第16話 橘──と五影の暗躍 ②
──それ以来、想は研究所に姿を見せなくなった。
家から一歩も出ず、カーテンも閉め切ったまま。
椅子に座っても、床に座り込んでも、
身体はほとんど動かなかったらしい。
生きているのかどうか、
外からでは分からない。
そんな日々が、ただ続いて。
そして、突然。
その日がやってきた──
玄関で、想は靴を履いた。
それはまるで、何事もなかった頃と同じ
いつもの朝の続きのような仕草だった。
ドアノブに手をかける、その背中に。
「兄貴、研究所、行くの?」
弟が、恐る恐る声をかけた。
「……あぁ」
想は振り返って、そう答えた。
その顔は、不思議なほど穏やかで。
何かを諦めたようで、
それでいて、何かを掴んだようでもあった。
想を見送ってから、しばらく。
玄関に残った弟は、閉まりきらないドアを、ぼんやりと見つめていた。
胸の奥に残る、言いようのない違和感。
それを振り払うように視線を逸らし、
ふと、玄関脇の机に目を向ける。
「……あ」
「兄貴、財布忘れてる」
◇
研究所。
人の気配はなく、
機械の駆動音すら途切れた空間は、
まるで時間そのものが止まったかのようだった。
消し忘れた蛍光灯が一灯だけ白く瞬き、
床には散乱した資料と、
倒れた椅子の影が歪に伸びている。
埃と、焦げたような薬品の匂い。
人がいた痕跡だけが、妙に生々しく残っていた。
その静寂を破るように、
弟が、研究所のドアを押し開けた。
その瞬間。
弟の視界に飛び込んできたのは、
あり得ない光景だった。
資料が宙を舞っている。
紙も、機材も、床から剥がれたように浮かび上がり、
重力が、逆向きに働いているかのようだった。
そして、その中心で。
橘想が、ゆっくりと「上」に落ちていた。
「っ!?……あにき──」
──弟が叫んだ時には、もう遅かった。
橘想は何もない宙に、
ぽちゃん。
水面に落ちるような音を残して、
この現実から消えた。
その瞬間の、想の顔は、
どこか、救われたように見えたそうだ──
◇
「……これがこの世界に“現想”って現象が現れるようになった原因だ」
狩野の話を聞き終えても、実は言葉を返せなかった。
その場に立ち尽くしたまま、視線だけが宙を彷徨う。
しばらくしてから、ようやく口を開いた。
「……あの。話が随分具体的だったように感じました……もしかして」
「……あぁ」
狩野は、短く頷く。
「報告書を書いたのは"橘想の弟"だ」
実は、それ以上何も言わなかった。
報告書の作成者。
その名を見つめる。
それ以上、確かめる必要がなかった。
◇
防災省・最上階。
街を見下ろす高さに設えられた一室は、
無駄な装飾の一切ない、異様なほど静かな空間だった。
分厚い防弾ガラスの向こうに、夜の都市が広がっている。
コンコンッ、と短いノック音。
「入れ」
低く、抑揚のない声。
それだけで、部屋の空気が一段張り詰める。
「失礼しま〜す」
だらけた調子の声とともに、男が入室した。
この場に似つかわしくない軽さで。
広いデスクの向こう。
革張りの椅子に深く腰掛けた影が、
書類から目を離さずに男を迎える。
「先日、お前からもらった報告書の件だ」
「詳しく話を聞きたい」
デスクの向こうから、影の視線が青年へ向けられる。
「東京現災署署長──"橘 護"」
「フルネームで呼ぶの、やめてくださいよ」
軽く肩をすくめて、護は言った。
場の重さを誤魔化すような、いつもの調子。
「兄の罪の贖罪で現災に入ったお前が、今さら姓を否定するのか」
低く、突き刺すような声。
護は一瞬だけ言葉に詰まった。
ほんのわずか眉を寄せ、視線を逸らす。
小さく、短い吐息。
護は背もたれに身体を預け、
感情を切り離すように視線を戻した。
「……報告書の件で呼んだんですよね」
「何が聞きたいんですか」
護は、いつもの調子でそう切り出した。
相手の反応を窺うこともなく、
話はそのまま本題へ移る。
「まず、お前の報告にあった少年について聞きたい」
低い声が、室内の空気を切る。
護は一度だけ息を吐き、すぐに言葉を返した。
「……その少年は、ゾンビ災害の際に現れました」
報告書を読み上げるような、抑揚の少ない口調で続ける。
「状況的に関与の可能性を疑いがあった為、その報告書を提出」
「以降彼にスカウトという形で接触し、今日に至るまで継続して監視を続けてました」
「……ただ、断定はできませんが、彼は恐らくシロ」
「監視中特筆すべき行動はなく、彼を起点とした現災発生も確認されていない」
「スカウト時に現想についても一通り説明しましたが、反応を見る限り、本当に何も知らない様子でした」
室内に短い沈黙が落ちる。
防弾ガラスの向こうで、夜の街の光が静かに瞬いている。
窓の外を走る車の灯りが、細い光の線を引いた。
「……なるほどな。ではなぜ、この仮説に至った」
向こうから簡潔な問いが飛んでくる。
護はすぐに口を開いた。
「現想災害の発生頻度が、ここ最近になって、無視できないレベルまで来ています」
「直近一ヶ月。ウチの管轄だけでみても――」
「ゾンビ、サラマンダー、スライム、応声虫、亜空間。五体の現想災害が発生しています」
「いくら現災が人の密集する場所ほど発生しやすいとはいえ、この発生頻度は説明がつかない」
デスクの向こうの影が、静かに息を吐いた。
「……それだけか?」
室内に短い沈黙が落ちる。
影は視線を落とし、手元の書類を一度だけ通すように眺めた。
「状況は整理できたが、いささか根拠が薄いな」
書類がデスクに置かれる。
その上から、影の視線が護へ向いた。
「結論に至るには、早すぎるように感じるが?」
護は視線を逸らさない。
「俺の考えは、変わりません」
「人為的に現想災害を起こしている人間がいるはずです」
◇
崩れかけたビル群。
剥き出しの鉄骨が月明かりを反射し、風が瓦礫を転がしていた。
月光が5人の人影を映し出す。
「かはっ……」
乾いた笑いが空気に漏れだす。
瓦礫の上に立つ青年が、抑えきれない昂揚を滲ませた声で続けた。
「ついに……ついに暴れられんのか!!」
「暴れることが目的じゃないわよ」
少し離れた場所で、腕を組んだ少女が冷たく言い放つ。
その声には、熱も期待もなかった。
「何がそんなに嬉しいんだか」
別の青年が、両手を頭の後ろで組みながら、気だるそうに肩をすくめる。
「三年も待ってたんだ」
最初の青年は振り返り、噛みしめるように言った。
「嬉しいに決まってんだろ?」
そのやり取りを、
背後で一言も発さず見つめる黒いロングコートを羽織った青年がいる。
月明かりの影が、その表情を隠していた。
「……明日だ」
一番年長に見える青年が静かに口を開く。
「作戦通りに行く」
それだけ告げると、
彼を残し、他の面々は何も言わずに廃墟を後にした。
風の音だけが、
取り残された空間に、いつまでも響いていた。




