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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
第1章 現災署加入編

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第16話 橘──と五影の暗躍 ②

──それ以来、想は研究所に姿を見せなくなった。

 家から一歩も出ず、カーテンも閉め切ったまま。

 椅子に座っても、床に座り込んでも、

 身体はほとんど動かなかったらしい。


 生きているのかどうか、

 外からでは分からない。

 そんな日々が、ただ続いて。


 そして、突然。


 その日がやってきた──


 玄関で、想は靴を履いた。

 それはまるで、何事もなかった頃と同じ

 いつもの朝の続きのような仕草だった。


 ドアノブに手をかける、その背中に。


「兄貴、研究所、行くの?」


 弟が、恐る恐る声をかけた。


「……あぁ」


 想は振り返って、そう答えた。


 その顔は、不思議なほど穏やかで。

 何かを諦めたようで、

 それでいて、何かを掴んだようでもあった。


 想を見送ってから、しばらく。


 玄関に残った弟は、閉まりきらないドアを、ぼんやりと見つめていた。


 胸の奥に残る、言いようのない違和感。

 それを振り払うように視線を逸らし、

 ふと、玄関脇の机に目を向ける。


「……あ」

「兄貴、財布忘れてる」



 研究所。


 人の気配はなく、

 機械の駆動音すら途切れた空間は、

 まるで時間そのものが止まったかのようだった。


 消し忘れた蛍光灯が一灯だけ白く瞬き、

 床には散乱した資料と、

 倒れた椅子の影が歪に伸びている。


 埃と、焦げたような薬品の匂い。

 人がいた痕跡だけが、妙に生々しく残っていた。


 その静寂を破るように、

 弟が、研究所のドアを押し開けた。


 その瞬間。


 弟の視界に飛び込んできたのは、

 あり得ない光景だった。


 資料が宙を舞っている。


 紙も、機材も、床から剥がれたように浮かび上がり、

 重力が、逆向きに働いているかのようだった。


 そして、その中心で。


 橘想が、ゆっくりと「上」に落ちていた。


「っ!?……あにき──」


──弟が叫んだ時には、もう遅かった。


 橘想は何もない宙に、


 ぽちゃん。


 水面に落ちるような音を残して、


 この現実から消えた。


 その瞬間の、想の顔は、


 どこか、救われたように見えたそうだ──



「……これがこの世界に“現想”って現象が現れるようになった原因だ」


 狩野の話を聞き終えても、実は言葉を返せなかった。

 その場に立ち尽くしたまま、視線だけが宙を彷徨う。


 しばらくしてから、ようやく口を開いた。


「……あの。話が随分具体的だったように感じました……もしかして」


「……あぁ」


 狩野は、短く頷く。


「報告書を書いたのは"橘想の弟"だ」


 実は、それ以上何も言わなかった。


 報告書の作成者。

 その名を見つめる。


 それ以上、確かめる必要がなかった。



 防災省・最上階。


 街を見下ろす高さに設えられた一室は、

 無駄な装飾の一切ない、異様なほど静かな空間だった。

 分厚い防弾ガラスの向こうに、夜の都市が広がっている。


 コンコンッ、と短いノック音。


「入れ」


 低く、抑揚のない声。

 それだけで、部屋の空気が一段張り詰める。


「失礼しま〜す」


 だらけた調子の声とともに、男が入室した。

 この場に似つかわしくない軽さで。


 広いデスクの向こう。

 革張りの椅子に深く腰掛けた影が、

 書類から目を離さずに男を迎える。


「先日、お前からもらった報告書の件だ」

「詳しく話を聞きたい」


 デスクの向こうから、影の視線が青年へ向けられる。


「東京現災署署長──"橘 護"」


「フルネームで呼ぶの、やめてくださいよ」


 軽く肩をすくめて、護は言った。

 

 場の重さを誤魔化すような、いつもの調子。


「兄の罪の贖罪で現災に入ったお前が、今さら姓を否定するのか」


 低く、突き刺すような声。


 護は一瞬だけ言葉に詰まった。


 ほんのわずか眉を寄せ、視線を逸らす。


 小さく、短い吐息。


 護は背もたれに身体を預け、

 感情を切り離すように視線を戻した。


「……報告書の件で呼んだんですよね」

「何が聞きたいんですか」


 護は、いつもの調子でそう切り出した。


 相手の反応を窺うこともなく、

 話はそのまま本題へ移る。


「まず、お前の報告にあった少年について聞きたい」


 低い声が、室内の空気を切る。


 護は一度だけ息を吐き、すぐに言葉を返した。


「……その少年は、ゾンビ災害の際に現れました」


 報告書を読み上げるような、抑揚の少ない口調で続ける。


「状況的に関与の可能性を疑いがあった為、その報告書を提出」


「以降彼にスカウトという形で接触し、今日に至るまで継続して監視を続けてました」


「……ただ、断定はできませんが、彼は恐らくシロ」


「監視中特筆すべき行動はなく、彼を起点とした現災発生も確認されていない」


「スカウト時に現想についても一通り説明しましたが、反応を見る限り、本当に何も知らない様子でした」


 室内に短い沈黙が落ちる。

 防弾ガラスの向こうで、夜の街の光が静かに瞬いている。

 窓の外を走る車の灯りが、細い光の線を引いた。


「……なるほどな。ではなぜ、この仮説に至った」


 向こうから簡潔な問いが飛んでくる。

 護はすぐに口を開いた。


「現想災害の発生頻度が、ここ最近になって、無視できないレベルまで来ています」


「直近一ヶ月。ウチの管轄だけでみても――」


「ゾンビ、サラマンダー、スライム、応声虫、亜空間。五体の現想災害が発生しています」


「いくら現災が人の密集する場所ほど発生しやすいとはいえ、この発生頻度は説明がつかない」


 デスクの向こうの影が、静かに息を吐いた。


「……それだけか?」


 室内に短い沈黙が落ちる。

 影は視線を落とし、手元の書類を一度だけ通すように眺めた。


「状況は整理できたが、いささか根拠が薄いな」


 書類がデスクに置かれる。

 その上から、影の視線が護へ向いた。


「結論に至るには、早すぎるように感じるが?」


 護は視線を逸らさない。


「俺の考えは、変わりません」


「人為的に現想災害を起こしている人間がいるはずです」



 崩れかけたビル群。

 剥き出しの鉄骨が月明かりを反射し、風が瓦礫を転がしていた。

 月光が5人の人影を映し出す。


「かはっ……」

 乾いた笑いが空気に漏れだす。

 瓦礫の上に立つ青年が、抑えきれない昂揚を滲ませた声で続けた。

「ついに……ついに暴れられんのか!!」


「暴れることが目的じゃないわよ」

 少し離れた場所で、腕を組んだ少女が冷たく言い放つ。

 その声には、熱も期待もなかった。


「何がそんなに嬉しいんだか」

 別の青年が、両手を頭の後ろで組みながら、気だるそうに肩をすくめる。


「三年も待ってたんだ」

 最初の青年は振り返り、噛みしめるように言った。

「嬉しいに決まってんだろ?」


 そのやり取りを、

 背後で一言も発さず見つめる黒いロングコートを羽織った青年がいる。

 月明かりの影が、その表情を隠していた。


「……明日だ」

 一番年長に見える青年が静かに口を開く。

「作戦通りに行く」


 それだけ告げると、

 彼を残し、他の面々は何も言わずに廃墟を後にした。


 風の音だけが、

 取り残された空間に、いつまでも響いていた。

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