第19話 捨て身の庇護と家路の背中
第2現災署――研究区画。
ガラスの割れた実験室に、異様な音が響いた。
「ぎゃあああああああっ!!」
ぐちゃり、と湿った音を立てて、倒れ込んだ研究員の肩に、別の人影が噛みついた。
「っ!!」
実は、手にした金をそのまま引き伸ばし、
ゾンビの腕と胴を絡め取るように拘束した。
伸びた金が、噛みついた“それ”の首と腕を絡め取り、力任せに引き剥がす。
金属がきしむ。
引き剥がされた体が、床へ重く叩きつけられた。
研究員の白衣は裂け、肩口から血が滲んでいる。
「大丈夫ですかっ」
実は倒れた研究員のそばへ駆け寄り、横へ膝をついて手を伸ばす。
だが――
「……ぅ、あ……」
研究員の喉から、声にならない唸りが漏れた。
焦点の合わない目が、ゆっくりと実を捉えた。
「え……?」
次の瞬間。
「――あ゛あああああッ!!」
叫び声とともに、研究員が跳ね起きた。
人とは思えない力で、実に噛みつこうとする。
「なっ――!!」
咄嗟に金を再びうねらせる。
形状を変えた金が、研究員の口元を覆い、猿ぐつわのように締め上げた。
歯が金属を噛み、ガチガチと嫌な音を鳴らした。
ゾンビ。
その言葉が、実の脳裏をよぎる。
「……まさか」
実が周囲を見渡す。
元からいたゾンビ達の他に──
白衣姿の“人影”が現れていた。
ひとり、ふたり……。
その全てが、同じように歪んだ動きでこちらを向いていた。
「……くっそ!!」
◇
一方――実と少し離れた場所で。
「はああああ!!」
井川の拳が唸りを上げる。
重い一撃を、少女の元へ叩き落とす。
地面が大きな音をたててひび割れた。
だが、手応えはない。
少女は、いつの間にか少し離れた場所に立っていた。
肩をすくめるような仕草の途中で、
何もない壁へ、ちらりと視線を流す。
そして次の瞬間には、何事もなかったかのように、すぐ井川へと顔を向け直した。
井川はすぐ様飛びかかる。
拳が、再び唸りを上げる。
床が砕け、コンクリート片が跳ねた。
少女は、また別の位置にいる。
その合間にも、
意味もなさそうに柱や壁へと目をやり――
直後には、必ず井川を正面から見据えていた。
破壊されていくのは、周囲ばかり。
少女の体には、依然として触れられない。
「滑稽ねぇ」
少女がクスクスと笑った。
井川の肩からは血が滲んでいた。
動くたびに、じわりと熱が走り、赤が滴り落ちる。
「必死に頑張ってるって、いってちょうだい」
井川は顔を歪め、歯を食いしばる。
痛みを振り払うように、一歩踏み込み――
再び、拳を振るった。
◇
研究室。
ゾンビたちが、一斉に実へと殺到する。
「……っ、ふざけるな」
喉の奥で、低く言葉を噛み潰す。
歯を食いしばり、視線を逸らさない。
金が、次々と形を変える。
腕を振るたび、延びた金属が瞬時に形を変える。
刃、杭、そして重たい槌のような塊。
噛みつこうとした一体の頭部を、横薙ぎの一撃が粉砕した。
続けざまに突き出された金属の槍が胸を貫く。
一体、また一体と。
悲鳴が上がる前に、床へと叩き伏せる。
だが――。
「……っ」
白衣を着たゾンビを前に、
実の指先が、ほんの一瞬だけ止まった。
研究員。
さっきまで、ここで働いていた人たち。
歪んだ顔。
それでも、どこか人間の面影が残っている。
「く……」
その刹那。
「があああっ!!」
腕を伸ばしたゾンビが、実の首元に迫った。
「っ」
実は咄嗟に両腕を突き出し、腐った肩口を押さえつける。
生温かい体重がのしかかるが、力いっぱい押し返しながら後ろに飛びのく。
無理矢理ゾンビとの距離を確保した。
離れたゾンビの虚ろな瞳には、まだ実を見据えている。
そのとき――
『実っ!!』
研究室に、通信音が響いた。
「狩野さん!?」
実は傍らの端末に視線を向ける。
『状況はツグミから聞いてる。だが、こっちでさらにヤバいことが起きた』
スピーカー越しに聞こえる狩野の声は、いつになく硬かった。
『武蔵市に……ドラゴンが現れた』
「!!」
一瞬、実の、思考が止まった。
──現想生物ドラゴンは、
当時駆けつけた隊員を全滅させた──
狩野の言葉が、脳裏をかすめる。
だが、それだけじゃない。
実が息を呑んだ理由は、
ドラゴンという単語だけじゃなかった。
武蔵市。
聞き慣れすぎていた。
毎日、帰っている場所。
地図を見なくても、目を閉じても辿り着ける区域。
家がある。
母がいて、妹がいて、
「今日も変わらないはずだった」生活がある場所。
『俺の能力は夜しか使えねぇ。今行っても役に立たない』
『ツグミも深海も手が回せない』
『だから――実か、井川さんに頼みたい』
狩野の言葉は、実の意識に届かなかった。
音として耳に入ってはいるが、意味を結ぶ前に弾かれていく。
実の口が、無意識に動いた。
「かあさん……はな……」
誰に向けたものでもない呟きだった。
その瞬間。
白衣のゾンビが、眼前まで迫っていた。
濁った目が、実だけを捉え、
裂けた口が、歯を剥き出しにして開く。
「あ」
生臭い息が、顔にかかった。
「間に合わ――」
──ドンッ!!
その瞬間。
視界の横合いからでてきた拳が、ゾンビの顔面を、吹き飛ばした。
実は咄嗟に拳を目で追う。
重い拳がゾンビの頭部が壁に叩きつけられ、嫌な音を立てて潰れた。
井川が赤く染まった拳を引き離す。
実は、喉まで詰まっていた息を、ようやく吐き出した。
首元を掠めた恐怖が、遅れて身体を震わせる。
「実ちゃん……」
拳を握ったまま、井川が低く声をかける。
「ここは、私に任せなさい」
「っでも……」
実は、荒く息を吐きながら、
視線だけを通路の奥へと向けた。
少女は、にやにやと笑いながら、
指先で拳銃をカチャカチャと弄んでいる。
「あなた、ゾンビ化した子を殺すのを躊躇ったわね」
静かな声。
責めるでもなく、確信だけが音に滲んでいた。
「っ……」
実は、答えられない。
迷ったわけじゃない。
考えたわけでもない。
ただ、できなかった。
俯く実を横目にやりながら、井川は一歩前へ出る。
「私が残る方が、最適よ」
少女の気配。
蠢くゾンビ。
崩れかけた研究室。
それらすべてを前から受けるように、井川は立つ。
「……」
実の喉が、乾いた音を立てる。
「行きなさい、時間がないわ!!」
叩きつけるような声。
命令であり、引き受けるという宣言に聞こえた。
「……ごめんなさいっ」
実は歯を食いしばり、
少女のさらに奥にある扉へと駆け出した。
床を蹴る音が、通路に鋭く響く。
向かってくる実に、少女が銃口を向ける。
黒い穴が、まっすぐこちらを捉えた。
だが――
「はああああ!!」
飛びかかった井川の一撃。
次の瞬間、少女はその場から消え、
叩きつけられた地面だけが、無残に崩れ落ちる。
破片が跳ね、粉塵が舞い上がった。
その衝撃を背に実は、扉に手を掛け――
そのまま勢いよく、押し開いた。
重い蝶番が軋む。
背後の音も、声も、振り返らない。
そのまま、ドアの向こうへと走り出した。
足音が遠ざかり、
重い扉が閉まる音が、通路に短く残る。
それを、少女はちらりと目で追った。
そして、興味を失ったように視線を切り、
真正面に立つ井川へと向き直る。
肩を落とし、少女が、はぁ、と露骨にため息をついた。
「デブババア」
呆れきった視線で、井川を見下ろす。
「本当に、一人で勝てると思ってんの?」
井川の背後では、
唸り声を上げるゾンビたちが、じりじりと距離を詰めていた。
そして正面には、銃を構えた少女。
「勝てるかどうかは、関係ないのよ」
井川は、わずかに口元を緩めた。
一度だけ振り返り、
白衣をまとったゾンビたちを視界に収める。
呻き声が喉の奥で押し殺されている。
歪んだ唇が、金属の隙間からかすかに動き、
言葉にならない音だけが漏れている。
金は、まるで壊れ物でも扱うように、口元だけを塞いでいた。
「おばちゃんはね、若い子が、苦しむのを――」
井川はゆっくり、少女へと向き直る。
「見たくないのよ」
「……なにそれ」
少女は、鼻で軽く笑った。
「キモッ」
軽い金属音が鳴る。
少女は、何の躊躇もなく銃口を井川へ向けた。
──バァン。




