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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
第2章 同時災害編

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第26話 名もなき牙と狩野真

「殺してやる」


 低く、獣じみた声が夜気を裂いた。


 月明かりの下、細い体躯はすでに人の輪郭を失い、伸びた四肢と毛に覆われた背中が歪な影を地面へ落としている。


 子供ほどの体格のまま、怒りだけが異様に膨れ上がっていた。


(現想……生装!?)

 井川は一瞬、息を呑む。

 (たった今フィクションと繋がったの!?)


「オラァ!!」


 唸るように吐き捨て、狩野が地面を蹴る。


 素早い。


 月光を弾く鋭い爪が一直線に迫った。


「……仕方ないわね」


 覚悟を決めるように、息を吐いた。


「ちょっと痛いけど……」

 井川は距離を測りながら、拳を握り締め、一歩、踏み込む。

「我慢してちょうだい!!」


 拳が、狩野の腹部に叩き込まれた。


「ぐぁっ!!」


 鈍い衝撃音。

 小さな身体が宙を舞い、瓦礫の壁へ叩きつけられる。


 白目を剥き、そのまま力なく崩れ落ちた。


 毛が引き、爪が縮み、身体はゆっくりと人の形へ戻っていく。


「……ごめんね……」


 井川は視線を伏せ、かすかに呟いた。



「……ん……あ?」


 意識がゆっくり浮上する。

 冷えた空気、湿った石の匂い。


 狩野が目を開けると、そこは窓のない暗い牢屋のような空間だった。


「っ!!」


 身を起こそうとした瞬間、

 ガシャガシャ、と耳障りな音が鳴った。

 身体が、前に進まない。


 視線を落とす。

 両手首に、鎖付きの手錠が繋がれていた。


「っんだよこれ……!!」


──ギィ……。


 古い扉が軋む音。

 揺れる灯りと共に、トコトコと二人分の足音が近づいてくる。


 やがて、牢の前に人影が止まった。


「どうも〜」

 気の抜けた声の青年。


「……誰だお前」


「俺の名前は護。君を護る、優し〜い大人だよ〜」


「牢屋に入れてんじゃねぇかよ!!」


 鎖を鳴らしながら、狩野が前に出ようとする。

 だが、手錠に引き戻され、身体は半歩も動かない。

 ただ苛立ちと警戒が混じった視線を、護へと突き刺した。


「だって、君、井川さん殺そうとしたじゃん」


 半笑いで言い、護は隣へ視線を向ける。

 狩野も、同じ方向を見る。


「……ハッ。やっぱりそういうことじゃねぇかよ」


 そこには、申し訳なさそうに目を伏せた井川が立っていた。


 短い沈黙が牢を包む。


「……君、名前は?」

 護が狩野に言葉を飛ばした。


「……狩野」


「下の名前は?」


「……んなもんねぇよ」

 唾を吐くみたいに、狩野はそう言った。


 護は目を丸くする。

 そのまま視線を止め、わずかに首を傾けた。


「……なるほどねぇ」


 言葉のあと、空気が動かない。

 護は顎に指を当て、視線を落とす。


 やがて、何かを拾い上げたように顔を上げた。


「……実はさ!!」

「君の想像通り、俺達、君を利用する為に助けたんだよね〜」


「……っ護ちゃん!?」

 井川が驚いた声を上げた。


「……ハッ、やっぱりな」


 狩野は笑いとも溜息ともつかない息を漏らし、ゆっくりと視線を伏せた。


「……ねぇ、俺達と取引しない?」


 一拍置いて、狩野は伏せていた顔をわずかに傾けた。

 その目だけが、護を捉える。


「……取引?」


「君、能力に目覚めたでしょ」


 護は軽く顎を上げ、確信めいた口調で言葉を投げてきた。

 問いかけというより、もう答えを知っている声音だった。


「でもね、その力を持つ人間って、ちょ〜少ないの」

「だからウチ、ずっと人手不足なんだよねぇ〜」


 溜め息交じりにそう言ってから、

 護はゆっくりと狩野を見下ろした。


「君みたいなクソガキの力を借りたいぐらい」


「っ、だれがクソガキだ……」


 狩野は歯を食いしばり、鋭く睨みつけた。


 だが護は、その視線を受け流すように肩をすくめ、気にも留めない。


「もちろん君にもメリットがあるよ」


 護は指を一本立てて、軽く振った。


「命張る分、いーっぱいお金稼げる」

「まあ、一年くらいテストとして訓練してもらうことにはなるけど……」

「どう? やってみない?」


 首を傾げ、真正面から視線を合わせる。

 誘いというより――選択肢を突きつける目だった。


 狩野は少しだけ下を向く。


(……正直、こいつはいけすかねぇ 。


 だが、こいつの話は互いにメリットがある。


 ……信用できる)


「……いいぜ。のってやるよ」


 視線を上げ、ニヤリと笑った。


「オッケー!! じゃ、早速手続き済ませよ〜ぜ〜」


 護が井川に目配せする。

 井川は複雑な表情のまま、近づき手錠を外した。


「よし、じゃあ最初に俺が名前をつけてあげよう!!」


 護は急に声を弾ませ、思いついたとばかりに手を叩いた。

 さっきまでの軽口よりも、さらに無邪気なテンションで。


「名前? なんでだよ」


 狩野は眉をひそめながら、

 さっきまで手錠が嵌まっていた手首を、ぶらぶらと揺らす。


 金属の感触がまだ残っているのが、癪だった。


「色々手続きに必要なんだよ〜」


 護は、ふと思い出したように狩野の方を向き、

 そのまま指を伸ばした。


「じゃあ、今日から君の名前は──」


 指先が、狩野を真っ直ぐ捉える。


「狩野 真だ」



 川が流れる、開けた平原。

 風が草を揺らし、水面が月明かりを弾く。


「オラアアァァァ!!」


 狩野が地を蹴り、川を跳び越えた。

 鋭い爪を振り上げ、川奥の青年へ飛びかかる。


 届く――そう思った瞬間。


「うおおおおお!?」


 片足を触手が絡め取った。


 それは狩野の影から伸びて、

 そのまま身体を宙へ引き上げられた。


「っんだよこれぇ!!」


 宙吊りのまま、足をばたつかせる。


 川辺で、青年が片手を水に沈めたまま、こちらを見つめていた。


「( ¯﹀¯ )✧」


「っんだよ、そのムカつく顔はあ!!」


 狩野は必死にもがく。


 だが、足首が締め上げられるたびに身体が空中で振り回されるだけだった。


 その少し離れた場所で、

 一部始終を見ていた井川は、肩の力を抜いて微笑み、小さく息をついた。


「……ちゃんと、若い子ね」

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