第22話 縋る足音と血の香り
「なんだよ──おもんねぇな、お前」
地面に突っ伏した実の背へ、黒龍は吐き捨てた。
熱を帯びた吐息が、アスファルトをじりじりと焼く。
「お前さっき、俺を攻撃すんの躊躇したろ」
「っ!!」
実の肩が、びくりと跳ねる。
「折角面白い能力してんだからよ」
焔堂は、心底つまらなさそうな声音で続けた。
「もっと本気で殺しに来いよ」
巨大な首が下がり、黄金の瞳が実を捉える。
「あのなぁ、俺は人を大勢殺してんだぜ?」
「なのに、なんでお前は躊躇った?」
実の指先が、地面を強く掴む。
爪の間に砂が食い込み、乾いた音が鳴る。
そのまま、奥歯を噛み締めた。
「引き金を引く覚悟がねぇ奴が」
焔堂は低く唸る。
「俺に勝てる訳ねぇだろ」
重い一言が、空気ごと叩きつけられる。
「それじゃ誰も守れねぇよ」
その言葉は、刃物のように、実の胸に突き刺さった。
「あ、そうだ」
焔堂は、ふと思い出したように零した。
「お前さっき、あっちの方、見たよな?」
黒い首が、ゆっくりと横を向く。
その先――住宅街。
田中家のある方向。
実の表情が、凍りつく。
「あそこらへんにさ」
ドラゴンは、不敵に口角を吊り上げたような仕草を見せる。
「大事な人でも住んでんのか?」
「っ、やめ──」
絞り出した声は、轟音に掻き消された。
黒龍が羽ばたき、風圧と熱波を残して空へ舞い上がる。
そのまま、住宅街の方向へ黒い災害が飛び立った。
「……っ!!」
実は歯を食いしばり、跳ね起きる。
足の痛みも、息の苦しさも無視して、走り出した。
◇
燃え盛る商店街。
崩れ落ちた看板と、炎に包まれた路地。
ツグミは宙を跳び、サラマンダーの背へと触れた。
「……99回目」
呟いた瞬間、冷気が走る。
だが、凍ることはなかった。
代わりに立ち上るのは、白い蒸気だけ。
「……っ」
次の瞬間。
サラマンダーの背が、大きくうねった。
熱を帯びた鱗が波打つように持ち上がり、
ツグミの体が弾かれる。
足場が崩れ、
踏ん張る間もなく――
振り落とされた。
身体が地面を転がり、何度も跳ねる。
やがて勢いが止まり、
地面に手をつく。
そのまま身体を起こし、立ち上がった。
服は焼け焦げ、
皮膚のあちこちに火傷が走っていた。
腕から熱帯びた血が肌を伝う。
「そろそろかな……」
ツグミは、何事もなかったかのように走り出した。
一直線に、間合いを詰める。
サラマンダーが口を開く。
喉奥に、赤い炎が灯る。
それでも、ツグミは止まらない。
足を一歩、強く踏み込む。
地面を蹴った反動で、前へと滑る。
伸ばした腕が、熱気を切り裂くように進む。
そのまま鼻先へ触れて、
静かに告げた。
『氷葬連鎖』
次の瞬間。
これまで触れてきた体表の各所が、一斉に凍りつく。
冷気が広がり、繋がり、連鎖する。
サラマンダーは、瞬く間に動きを失う。
口を開いたまま、炎を喉奥に残したまま、全身が白く閉ざされた。
「私の氷葬連鎖はね」
少し距離を取り、ツグミは呟く。
「触れてきた全部を、同時に冷やすの」
視線を動かさないまま、凍りついたサラマンダーへ言葉を向けた。
だが──
氷の内側から、赤い光が滲む。
ひび割れ、溶け、熱が溢れ出す。
凍結が、見る見るうちに崩壊していく。
「……やっぱり、そうなるよね」
言葉のあと、喉の奥で息がほどける。
「火の精霊なだけはあるわ」
氷が最後の膜のように剥がれ落ちる。
閉じ込められていた赤い光が、外へと溢れ出した。
「グギャアアアッ!!」
怒りの咆哮。
空気が震え、サラマンダーの巨体が前に沈み込む。
燃えるような爪が振り上げられた。
空気が沈む。
影がツグミの身体を、丸ごと呑み込んだ。
しかし。
直後、振り上げた半身に亀裂が走る。
音を立てて弾け、形を保てないまま崩れ落ちた。
「グ、ギィ――アァァッ!!」
裂けた喉から、濁った咆哮が噴き出す。
途中で掠れ、砕けた音が混じったまま引き裂かれていく。
「ヒートショック現象」
ツグミは淡々と告げる。
「急激な温度変化に、あなたの身体は耐えられなかった」
一歩、近づく。
「いくらあなたが架空生物でも、現実のルール《この世界》には、抗えない」
サラマンダーは、掠れた声を上げる。
崩れた喉が震え、焼けた空気が途切れ途切れに漏れる。
ツグミは倒れた身体に歩み寄る。
足元に散った破片を踏み越え、腕を下ろす。
指先を、ひび割れた体表に触れさせた。
「これで、とどめ――」
しかし。
次の瞬間。
その身体が、内側から崩れる。
輪郭がほどけ、赤い光の粒へと砕けていく。
粒子は空中に、熱だけを残して霧散した。
「……え」
まだ、とどめを刺していない。
確かに、息もあった。
視線がその場に止まる。
口がわずかに開いたまま、動かない。
頬を伝った汗が、顎先から落ちた。
「一体、なんで……」
揺れていた空気が、ゆっくりと凪いでいく。
商店街に、熱と静寂だけが、その場に残った。
◇
実は走り続けていた。
空高く飛ぶ黒龍を追いかけて。
いつもは静かな通学路。
そこには、逃げ惑う足音と叫びが、絶え間なく続いていた。
――なんであいつは、
僕を殺さなかったんだ。
なんであいつは、
簡単に人を殺せるんだ。
なんであいつは、
僕の家の方へ向かうんだ──
眉を強く寄せたまま、足を止めない。
喉の奥が焼けつくように痛み、呼吸は浅く、荒い。
肺に空気を押し込もうとするたび、胸の内側がきしむ。
それでも、立ち止まるという選択肢だけは、頭に浮かばなかった。
視界が揺れる。
滲んだ街灯や家並みが、流れるように後方へと置き去りにされていく。
足の感覚はとっくに薄れていた。
舗装路を蹴る衝撃が、膝から脊髄へと直に突き抜けてくる。
――やめろ。考えるな──
心臓の鼓動が、やけに大きく耳に響く。
嫌な想像が、振り払っても振り払っても、隙間から滲み出してくる。
──もし。
もし、本当に――
「……っ!!」
歯を食いしばり、実はさらに速度を上げた。
恐怖から逃げるように、あるいは恐怖へ向かうように。
どちらなのか、自分でも分からないまま。
ただ一つ確かなのは。
今、足を止めた瞬間に、すべてが終わってしまう気がしたことだけだった。
――ドゴォンッ!!
重低音が、住宅街の先から響いた。
踏み出しかけていた足の爪先が、宙でわずかに迷い、重力に引き戻される。
身体だけが惰性で前へ流れ、数歩よろめいてから、ようやくその場に踏みとどまった。
息が、詰まる。
耳鳴りのように、低い衝撃音の余韻だけが頭の中で反響し続けていた。
胸の奥を直接殴りつけてくるような、はっきりとした“破壊”の音。
喉が、ごくりと鳴る。
黒龍が、地面へ降り立った場所。
──僕の、家……?
いや、そんなはずない 。
違う。
気のせいだよ──
実はふらりと歩き出し、次の瞬間には小走りになっていた。
考えるより先に、身体は前へ進んでいく。
──そうだ。
もう、逃げているんだ。
少し離れてても、
同じ区で災害が起きているんだ。
もう逃げてるに決まってるよ。
お母さんは、察しがいい人だから。
花も、いつも冷静な子だから。
きっと逃げてるはずなんだ。
きっと。
きっと――
角を曲がる。
口元だけが、わずかに引き上がる。
どこか期待するように、その先へと目を向けた。
いつも日常があった場所。
そこに残っていたのは——
堂々と佇む黒龍。
片側だけ残った壁。
瓦礫の山。
そして。
瓦礫の下で転がる、一つの死体。
見覚えのある、白いシャツが、
赤く、染まっていた。




