第25話 狩野の日常と渇望の宣言
森の中を縫うように、バイクが走る。
夕方と夜の境目――光が沈みきらず、影だけが濃くなる時間帯だった。
木々の間を抜ける風が冷たく、ヘッドライトの白が路面を切り裂く。
「くそっ……」
──生きてるかどうかなんて、考えたくねぇ。
考えた瞬間、期待になる。
期待になったら、裏切られた時が面倒だ。
それでも、胸の奥に引っかかりやがる。
もっと早く、夜になってりゃ……
なんて、どうしようもない悔しさだけが──
『おばちゃんがおせっかいにきたわよ……!!』
不意に、頭の奥に声が響く。
「……なんでこんな時に思い出すんだよ」
アクセルを捻る。
エンジン音が、焦りを誤魔化すみたいに唸りを上げた。
◇
──三年前
狩野の家は、貧乏な家庭だった。
薄暗い部屋。
カビの匂いと、湿った空気。
そこに、いつも怒鳴り声があった。
狭い部屋の中で、怒鳴り声が途切れず反響する。
湿った空気が淀み、音だけが逃げ場なく残った。
「何その目……っ!!」
母の手が振り抜かれる。
乾いた音が弾け、狩野の身体が横へ弾かれる。
そのまま壁に叩きつけられ、鈍い衝撃が部屋に響いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
声は掠れ、言葉の端が途切れる。
同じ言葉が、間を空けずに繰り返された。
──父親はいなかった。
死んだわけじゃない。
俺が生まれる少し前に、離婚したらしい。
らしい、なんて曖昧な言い方しかできないのは、
誰も俺に、まともな説明をしなかったからだ──
「アンタのせいで……」
母の口元が歪む。
言葉の切れ目と同時に、また腕が振り下ろされた。
頬が打たれ、狩野の頭が弾かれる。
遅れて、短い息が喉から漏れた。
もう一度。
肩口に落ちた一撃で、身体が折れる。
支えきれず、膝が床に触れた。
──理由はいつも同じで、
理由なんて実際にはなかった。
床に転がされ、蹴られ、
泣けばうるさいと殴られ、
黙れば気に入らないと殴られる。
俺はただ、そこにいるだけだった。
母は、俺を見るたびに父を思い出していたんだろう。
認めたくない存在。
逃げた男の血。
それが、俺──
食事は、パン一切れ。
母は振り向かない。
ただ手にしていたそれを、床へ放った。
黒ずんだ床に、乾いた音が落ちる。
踏み跡と油の染みが重なり、埃が薄く積もっている。
パンが転がり、汚れをなぞって止まった。
狩野はそれを黙って拾う。
視線を上げないまま、口へと運ぶ。
口元に触れたパンに、細かな埃が付いている。
それでも、その空間には咀嚼の音だけが、小さく続いた。
──ただ落とされたパンを拾い上げて、
黙って床の上で食らう日々。
三日に一回は飯がなかった。
でも腹が減っても、声を出せば殴られる。
だからうるさく鳴る腹に、床の埃を与えて凌ぐ。
そんな毎日を過ごしてた。
俺は、学校に行ったことがない。
後で知ったが、出産届けすら出されていなかったらしい。
現災署に入る時は、戸籍がなくて、色々面倒だったもんだ──
床に膝をついたまま、狩野はパンを口に運び続ける。
指先に付いた埃ごと、端から噛みちぎる。
細かな欠片が唇に残っても、そのまま押し込む。
視線は上がらない。
飲み込む動きだけが、一定の間隔で繰り返される。
目の前で、母が足を止めた。
振り返り視線を狩野に向ける。
まばたきの間も短く、瞳孔がわずかに開いている。
唇の端が引き結ばれ、顎に力が入っていた。
「なんで生きてんのよっ……ほんと、目障り……」
──そんな母の言葉は、殴るより深く刺さった。
毎日飛ばせられる罵声。
少しカビたパン。
腫れた頬に、ぶつけられる平手。
これが俺の日常のすべて。
それでも、
俺は、恨んでいなかった。
逃げた父も。
殴る母も。
なぜなら俺がこの狭い家、
この“社会”で学んだのは、
人間はみんな利己的で、
残酷だってことだけだったからだ。
俺は、きっと死ぬまでここで生きる。
このクソみてえな社会で生きる。
そう思っていた。
永遠だと──
◇
その日も、いつもと変わらなかった。
酒と汗の混じった匂い。
壁越しに響く、荒い足音。
嫌な気配が、背中をなぞる。
怒鳴り声が落ちてくる。
理由は、示されない。
次の瞬間、衝撃。
狩野の身体が弾かれ、床に転がる。
続けて、何度も叩きつけられる。
丸まり、床に伏せたまま、口だけが動く。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい……」
音は途切れず、同じ言葉が繰り返される。
荒い息遣いが、すぐ近くにある。
立ったまま、見下ろす気配が離れない。
「あんたのその顔見てると……」
気配が一歩近づいた。
「イライラすんのよおぉお!!」
視界の端で、光が揺れた。
包丁。
「あ……」
(永遠なんかじゃなかったのか)
刃が傾き、鈍く光を返す。
呼吸が詰まり、視界が狭まる。
(今日だったんだ。俺が死ぬのは……)
振り下ろされる刃が、視界の中心へ滑り込んでくる。
光を弾いた刃先が、まっすぐ瞳に重なった。
逃げ場はない。
声も出ない。
そう理解した。
その瞬間。
――ドゴォォンッ!!
腹の底を叩くような爆音。
足元が跳ね上がり、身体が宙に浮いた。
壁が砕け、
天井が裂け、
重たい瓦礫が、雨のように降り注ぐ。
「うぐあっ!!」
叩きつけられた衝撃で、視界が揺れる。
その中で、
母の姿が、一瞬だけ見えた。
──グチャリ
鈍い音。
崩れ落ちた梁と瓦礫が、
逃げる間もなく覆いかぶさり、
母の身体を押し潰していた。
一瞬の瞬き。
次に目を開けた時、
そこにあったのは、
瓦礫の山と、動かない影だけだった。
「……え」
埃の向こう。
そこに、"何か"が立っていた。
石と土で形作られた、巨大な何か。
人の形をしているのに、人じゃない。
重く、無言で、圧倒的な存在。
本来なら、恐怖で震えるはずのその光景。
でも。
不思議と、胸が軽かった。
巨大なそれが、どすり、どすりと近づいてくる。
「……ハハッ」
笑いが、込み上げてきた。
理由なんて、わからない。
ただその怪物は確かに、自分がしたかったことをしてくれたから。
「最後に……いいもん見れたな」
それは狩野が、生まれて初めて浮かべた笑顔だった。
拳が振り下ろされるのを、
ぼんやりと見上げる。
――ここで終わる。
そう思った、その刹那。
――ドンッ!!
空気が破裂したような轟音が走った。
衝撃が遅れて身体を揺さぶり、
視界が大きく跳ねた。
次に焦点が合った時、
目の前の巨体は、動きを止めていた。
腹部に――
何かに穿たれたような、
不自然な空洞が、ぽっかりと開いている。
「……は?」
巨大な存在は、光の粒子となって崩れ、消えていった。
その奥に一人の人影が見える。
――立っていたのは、1人の太ったおばさんだった。
「僕、大丈夫かい?」
「おばちゃんが助けに来たよ!!」
その声は、やけに明るかった。
瓦礫と粉塵の向こう、世界が壊れた直後だというのに。
狩野は、しばらく何も言わなかった。
ただ、潰れた家と、瓦礫の下に見える母の輪郭を、じっと見つめていた。
胸の奥で、熱が蠢く。
それは怒りでも、悲しみでもなく――
もっと濁った、粘つく感情。
そして口から、
ぽつりと零れた。
「……偽善者が」
「……え?」
おばさんは目を丸くした。
しばらく口をパクパクさせてから、ようやく声を絞り出す。
「え、えっと……おばちゃん、何か変なこと言ったかい?」
その困惑した顔を見て、
狩野の胸の奥に、奇妙な爽快感が走る。
――ああ。
言いたいこと言うって、
こんなに気持ちいいのかよ。
……ヒーロー気取りの、クソババア。
助けたつもりで、全部わかった顔をして、
"救ったつもり"でいてやがる──
この日、狩野は生まれて初めて、二つのことを経験した。
ひとつは、自分が確かに怪物に"救われた"という事実。
そしてもうひとつ。
「……なあ」
狩野は顔を上げ、おばさん──井川を睨んだ。
「何が目的なんだよ……」
「……え、えーとね?」
井川は頬を掻きながら、少しだけ視線を逸らす。
「おばちゃんは、ただ──」
「いや、やっぱいいわ」
低い声だった。
子どものものとは思えないほど、冷えている。
「そうだよな。俺の人生なんだもんな」
口角が自然と上がっていく。
「また、別の狭い社会に行くくらいなら……」
足元で、何かが軋んだ。
狩野の影が、ゆっくりと歪む。
「また、誰かの機嫌を取らなきゃいけねぇくらいなら……」
この時、胸の奥で、確かに"何か"と繋がった感覚があった。
「っ!!」
井川が息を呑む。
狩野の身体が、内側から押し広げられるように軋み始めていた。
背骨が浮き上がり、
肩が不自然に盛り上がる。
指先が伸び、爪が硬く、鋭く形を変えていく。
呼吸が荒くなる。
喉の奥から、獣じみた低い音が漏れた。
「俺が、してぇことをする為に、お前を……」
足音がひとつ、瓦礫の上に響く。
踏み出した瞬間、背中の輪郭が歪み、空気を押し退けるように膨れ上がった。
「殺してやる」
月明かりが、その小さい背中を照らしていた。




