第15話 橘想と狂慕の三年 ①
東京現災署。
フロアにはキーボードを叩く乾いた音だけが、規則正しく流れていた。
狩野と実は並んで机に向かい、それぞれの端末に視線を落としている。
「……ふと、思ったんですけど」
沈黙を破ったのは、実だった。
「なんで銃とか使わないんですか?」
「現想使わなくても、軍隊とかなら勝てそうですけど」
狩野は画面から目を離さないまま、軽く息を吐く。
「あーそれな、俺も最初はそう思ったわ」
指だけは止めずに、淡々と続ける。
「現想ってのは、俺たちより上の次元の存在なんだってよ」
「あっちからこっちには干渉できるけど、こっちからあっちには、基本的に干渉できねぇ」
「だからまあ、やっぱ共通する対処法はねえってことだな」
「なるほど……現災に共通点って本当に全くないんですか?」
「いや、一応あるぞ。狼男とか雪女とか、誰かと繋がってるフィクションは災害化してねえってだけだけど」
「……はえー」
実は、間の抜けた相槌とキーボードを打った。
あの夜。
狩野から現想災害ドラゴンの話を聞いてから。
実は、現想という存在を「対処するべきもの」から「知るべきもの」へと、少しずつ認識を変えていた。
知らなければ、対処のしようもない。
せめて理解だけでも追いついていなければ、同じ場所に立つことすらできない。
そんな思考が、自然と指を動かしていた。
「……よしっ」
小さく声を上げる。
画面には、応声虫案件の報告書が整然と並んでいた。
椅子に深くもたれ、軽く伸びをする。
軋む背中を誤魔化すように、実はファイルを保存した。
コピー先のフォルダを開いた、その時だった。
ずらりと並ぶ、無数の現想案件報告書。
その中で、ひとつだけ視線を引く名前があった。
「……橘想」
思わず、声に出る。
――『橘想ってやつ、知ってるか?』
以前、狩野にそう聞かれたことを思い出した。
「狩野さん、これって……」
実は画面を指差す。
「ん?」
狩野が席を立ち、実の背後に回り込む。
モニターを一瞥して、すぐに理解したようだった。
「あー……そういえば、言ってなかったか」
軽い調子のまま、少しだけ言い淀んだ。
「橘想。そいつが、現想災害の元凶だよ」
「……え?」
実の指先が、わずかに震える。
「現実から、自分の意思でFICTIONに落ちた――そんな前代未聞のやつだ」
◇
──俺が、今から話すのは、
あくまで報告書を通して知った話だ。
どこまで正確かは、正直わからない。
そのつもりで聞いてくれ。
橘想って男は、
元々は、真面目な研究者だったらしい。
両親は、数年前に交通事故で亡くなっていて、
弟と二人きりで暮らしていたそうだ──
8年前。
研究室。
書類と資料が雑然と積み上がった、よくある大学の一室。白い蛍光灯の下、机の上には開きっぱなしのノートと数式の走り書きが重なり、パソコンのファンが低く唸っている。
「兄貴ー。可愛い弟が、家にあった資料持ってきてやったぞ〜」
扉が開き、紙の束が軽く揺れる。
「お、ありがとう。そこ置いといてくれ」
橘想は画面から目を離さないまま答えた。キーボードを叩く指だけが、止まらずに動き続けている。
「想くん、また?」
隣で資料をめくっていた椎名灯が手を止め、わずかに眉を寄せた。
「……すまん。次から忘れないよう気をつける」
橘想は一瞬だけ視線を横へ逸らし、すぐに画面へ戻す。
「違う」
灯は小さく首を振る。
「また、パシリみたいに使ってることに怒ってるの」
「──くん、ほんといつもごめんね」
「いいんですよ、いつものことなんで」
弟は笑って肩をすくめ、持ってきた資料を机の端に滑らせた。山積みの紙が少しだけ崩れる。
「兄貴は俺がいないとダメなんだよね〜」
「……すまん」
橘想は小さく息を吐き、わずかに眉をひそめた。
「てか兄貴たち、今なに研究してるんだっけ」
「ん、ああ」
橘想はようやく手を止め、椅子をわずかに回す。
「人の記憶や思考が、集合的無意識概念で繋がっているという仮説を立ててだな、
その立証に必要な――」
「想くん、また説明じゃなくて詠唱になってる」
灯がくすっと笑う。指先でペンをくるりと回した。
「やっぱ何言ってるかわかんね〜」
「そうか」
橘想は少し考え、顎に指を当てる。
「じゃあ分かりやすい例で言うと、デジャヴという現象が――」
「はいはい、また詠唱が始まった」
灯が笑いながら言葉を挟む。
蛍光灯の下で、三人の声だけが軽く弾んでいた。
──既視感。オーパーツ。
説明のつかない共通体験や、時代錯誤の産物。
それらが生まれる理由は、人類の集合的無意識から情報が漏れ出しているからではないか。
橘想は、そう仮説を立てて、独自に研究を進めていたらしい。
研究自体は順調で、
存在の証明まで、あと一歩のところまで来ていた。
だが、
その一歩が、どうしても届かなかった──
「……灯さん、毎回兄貴に付き合わせてすみません」
ドアのそばで立ったまま、弟は軽く頭を下げた。手にはさっきまで抱えていた資料の束。その端が少しだけ床に触れている。
「ううん」
椎名灯は、机の横に腰を預けたまま首を振る。白衣の袖が机の角に触れ、紙の山がわずかに揺れた。
「大丈夫だよ。私が好きでいるんだから」
柔らかく落ちた声に、部屋の空気が少しだけ緩む。
橘想は資料に落としていた視線を上げる。ペン先が止まり、インクが紙に小さな点を作る。
何も言わないまま、視線だけが灯へ向く。
ほんの一瞬、口元がわずかに動いた。
「じゃ、俺はそろそろこの辺で」
弟が背を向け、ドアノブに手をかける。
「お熱い二人の邪魔するのもアレなんでね〜」
振り返らずに投げた言葉に、
「ふふっ、お熱い二人だって」
灯がくすっと笑う。肩がわずかに揺れる。
「……?」
橘想は、灯と弟を見比べる。わずかに眉が寄る。
数秒だけ考え込んだあと、
「体温なら、さっき測ったが」
「いつもと変わらなかったぞ……?」
沈黙が落ちた。
灯の笑みが止まり、弟の手もドアノブの上で固まる。
「……」
空気だけが、微妙にずれる。
「あれ、弟くん来てたんすか」
半分だけ開いたドアの隙間から、ひょいと顔が差し込まれた。
橘想の後輩の青年──爆谷は、肩でドアを押し広げながら中に入り、視線をぐるりと回した。
「はい。今、帰るところで」
弟が答えると、
「そっすかそっすか」
爆谷は白衣のポケットに手を突っ込みながら、橘想の横をすり抜ける。
「いやー、忘れん坊の兄ちゃん持つと、辛いっすね〜」
軽い調子で言いながら、ちらりと横目で橘想を見る。
橘想は一瞬だけ視線を返し、すぐに逸らした。
「じゃあ……もう忘れない」
ぽつりと落ちる声。
机の端に置いた指先が、わずかに動く。
「想くん」
灯が名前を呼ぶ。
少しだけ身を乗り出し、橘想の視界に入るように顔を傾ける。
「出来ないこと、言わない」
言葉のあと、くすっと笑う。
「大体ね、想くんは忘れん坊なところが可愛いんだから」
そのひと言で橘想の動きが止まる。
視線が宙で一瞬迷い、それから横へ逃げた。
「……」
喉がわずかに鳴る。
息を吐いて、椅子の背に軽く体重を預けた。
「……俺を子供扱いするの、お前らくらいだぞ」
そう言いながらも、その口調に本気の不満はなく、
研究室の空気は、どこか穏やかだった。
──研究は完成しなくとも
橘想は何も焦っていなかったらしい。
弟と恋人と部下に支えられて、
なんだかんだ楽しくやっていたからだろうな。
でも、
その平和は、長くは続かなかった──
◇
豪雨の夜だった。
救急外来の自動ドアが、叩きつけるように開く。
吹き込んだ雨が床に広がり、光をにじませた。
ストレッチャーの車輪が、水を引きずる。
濡れた床を裂くような音が、廊下に長く尾を引いた。
「……灯っ……灯っ!!」
橘想が、もつれる足で追う。
伸ばした手が、白いシーツの端に触れかけて、届かない。
血が、指先から滴る。
シーツの下の彼女は微動だにしない。
わずかな揺れすら、返ってこない。
「付き添いの方、下がってください!!」
腕を掴まれる。
強く引かれて、距離が開く。
「処置室、準備できてます!!」
担架が加速していく。
角を曲がる直前、シーツの端がふっと揺れて、
消えた。
「待ってくれ……」
声は追いつかない。
足が止まる。
水を踏む音だけが、遅れて響く。
気づけば、廊下の影は一人分だけになった。
開いたままの自動ドアから、雨音だけが流れている。
それ以外、何もなかった。
──橘想を壊したのは、
この世界にありふれた、ただの交通事故だった。
酔っぱらい運転による轢き逃げ。
豪雨で視界の悪い帰り道、
それは、何の前触れもなく二人を襲った。
後日。
ニュースは淡々とこう告げたそうだ。
加害者は、取り調べ中に自殺、と──
◇
病室は、静かすぎるほど静かだった。
消毒液の匂い。
規則正しく鳴る、心電モニターの電子音。
橘想が見上げる先には、
どこまでも白い天井が広がっている。
「……灯?」
かすれた声で、名前を呼ぶ。
ベッドに横たわる彼女は、目を閉じたまま動かない。
包帯に覆われた頭部。
点滴の管。
機械に繋がれた細い腕。
返事はなかった。
瞬きひとつ、指先の震えひとつない。
想の肩が、ゆっくりと落ちた。
そのまま椅子に腰を落とし、両手で顔を覆う。
指の隙間から、かすかな声が漏れた。
胸が不規則に上下し、呼吸がはっきり乱れている。
「兄貴……」
背後からの細い声。
振り返らないまま、想はただ首を垂れる。
椎名灯は、
遷延性意識障害。
いわゆる、植物状態になっていた。
◇
橘想は、感情の抜け落ちた声で、
淡々と研究だけを続けるようになった。
研究室の明かりは、昼夜を問わず灯り続けている。
「……爆谷」
低い声で名を呼んだ。
「このデータ、三箇所ズレてる。仮定条件が甘い。そのまま進めたら、全部無意味になる」
机の上の資料を指でなぞりながら、
一つ一つ、静かに指摘していく。
「修正しろ。今すぐ。時間がない」
「いや、橘っち……俺っちも徹夜で――」
「関係ない」
言葉を切るように、遮った。
「努力の量じゃなくて、精度の話をしてる」
「結果が出なければ、やってないのと同じ」
爆谷の口が止まる。
奥歯がぎり、と鳴るのを押し殺したまま、何も言わない。
想は怒鳴らない。
机を叩かない。
だが、その視線は異様なほど冷たかった。
「君がミスするたびに、灯に辿り着く時間が、延びる」
「それが分からないなら、一緒にやる意味がない」
淡々とそう言って、資料を引き寄せる。
ペン先が紙を削る音だけが、
研究室に響き続けていた。
――あの日以来。
橘想は、人が変わったようだったらしい。
集合的無意識という、
自分が積み上げてきた研究が完成すれば、
意識を失った灯を、救えるかもしれない。
そう信じていたからこそ、
ただ研究だけを続けていたのかもな──
その後。
時間だけが、静かに積み重なっていった。
研究室の景色が、少しずつ変わっていく。
貼り替えられないまま色褪せた資料。
年季の入った機材の上に、さらに積み重ねられた論文。
壁のカレンダーは、三度、年を跨いでいた。
昼か夜かも分からないまま、灯りだけが点き続ける部屋で、橘想は一切手を止めることはなかった。
だが。
研究に伸ばし続けていた手は、
最悪の形で、止まってしまった。
──椎名灯が、亡くなった。




