かなかった。


「今回の同時災害は、第2現災署を狙ったテロだ。

 ……ここまで組織的に動く"災害分子"が現れた以上、君達には今後、処理してもらわなきゃいけないことになると思う」


 護は息を飲んで続けた。


「災害ではなく、"人間"を」


「……」


 実の表情はピクリとも動かない。

 その瞳はただのシーツだけが映っていた。


「……ごめん」


 長い沈黙のあと、護は頭を下げた。


「……俺は、人為的に災害が起きてることに気づいて、君を疑って監視してた」

「その時間を、別のことに使っていれば、この被害は避けられたかもしれない」


 護の手は、静かに震えていた。


 実は下を向いたまま。


「……どうでもいいですよ」


 ようやく口を開いた。

 声は低く、感情の起伏がほとんどない。


 一瞬、空気が止まる。

 護が、言葉の意味を測りかねたまま、戸惑うように顔を上げた。


 実は、俯いたまま、首だけをゆっくり横へずらす。

 そのまま視線が合い、逃げ場を失ったみたいに、護を捉えた。


「……そんなことより、僕――

 “したいこと”が、できたんです」


 作りかけの仮面のように、

 その瞳はただ、黒かった。


「したくないことをしてでも、したいことが……」


 その表情は壊れかけのガラスのようで、


「僕、あいつを殺したいです」


 護を見ているはずなのに、

 実の視線は、どこか遠くを捉えていた。


 ──ピロン。


 場違いなほど軽い、スマホの通知音。

 窓際の棚に置かれたスマホが、震えた。


 しかし、実たちは固まったまま。

 何も言わず、何も動かず、そこにいた。


 その場で、確かに動いていたのは、

 四件のメッセージを抱えたスマホだけだった。



 朝の教室は、いつもと同じ匂いがした。

 消しゴムのカスと、ワックスと、少しの寝不足。


 佐倉は席に着くと、反射的に隣を見た。


「あれ……今日実、休み?」


 首をかしげるほどでもない、

 ほんの少しだけ、不思議に思った。


 前の席の男子が、椅子に斜めに座ったまま振り返る。


「遅刻じゃね?」


「ふーん。珍し」


 それだけ言って、佐倉は前を向いた。

 胸の奥に、理由のわからない引っかかりが残る。


──キーンコーン、カーンコーン。


 担任が教室に入ってくる。

 いつものように、出席簿を机に置いて、軽く咳払いをした。


「はい、みんな席についてー」


 ざわついていた空気が、少しずつ落ち着いていく。


「えーと、連絡事項がひとつあります」


 担任は、言葉を選ぶように、一拍置いた。


「……田中実くんなんだけどね」


 佐倉の指が、無意識に止まる。


「母親と妹さんが、不幸な事故に巻き込まれたそうです。

 しばらくの間、学校はお休みになるとのことで──」


 教室のどこかで、息を呑む音がした。


「……え?」


 佐倉の声は、自分でも驚くほど小さかった。


「詳しいことは話せません。

 みんな、今はそっとしておいてあげてください」


 担任は、教室全体を見回す。


「また学校に来られるようになったら、

 あたたかく迎えてあげてくれると助かります」


 それきり、その話題は終わった。

 授業が始まり、黒板に文字が書かれていく。


 佐倉は、机の下でスマホを取り出した。


 教師に見えない角度で、親指を動かす。


 打ち終える。


 目を伏せてしばらく静かに呼吸を整えた。


 ふぅ……と、息を吐き、いつものノートに向き直る。


 授業の声が淡く響き、ペン先が紙を擦る音だけが教室に広がる。

 ノートは少しずつ文字で埋まっていく。

 外の光は変わらず窓から差し込み、時間だけが静かに過ぎていった。


 しかし。


──その後も、四件のメッセージはそのまま。

 既読がつくことは、なかった。


──7月16日──

『大丈夫か?』8:28

『今、先生から話聞いて』8:28

『俺でよかったら、いつでも話聞くから』8:28

『何かできることがあれば、なんでも言って』8:29

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