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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
第2章 同時災害編

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第22話 縋る足音と血の香り

「なんだよ──おもんねぇな、お前」


 地面に突っ伏した実の背へ、黒龍は吐き捨てた。

 熱を帯びた吐息が、アスファルトをじりじりと焼く。


「お前さっき、俺を攻撃すんの躊躇したろ」


「っ!!」


 実の肩が、びくりと跳ねる。


「折角面白い能力してんだからよ」

焔堂は、心底つまらなさそうな声音で続けた。

「もっと本気で殺しに来いよ」


 巨大な首が下がり、黄金の瞳が実を捉える。


「あのなぁ、俺は人を大勢殺してんだぜ?」

「なのに、なんでお前は躊躇った?」


 実の指先が、地面を強く掴む。

 爪の間に砂が食い込み、乾いた音が鳴る。


 そのまま、奥歯を噛み締めた。


「引き金を引く覚悟がねぇ奴が」

 焔堂は低く唸る。

「俺に勝てる訳ねぇだろ」


 重い一言が、空気ごと叩きつけられる。


「それじゃ誰も守れねぇよ」


 その言葉は、刃物のように、実の胸に突き刺さった。


「あ、そうだ」


 焔堂は、ふと思い出したように零した。


「お前さっき、あっちの方、見たよな?」


 黒い首が、ゆっくりと横を向く。


 その先――住宅街。


 田中家のある方向。


 実の表情が、凍りつく。


「あそこらへんにさ」

 ドラゴンは、不敵に口角を吊り上げたような仕草を見せる。

「大事な人でも住んでんのか?」


「っ、やめ──」


 絞り出した声は、轟音に掻き消された。

 黒龍が羽ばたき、風圧と熱波を残して空へ舞い上がる。


 そのまま、住宅街の方向へ黒い災害が飛び立った。


「……っ!!」


 実は歯を食いしばり、跳ね起きる。

 足の痛みも、息の苦しさも無視して、走り出した。



 燃え盛る商店街。

 崩れ落ちた看板と、炎に包まれた路地。


 ツグミは宙を跳び、サラマンダーの背へと触れた。


「……99回目」


 呟いた瞬間、冷気が走る。

 だが、凍ることはなかった。

 代わりに立ち上るのは、白い蒸気だけ。


「……っ」


 次の瞬間。


 サラマンダーの背が、大きくうねった。


 熱を帯びた鱗が波打つように持ち上がり、

 ツグミの体が弾かれる。


 足場が崩れ、

 踏ん張る間もなく――


 振り落とされた。


 身体が地面を転がり、何度も跳ねる。


 やがて勢いが止まり、

 地面に手をつく。


 そのまま身体を起こし、立ち上がった。


 服は焼け焦げ、

 皮膚のあちこちに火傷が走っていた。


 腕から熱帯びた血が肌を伝う。


「そろそろかな……」


 ツグミは、何事もなかったかのように走り出した。

 一直線に、間合いを詰める。


 サラマンダーが口を開く。

 喉奥に、赤い炎が灯る。


 それでも、ツグミは止まらない。


  足を一歩、強く踏み込む。

 地面を蹴った反動で、前へと滑る。

 伸ばした腕が、熱気を切り裂くように進む。


 そのまま鼻先へ触れて、

 静かに告げた。


『氷葬連鎖』


 次の瞬間。


 これまで触れてきた体表の各所が、一斉に凍りつく。

 冷気が広がり、繋がり、連鎖する。


 サラマンダーは、瞬く間に動きを失う。

 口を開いたまま、炎を喉奥に残したまま、全身が白く閉ざされた。


「私の氷葬連鎖はね」

 少し距離を取り、ツグミは呟く。

「触れてきた全部を、同時に冷やすの」


 視線を動かさないまま、凍りついたサラマンダーへ言葉を向けた。


 だが──


 氷の内側から、赤い光が滲む。

 ひび割れ、溶け、熱が溢れ出す。


 凍結が、見る見るうちに崩壊していく。


「……やっぱり、そうなるよね」

 言葉のあと、喉の奥で息がほどける。

「火の精霊なだけはあるわ」


 氷が最後の膜のように剥がれ落ちる。

 閉じ込められていた赤い光が、外へと溢れ出した。


 「グギャアアアッ!!」

 怒りの咆哮。

 空気が震え、サラマンダーの巨体が前に沈み込む。


 燃えるような爪が振り上げられた。


 空気が沈む。

 

 影がツグミの身体を、丸ごと呑み込んだ。


 しかし。

 直後、振り上げた半身に亀裂が走る。

 音を立てて弾け、形を保てないまま崩れ落ちた。


 「グ、ギィ――アァァッ!!」

 裂けた喉から、濁った咆哮が噴き出す。

 途中で掠れ、砕けた音が混じったまま引き裂かれていく。


「ヒートショック現象」

 ツグミは淡々と告げる。

「急激な温度変化に、あなたの身体は耐えられなかった」


 一歩、近づく。


「いくらあなたが架空生物フィクションでも、現実のルール《この世界》には、抗えない」


  サラマンダーは、掠れた声を上げる。

 崩れた喉が震え、焼けた空気が途切れ途切れに漏れる。


 ツグミは倒れた身体に歩み寄る。

 足元に散った破片を踏み越え、腕を下ろす。

 指先を、ひび割れた体表に触れさせた。


「これで、とどめ――」


 しかし。


 次の瞬間。


 その身体が、内側から崩れる。

 輪郭がほどけ、赤い光の粒へと砕けていく。

 粒子は空中に、熱だけを残して霧散した。


「……え」


 まだ、とどめを刺していない。

 確かに、息もあった。


 視線がその場に止まる。

 口がわずかに開いたまま、動かない。

 頬を伝った汗が、顎先から落ちた。


「一体、なんで……」


 揺れていた空気が、ゆっくりと凪いでいく。


 商店街に、熱と静寂だけが、その場に残った。



 実は走り続けていた。

 空高く飛ぶ黒龍を追いかけて。


 いつもは静かな通学路。

 そこには、逃げ惑う足音と叫びが、絶え間なく続いていた。


――なんであいつは、

 僕を殺さなかったんだ。


 なんであいつは、

 簡単に人を殺せるんだ。


 なんであいつは、

 僕の家の方へ向かうんだ──


 眉を強く寄せたまま、足を止めない。


 喉の奥が焼けつくように痛み、呼吸は浅く、荒い。

 肺に空気を押し込もうとするたび、胸の内側がきしむ。

 それでも、立ち止まるという選択肢だけは、頭に浮かばなかった。


 視界が揺れる。

 滲んだ街灯や家並みが、流れるように後方へと置き去りにされていく。


 足の感覚はとっくに薄れていた。

 舗装路を蹴る衝撃が、膝から脊髄へと直に突き抜けてくる。


――やめろ。考えるな──


 心臓の鼓動が、やけに大きく耳に響く。

 嫌な想像が、振り払っても振り払っても、隙間から滲み出してくる。


──もし。


 もし、本当に――


「……っ!!」


 歯を食いしばり、実はさらに速度を上げた。

 恐怖から逃げるように、あるいは恐怖へ向かうように。

 どちらなのか、自分でも分からないまま。


 ただ一つ確かなのは。

 今、足を止めた瞬間に、すべてが終わってしまう気がしたことだけだった。


――ドゴォンッ!!


 重低音が、住宅街の先から響いた。


 踏み出しかけていた足の爪先が、宙でわずかに迷い、重力に引き戻される。

 身体だけが惰性で前へ流れ、数歩よろめいてから、ようやくその場に踏みとどまった。


 息が、詰まる。

 耳鳴りのように、低い衝撃音の余韻だけが頭の中で反響し続けていた。


 胸の奥を直接殴りつけてくるような、はっきりとした“破壊”の音。


 喉が、ごくりと鳴る。


 黒龍が、地面へ降り立った場所。


──僕の、家……?


 いや、そんなはずない 。


 違う。


 気のせいだよ──


 実はふらりと歩き出し、次の瞬間には小走りになっていた。

 考えるより先に、身体は前へ進んでいく。


──そうだ。


 もう、逃げているんだ。


 少し離れてても、

 同じ区で災害が起きているんだ。

 もう逃げてるに決まってるよ。


 お母さんは、察しがいい人だから。

 花も、いつも冷静な子だから。


 きっと逃げてるはずなんだ。


 きっと。


 きっと――


 角を曲がる。

 口元だけが、わずかに引き上がる。

 どこか期待するように、その先へと目を向けた。


 いつも日常があった場所。


 そこに残っていたのは——


 堂々と佇む黒龍。

 片側だけ残った壁。

 瓦礫の山。


 そして。


 瓦礫の下で転がる、一つの死体。


 見覚えのある、白いシャツが、

 赤く、染まっていた。

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