第21話 黒龍の嘲笑と躊躇う引き金
海沿いのビーチ。
波が砂浜を舐め、潮の匂いが風に混じっていた。
「はぁ……はぁっ……」
牧野は肩で息をしながら、背後を振り返る。
さっきまでそこにあった現災は、音もなく崩れ、光の粒子となって空へ溶けていった。
しばらくその場に立ち尽くし、呼吸を整える。
そしてポケットからスマホを取り出し画面を確認した。
「……駆除完了してるの、深海さんだけ……?」
画面に表示される名前を見て、牧野は眉をひそめる。
「誰かに加勢しに行きたいけど……」
「ここから一番近い東京第2は、ベテランの井川さんが対応中。それよりは……」
一瞬、迷う。
だが、すぐに画面をスクロールした。
「……現想災害、ドラゴン」
喉が鳴る。
「新人の子には、荷が重すぎるよね……」
牧野はスマホをしまい、バイクに跨った。
エンジンが唸りを上げ、砂を蹴散らす。
「みんな、無事でいて……!!」
バイクは海沿いの道を駆け出した。
◇
街は、すでに街ではなかった。
瓦礫、倒壊した建物、焼け焦げた道路。
黒く巨大な影が、その中心で悠然と動いている。
ドラゴン。
黒い鱗に覆われた巨体が、街を踏み潰し、引き裂いていた。
「やだ……やだよ……!!」
「逃げろっ!!早くっ!!」
「誰か……誰か助けてえ!!」
人々が叫び、泣き、必死に走る。
押し流されるような人の波の中で、
一人の女性の足先が、崩れた路面の段差に引っかかった。
重心が崩れる。
差し出した手は何も掴めず、そのまま路面に叩きつけられた。
「っ……!!」
乾いた音が、足音に紛れて消える。
腕で体を支え、起き上がろうとする。
だが、踏み込んだ足が滑る。
膝が沈み、体勢が整わない。
背後から、低い振動が重く響く。
アスファルトの細かな破片が、わずかに跳ねた。
振り返る。
影が差し込む。
路面に伸びていた影が、別の影に塗り潰されていく。
光が遮られる。
視界の上部を、黒いものが横切った。
輪郭が、近づくにつれて形を持ち始める。
そこには、迫り来る黒い巨影。
「あ……あぁ……」
後ずさろうとして、肘が路面を擦る。
体を起こしかけて、すぐに崩れる。
ドラゴンが、爪を振り上げた。
地面の砂塵が浮き上がる。
砕けた石片が、わずかに跳ねた。
空気が押される。
落ちてきた風が、髪と衣服を揺らす。
影が、視界いっぱいに広がる。
その瞬間。
女性の身体に、金色の帯が絡みついた。
ドラゴンの爪が届く。
まさに眼前で、横へと引きずられる。
爪は空を切り、地面を叩き割る。
ドラゴンが、引っ張られた先へと視線を向けた。
「怪我はないですか?」
そこには、女性を抱える少年──実が立っていた。
「は、はいっありがとうございます……」
「このまま、逃げてください」
女性は何度も頭を下げ、走り去った。
実はそれを見送り、ゆっくりとドラゴンへ向き直す。
(……こいつが)
視線が合う。
(現想生物、ドラゴン……)
互いに、動かない。
空気が張り詰める。
あまりにも大きい巨体。
見上げるだけで、喉が乾いた。
(……でか……)
ほんの一瞬、足が竦みそうになる。
実はわずかに眉をひそめ、確認するように視線だけを背後へ走らせた。
背後に広がる街。
夜の中に点る灯りの向こう、住宅地の一角。
視線が、無意識に“そこ”を探す。
(……無事だ。僕の家の辺りは)
胸の奥に溜まっていたものが、わずかに抜ける。
(……なんとか、間に合った)
もう一度、深く息を吸う。
そして実は、ゆっくりと顔を上げ――黒龍へと向き直った。
その時だった。
ドラゴンの口元が、わずかに裂ける。
ひび割れた器の縁がずれていくように、歯列が覗いた。
その形は、笑いに似ていた。
「――お前、現災署の隊員だろ?」
(……は?)
実の脳が、言葉を拒否する。
(今、ドラゴンが喋った……?)
次の瞬間。
「ギャハハハハッ!!」
甲高い笑い声と共に、ドラゴンの身体が崩れ始めた。
黒い巨体が縮み、歪み、形を変える。
やがてその場に立っていたのは、
腹を押さえ、体を折るように揺らす一人の青年だった。
「ハァ……ハァ……わりぃわりぃ。つい、嬉しくってよ」
青年は息を整えながら、ゆっくりと顔を上げる。
その視線が、実へと向く。
「まずは自己紹介だよな」
(……まさか)
青年は、あまりにも自然な調子で続けた。
「俺の名前は焔堂凶牙。歳は24。好きな食べ物は──」
淡々と語り出す青年。
だがその言葉は、実の意識に届かなかった。
(現想災害ドラゴンは、現想生物じゃない……)
実は、目の前の青年をじっと睨む。
(現想生装だ……!!)
(3年前の事件も、さっきまでの惨状も、全部この男が……?)
「──よしっ!!俺の自己紹介は終わりだな」
語り終えた焔堂は、楽しそうに首を鳴らした。
「ほら、お前の名前は?」
「……田中、実」
警戒していたはずなのに。
あまりにも普通に聞かれて、自然と答えてしまった。
焔堂の目が、愉悦に細まる。
「よしっじゃあ実!!」
一歩、こちらへ踏み出して。
「今から楽しく――」
笑顔のまま、実へ言い放った。
「殺し合おうぜ」
「っ!!」
反射的に、身構えた、次の瞬間。
青年の身体が、音もなく歪む。
皮膚が裂けるでもなく、骨が砕けるでもない。
ただ“上書き”されるように、その輪郭が膨張し、黒く、巨大な影へと変貌していく。
鱗。
爪。
翼。
街を覆い尽くすほどの黒龍が、そこに立っていた。
(ヤバイ……!!)
考えるより先に、影が動く。
実は腰元の金を引き抜き、即座に形状を構築した。
盾。
全身を覆うように展開された、分厚い金色の防壁。
──轟音。
黒龍の前脚が、盾ごと実を叩き飛ばした。
衝撃が、腕を貫き、内臓を揺さぶる。
「ぐっ……!!」
身体が宙を舞い、背中から地面に叩きつけられた。
転がる。
何度も。
何度も。
「が……っ、く……!!」
地面に身体を打ち付けるたび、肺から空気が漏れた。
口の中に、鉄の味が広がる。
額から、頬から、温かいものが流れ落ちた。
血。
視界が揺れる。
(……ダメだ、こんなのっ)
歯を強く食いしばり、黒い巨体を睨見つける。
(こんな奴放っといたら、街が全部っ……!!)
実は落ちた盾を拾いあげ、流れるように形を変えた。
今度は、槍。
先端が鋭く伸び、龍の胸元を狙う。
振り上げた槍の影が、視界を塞ぐ。
だが──
「……っ!!」
脳裏に、さっきまで笑っていた青年の姿がよぎった。
腹を抱えて、楽しそうに笑う無邪気な顔。
(……こいつが……?)
――踏み込みきれない。
本来なら突き込まれるはずだった穂先が、
わずかに軌道を外れた。
その瞬間。
黒い影が、間合いの内側へ滑り込む。
「っ!!」
黒い影が、視界を塞ぐ。
龍の尾が、横薙ぎに振るわれた。
鈍い衝撃が、腹部を打つ。
息が一気に押し出され、視界が揺れる。
実の身体が後ろへ弾き飛ばされ、
槍が、指先から離れた。
「……っ、が……」
指が、動かない。
呼吸が、浅い。
地面に突っ伏した実の背。
それを見下ろすように巨大な影が落ちた。
焔と煤を吐き出しながら、巨体のまま首を低く垂れ、冷え切った声音で、吐き捨てるように告げた。
「なんだよ。おもんねぇな、お前」
◇
──東京第2現災署。
建物は半壊し、内部にはゾンビが蠢いていた。
血と腐臭が混じる空間を、一人の少女がゆっくり歩く。
銃を片手に構えながら、淡々と呟き始めた。
「現想生装、猪八戒」
「体内に取り込んだ物を保持して、いつでもそのエネルギーを身体能力に変換できる能力」
パソコンの前で足を止め、少女はUSBメモリをポケットから取り出す。
そのままポートへと差し込み、画面を指し示すようにして口を開いた。
「正直、厄介な能力だし、現災署のベテランで、頭も回る」
くすりと、笑った。
「これは、ボーナスに期待できるな」
その視線の先。
そこには、ゾンビに群がられ倒れ伏す、
痩せ細った井川の姿があった。




