第27話 惹かれた背中と手向けの宣言
夜の平原。
雲の切れ間から落ちる月明かりが、静かな川面を銀色に染めていた。
風が草を揺らし、水音だけが、ゆっくりと流れていく。
「ウオラァ!!」
狩野の豪快な一撃が、深海の身体を正面から捉えた。
「ヾ(⌒(_×ω×)_」
吹き飛ばされ、地面を転がる深海。
「へへっ、やってやったぜ」
狩野は勝ち誇った顔で、拳を握る。
だが――
深海は、倒れた状態からゆっくりと起き上がり、こちらを向いた。
「(。•̀ω-)b」
「……その顔はなんだよ」
「最終テスト合格って顔よ」
振り返ると、少し離れた場所で井川も静かにハンドサインを送っていた。
「狩野ちゃん、今日からよろしくね」
「……ふん」
狩野は短く鼻を鳴らし、井川から視線を外した。
そのまま背を向け、興味なさそうに肩越しに夜の平原を眺めた。
◇
東京現災署。
「は〜い、じゃあここにサインしてね〜」
護が軽い調子で書類を差し出す。
言われるがまま、ペンを走らせた。
――狩野 真。
「いや〜、狩野ほんと賢いよね〜」
護は椅子に凭れたまま、感心したように何度も頷いた。
「なんすか、急に」
「だってさ、1年前まで文字も書けなかったじゃん」
指を折りながら思い出すように言ってから、護はにやりと笑った。
「それが今じゃタイピングまでできるようになって……」
端末のキーボードを軽く叩き、わざとらしく胸に手を当てる。
「まもちゃん嬉しい!!」
「……」
一瞬だけ目を伏せ、狩野は小さく息を吐いた。
「護さんが色々教えてくれたんで」
ぶっきらぼうに言いながらも、その声にはわずかに角がなかった。
「……そういえばさ」
護は何気ない風を装って続ける。
「狩野って、井川さん苦手?」
「あ? あー……苦手っすね」
一瞬だけ言葉を濁し、狩野は視線を逸らした。
「あー、やっぱりね」
護は妙に納得したように、軽く相槌を打つ。
「あの人、何考えてんのかよく分かんねぇっすわ」
眉間に皺を寄せ、噛みつくように零した。
吐き捨てるように言って、続ける。
「他人のために戦うなんて……偽善者ぶって」
その言葉に、狩野の表情がほんの少し強張った。
護は笑わなかった。
(……狩野は人の善意が信じられない)
(善意の塊みたいな井川さんが苦手なのも、まあ当然か……けど)
ふと、胸の奥で自分の言葉が蘇る。
『君の言う通り、僕達、君を利用する為に助けたんだよね〜』
(……あれのせいで)
(狩野が今も井川さんを恨んでるなら……)
(悪いこと、しちゃったな)
その時――
──ウゥゥゥン、ウゥゥゥン。
サイレン。
護の表情が一変する。
すぐ様、目の前のパソコンに視線を移し、場所と時刻を確認し、顔を上げた。
「狩野、井川がもうすぐ来る」
端末から目を離さず、護が言う。
「合流したら、一緒に向かってくれ」
「……は?」
狩野は思わず声を漏らし、肩越しに振り返った。
「いやいや、俺一人で行くっすよ」
「狩野はまだ研修期間だ」
護はようやく顔を上げ、静かに言い切る。
「同行者がいないと危険だ」
「……逆に一人で解決したら、すげーってことですよね?」
一拍置いて、口角が吊り上がる。
挑むような視線を向け、ニヤリと笑って護を見る。
「じゃ、ボーナス期待してるんで」
それだけ言い残すと、狩野は制止を振り切るように踵を返した。
足早にドアを開け、そのまま夜の向こうへ消えていく。
「おい、狩野——」
護の声は、閉まりかけたドアに遮られた。
◇
夜の街。
空は雲に覆われ、月は見えない。
「……なんだ、こいつ、恐竜か?」
巨大な翼を広げ、空を裂く影。
鋭い嘴で突撃し、建物を次々と破壊していく。
「さぁて……初任務だな」
口角を上げた瞬間、身体が軋む。
骨格が変わり、筋肉が盛り上がり、影が歪む。
――戦闘。
夜空から、影が一直線に落ちてくる。
翼が空気を裂く。
次の瞬間、爪と嘴がぶつかり、火花が弾けた。
狩野は地面を蹴る。
瓦礫を踏み台に、横へ跳ぶ。
だが、上からの速度が違う。
叩きつけるような風圧が、身体を横から押し流した。
「……っ、速ぇ……!!」
影が視界を横切る。
翼の一撃が脇腹をかすめ、そのまま身体が持っていかれる。
回転する視界。
次の瞬間、背中から地面に叩きつけられた。
肺の空気が押し出され、息が途切れる。
「こいつ、プテラノドンってやつか……!!」
上空で旋回する影。
翼を傾け、再び降下してくる。
「ぐっ!!」
狩野は転がる勢いのまま腕を突き出す。
両手が地面に叩きつけられ、衝撃を受け止める。
そのまま身体を捻り、回転させる。
流れた勢いを殺し、膝で着地した。
「……チッ」
舌打ちし、顔を上げる。
雲に覆われた夜空。
光は差していない。
「月が出てねえ……」
その瞬間。
「は?」
空気が裂けた。
さっきまで遠くにあった影が、一瞬で距離を詰める。
風圧が爆発したように押し寄せる。
視界が黒く塗り潰されていく。
「まず、よけらんねえ──」
逃げる判断すら許されない速度。
──ドンッ。
重たい衝撃が腹を打ち抜いた。
刺さる嘴。
内臓が揺さぶられる。
そのまま、地面へと押し倒される。
「うがぁ……!!」
腹を貫く激痛。背中が地面にめり込み、視界が白く弾けた。
嘴が引き抜かれる。
肉を裂く感触だけを残して、影はふわりと距離を取り、再び夜空へ舞い上がった。
腹から血が零れ落ちる。
力が抜け、膝が崩れ、獣の輪郭が音もなく剥がれていく。
伸びていた爪が縮み、毛が消え、身体は無防備な人の姿へと戻っていった。
――羽音。
頭上で、影が旋回する。
明確な殺意を帯び、獲物を見下ろす目が、狩野を捉え直す。
「……まず、い」
逃げようとしても、足が動かない。
血と痛みが、判断を鈍らせる。
影が一直線に落ちてくる。
「……くっ!!」
反射的に身を強張らせた、その刹那――。
──ドスッ。
「……?」
ゆっくり目を開く。
そこにいたのは――
肩を貫かれながらも、立っている井川だった。
「……はぁ?」
理解が追いつかない。
目の前の光景と、記憶の奥に沈めていた情景が、強引に重なり合う。
瓦礫の下。
血の匂い。
「……てめぇ……何がしてぇんだよ!!」
怒鳴った声は、思ったよりも震えていた。
怒りなのか、混乱なのか、自分でも分からない。
「また助けに来たとか言う気か!?」
「ふざけんなよ!!」
叫びながら、一歩踏み出す。
肩から血を流し、それでも前に立つその背中が、やけに遠く見える。
苛立ちと、吐き気に似た感情が、喉の奥までせり上がってきた。
「どうせボーナス狙いなんだろ!?」
「気持ち悪ぃんだよ!!」
吐き出すように叫んで、言葉を切る。
それ以上、顔を上げられなかった。
歯を食いしばり、視線を地面に落とす。
「……そうね」
思いのほか、落ち着いた声だった。
「狩野ちゃんの言う通りよ」
あまりにあっさり肯定されて、
逆に、思考が一瞬止まる。
「……は?」
反射的に顔を上げる。
予想していた反論も、言い訳も、そこにはなかった。
「私もね、利己的なの」
翼竜の首を掴みながら、井川は続ける。
「若い子が苦しむ姿を見たくないなんて、独りよがりな理由で戦ってる」
狩野は、言葉を失った。
意味がわからない。
そんな理由で命を張る人間がいることが、
ただただ理解できなかった。
怒りよりも先に込み上げてきたのは、驚きと戸惑いだった。
頭が追いつかず、胸の奥がざわついた。
「はああああ!!」
井川が叫ぶ。
躊躇なく踏み込み、そのまま翼竜の首元に噛みついた。
「――――!!」
獣じみた叫び声が、夜の空気を引き裂く。
次の瞬間、ボチャッという湿った音。
噛みちぎられた肉片が地面に落ちた。
翼竜は苦悶するように嘴を引き抜き、
バランスを失ったまま、よろめきながら低空へと滑空する。
しかし、その瞳に宿るのは恐怖ではない。
剥き出しの怒りをまとい、再び井川へ突撃してきた。
井川は、口元に残った血肉を一息に飲み込む。
次の瞬間、「猪八戒」の能力でそのエネルギーを拳へと移す。
――踏み込む。
渾身の拳が、一直線に叩き込まれた。
巨大な影は、衝撃に耐えきれず宙へと吹き飛んだ。
夜気を切り裂くように回転しながら、月のない空へ光の粒子となって、溶けていく。
重い音が遠くで響き、やがてそれも闇に呑まれた。
井川は、振り返らない。
背中に夜を背負ったまま、静かに口を開いた。
「……だからね。あの時の言葉、訂正するわ」
井川はゆっくりと振り向いた。
月明かりの下、その視線は逃げ場なく狩野を捉える。
真正面から、確かめるように――その目を。
「おばちゃんがおせっかいに来たわよ……!!」
「……」
──気味が悪くて、理解できない、
偽善じみた変なおばさん。
でも、
この時確かに思ってしまったんだ。
カッコいいって──
◇
──今思えば、あの時からだな。
俺があんたに惹かれたのは。
なぁ井川さん。
俺実はさ。
あの時のあんたに憧れて、
今まで戦ってきたんだぜ?──
狩野はバイクのエンジンを切り、静かに息を整えた。
視線を上げる。
屋根が半壊し、壁の一部が崩れ落ちた東京第2現災署が目の前に広がった。
焦燥が胸を締め付ける。
狩野は足を速め、瓦礫を蹴散らしながら入口へ駆けた。
手すりや壊れた柱を掴み、飛び越え、倒れた看板を踏みつけ――必死に距離を詰める。
一歩、また一歩と瓦礫の散乱する入口へ踏み込む。
「っ!!」
思わず声が漏れた。
目の前には、蠢く異形の影。
歪んだ身体、引きずる足音。
低い唸り声。
狩野は立ち止まり、ゆっくりと頭を上げる。
割れた天井の向こうに目をやると、雲の切れ間が一筋光を差し込んでいた。
冷たい光が瓦礫を照らし、影を長く伸ばしているのを確認すると、
狩野はぎゅっと拳を握り直し、再び視線を前のゾンビ達へと戻した。
「……は?」
月明かりが瓦礫を銀色に照らす中、狩野の目に異形たちの列が映る。
その先頭で、どこか見覚えのある面影――
そこには、ゾンビたちと共に、異様に蠢く。
──"井川"の姿があった。
普段の温和な表情はなく、全身から力が漏れ出すように、奇妙な威圧感を放っている。
狩野は思わず息を呑んだ。
「……ハハッ」
狩野は思わず肩で息をつき、苦笑した。
唇の端が引きつり、目だけが状況を必死に理解しようとする。
「そりゃ、そうだよな……」
低く呟く声に、緊張と困惑が入り混じっていた。
「ウアァ……!!」
異形の呻きとともに、"異形"がこちらに飛びかかってくる。
眉をしかめ、歯を食いしばる。
咄嗟に手を伸ばし、その肩を支えた。
ゆっくりと視線を上げ、顔を直視する。
月明かりに照らされたその表情は、どこか歪んで見えた。
胸の奥が揺れる。
「優しいあんたのことだ、辛いよな。こんなことになって……」
小さく、しかし確かな声で問いかけた。
唇の端が、かすかに持ち上がる。
眉は険しいまま、瞳だけが柔らかく揺れる。
「でも、安心してくれよ」
小さく、震える声で告げる。
「俺があんたを……」
言葉を選ぶように、静かに続けた。
「殺してやる」
強い言葉が優しく落ちた。




