第20話 水底の死線と無言の凱歌
山間のキャンプ場。夜露に濡れた地面を、川の水音が切り裂く。
深海は無言のまま両手を川へと沈めた。
木の影から伸びた黒い触手が、半透明の塊へ叩きつける。
──ジュウウッ……
触手がスライムに触れた瞬間、触手が溶け落ちていく。
それと同時に、触手が溶けた熱と粘液の刺激が指先に伝わる。
じわりとした焼ける感覚が走った。
それでも、深海は構わない。
触手を次々と叩きつけていく。
スライムが弾け飛ぶ。溶解液を飛ばしながら形を崩す。
水面に反響する音も、指先に伝わる熱も、深海の心を揺るがすことはなかった。
ただひたすら、目の前の敵を叩き潰す──その一点だけを見据えて。
「ピギイイイッ!!」
雄叫びと共に半透明の塊が、深海に向かって飛びかかってきた。
深海が手を上げ、のけぞるようにして寸前でかわすと、触手はふっと姿を消した。
その光景を見て、スライム達の動きが変わる。
狙いを定めるように、一斉に深海へと向き直した。
「ピギイイイッ!!」
その瞬間、憤怒と本能が融合したかのように、深海へと体当たりを仕掛ける。
深海は素早く体をかわし、半透明の塊の突進を避けながら川の下流へと逃げていく。
迫るスライム達が溶解液を吐きながらその背を追った。
──現想生装『クラーケン』
手足を液体に沈めることで、沈めた指の本数だけ影や水面から触手を操れる。
だが、触手が受けた損傷はその指に共有される──
川幅が、急に狭まる。
岩肌に挟まれた水流が勢いを増し、轟音を立てて白く泡立っていた。
その先。
崖の縁から、水が一気に闇へと落ちている。
滝。
飛沫が霧のように舞い、夜の空気に細かな水滴が漂う。
濡れた岩肌は月明かりを受け、鈍く光っていた。
深海の靴底が、ぬめる岩を踏み鳴らす。
肩で息をしながらも、振り返らない。
川沿いを逃げ続ける。
何度も触手を放つ。
そのたびに指先へ焼けるような痛みが走った。
それでも足は止めない。
だが――
足元の水流が急に荒くなり、
耳を打つ轟音が一段と大きくなる。
行き止まり。
滝壺の縁だった。
その瞬間。
「ピギイイイッ!!」
半透明の塊が、背後から跳ね上がった。
深海へ向かって一直線に体当たりを仕掛ける。
ぬめる体表が月光を弾きながら、
眼前いっぱいに膨れ上がった。
──触手が受けた損傷はその指に共有される。
このデメリットを回避する大技が深海にはあった──
深海は寸前で、手を広げ、のけぞり避ける。
濡れた岩が足裏を滑り、重心が前へと崩れた。
次の瞬間。
身体は宙へ投げ出され、
轟く水煙の中へと吸い込まれるように落ちていった。
───バシャゴォッ
水しぶきが辺りを覆う。
滝の上。
半透明の塊たちが、縁に並ぶように集まり、
白く泡立つ水面をじっと覗き込む。
その視線は、水中に沈んだ深海へと向けられている。
轟く水音の奥、
霧のような飛沫の向こうに、
暗い水面が揺れている。
川底に沈んだ身体は、ピクリとも動いていない。
衣服が水流にゆっくりと揺れ、
長い髪だけが、黒い水の中でほどけるように漂っている。
それを見下ろしたまま、
半透明の塊たちはしばらく動かなかった。
やがて一つが、ぬるりと縁から身を離す。
それに続くように、一体、また一体と、
スライムたちは滝の縁からそっと身を引き始めた。
しかし。
──ブクブクッ
湖の中。
深海の身体を巨大な影が包み込む。
水面を切り裂くように、黒い触手が一本、また一本と現れる。
──グルグルッ……ゴボゴボッ……
水中の渦がうねり、
湖底の闇そのものが膨張するかのように形を変えていく。
やがて湖の底から、黒い巨大生物の輪郭がゆっくりと浮かび上がった。
──ザバアアンッ
長く伸びた二十本の触手。
それらは水中を縦横無尽に走る。
湖面を切るたび、水が持ち上がり、
いくつもの渦が湖をかき回すように巻き上がった。
触手は湖に沈む深海の身体を守るように取り囲み、
そのまま滝の上のスライムたちへと向けて広がる。
湖面から飛びてた黒い影は、
まるで湖そのものが生き物になったかのようだった。
滝の上のスライムたちを確実に見下ろすほどの巨体。
「ピギュッ」
半透明の塊たちは、その圧倒的な存在を前に動きを止めた。
ぷるりと体を震わせ、
小さく縮こまりながら見上げる。
──現想生装「クラーケン」の大技、『ディープ・ネプチューン』
全身を水に沈めている間。
現想生物クラーケンの全てを現想させ、その体を自在に操ることができる──
──ゴゴゴォンッ!!
振り下ろされた触手が、滝の縁をなぎ払った。
岩肌が砕け、水しぶきと共に石片が宙へ弾ける。
半透明の塊が、まとめて潰れる。
潰れた身体から溶解液が飛び散り、岩の上でジュウウッと白い煙を上げた。
──『ディープネプチューン』中の触手の損傷は深海に共有されない。
だが、深海は以前現想災害に巻き込まれた事で、脳の呼吸中枢に障害がある──
触手が数体のスライムに絡みつく。
ぬめる身体をきつく締め上げる。
そのまま力任せに引き裂いた。
裂けた身体から溶解液が飛び散る。
岩肌と触手の表面でジュウウッ……と音を立てた。
──深海の息を止められる時間は、たった15秒 ──
湖面が激しく暴れ狂う。
縦横無尽に走る触手が滝の上を薙ぎ払った。
半透明の塊がまとめて弾き飛ばされ、
岩肌に叩きつけられながら、
「ピギイイッ!!」
悲鳴を上げる。
水煙の向こうで、黒い触手がさらにうねる。
9。
──ズバアアアッ
クラーケンの巨大な口が水を大きく開き、
湖の水を一気に吸い上げた。
次の瞬間。
圧縮された水流が、砲撃のような勢いで吐き出される。
「ピギャアアッ!!」
半透明の体が大きく歪む。
水流に押し潰され、
塊ごと宙へ弾き飛ばされた。
そのまま滝の縁の岩へ叩きつけられ、
潰れた身体から溶解液が飛び散る。
湖面では、巨大な影がゆっくりとうねる。
深海はその間、
全身を水中へ沈めたまま、
限界まで息を止め続けていた。
水面には、ただ気泡だけが静かに浮かんでいく。
しかし。
滝の上。
クラーケンの前には、
まだ二体のスライムが残っていた。
滝の縁で、ぬるりと体を持ち上げて、
潰れた仲間の粘液を踏みながら、
ゆっくりと湖を見下ろしていた。
15。
──ザブブブッ
限界を迎え、深海の身体がびくりと震えた。
胸が強く収縮する。
肺が空気を求め、
身体は反射的に動いていた。
深海の腕が、水面へ向かって無意識にかき上げられる。
その動きが湖水を大きくかき乱した。
水が渦を巻き、
湖の中で水流が暴れ出す。
体を取り囲む水が騒ぎ立ち、
無数の気泡が浮かび上がった。
沈んだ身体を、
水面へ引き戻そうとする。
人間の生存本能。
しかし。
──グゴォッ
黒い触手が一本、水中に伸びる。
そのまま、深海の身体を押さえ込んだ。
水面へ浮かび上がろうとする体を、
触手の力で無理やり水底へ。
もがく腕が水を掻き、
水流がさらに暴れた。
それでも触手は離れない。
深海の身体を静かに、
確実に、
湖底へと沈めていった。
湖の中が、一瞬静まり返る。
次の瞬間。
滝の上。
クラーケンは、湖底から伸びた触手を大きく振り上げた。
「ピギイイイッ!!」
残る二体のスライムが叫び、溶解液を飛ばして反撃を試みる。
しかし、
触手は止まらない。
逃げ場も、猶予も与えず――
──グチャッ
滝の縁に、鈍い水音だけが残った。
砕けた体が形を失い、
粘ついた破片がゆっくりとほどけていく。
濁った液体が水に溶け、
暗い雲のように広がった。
やがて動くものはなくなり、
滝の上には、元の静けさが沈んでいた。
18。
倒し切った。
深海は、すぐ様触手の制御を解く。
だが、制限時間を超えた運用。
それにより、深海の身体はすでに限界を迎えかけていた。
身体の感覚が、一気に遠のいていく。
力が入らない。
水の冷たさ。重さ。
感覚が輪郭を失っていく。
思考がほどける。
視界の端がゆっくりと暗く沈む。
頭はすでに朦朧としていた。
意識が、
途切れる──
その直前。
一本の触手を、水の中で動かした。
深海の身体が、水中から一気に弾き出される。
水面が破裂するように弾け、
体が宙へと放り出された。
濡れた身体は回転しながら、滝の上空を越える。
そのまま、地面にびちゃりと叩きつけられた。
衝撃で体が跳ね、
濡れた地面をゴロゴロと転がる。
背中から地面に倒れ込み、
深海はしばらく動かなかった。
──フゥッ……フゥッ……──
鼻から荒い呼吸が漏れる。
息を吐き出すたび、激しい耳鳴りと共に胸が大きく上下した。
指先がわずかに静かに震える。
濡れた服の隙間から、冷たい空気が入り込む。
しばらくして、呼吸が少しずつ落ち着いていく。
深海はゆっくりと顔を横に向け、
スライムのいた方へ目を向けた。
さっきまで大量に蠢いていた影は、もういない。
崩れたスライムの残骸は、
淡い光の粒子となって空気に溶けていく。
川辺には何も残っていなかった。
「(`-ω-´)✧」




