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『現想 ― フィクションが現実に現れた世界 ―』  作者: 阿井 愛
第1章 現災署加入編

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第14話 兄の現実と変わる距離 ②

歪んだ街が、静寂の中で軋んでいた。


 宙に浮いた車が、重力を忘れたようにゆっくりと回転している。割れたアスファルトの隙間から、黒い霧のようなものが滲み出していた。街灯は点滅を繰り返し、看板の文字は読めない記号に変わったまま戻らない。どこかでビルの外壁が剥がれ落ち、乾いた音が遠く響いた。


 花は、うつ伏せのまま動けなかった。


 視線だけが、ゆっくりと動く。


 実の手へと、視線が吸い寄せられた。


 あざができている指に握られて、金色の縄のようなものが、伸びている。それは花の腰に巻き付き、今もまだ解けずに絡まっていた。


「なんなの、それ……」


 花の声は、掠れていた。


「え、ああ、これは、その……」


 実が口を開いた。目が泳ぐ。言葉を探すように視線をしどろもどろさせ、口を開けたまま止まった。


 その時、実の奥から足音が響いた。


「実、そっちはあらかた終わったか?」


 駆け寄ってくる青年がいた。背が高く、鋭い目をしている。息が乱れていないのに、どこか消耗した様子だった。


 実が振り返る。


「あ、はい。避難誘導できたと思います。一箇所に集めただけですけど」


 実は少し頭をかいてから、続けた。


「狩野さん、能力使えてるんですか?」


「いや、微妙だな」


 狩野と呼ばれた青年は、腕を組んだまま答えた。


「時間が安定してねえらしい。中途半端に使えては消えてを繰り返してる」


「特徴からして、亜空間って感じですかね……」


 実は歪んだ街並みを一瞥してから、静かに言った。


「現想領域の対処ってどうすれば?」


「ああ、領域の中のどっかにコアがあるらしい」


 狩野は淡々と続ける。


「それを破壊すれば、元の空間に戻るらしいが、ぶっちゃけ俺も経験はねえ」


「……とりあえず探しだすしかないですね」


 実の声が、僅かに沈んだ。


 花は地面にしゃがみ込んだまま、二人の会話を見ていた。唇を閉じ、眉を寄せたまま、困惑と不安が入り混じった表情で視線だけを動かしている。

 自分の腰にまだ巻き付いている金色の縄を、無意識に手で触れた。


「俺の能力が微妙な以上、正直お前が対処するしかねえな」


「はい、わかってます」


 実が静かに答えた瞬間。


「ま、まってっ!!」


 花が声を上げた。


 狩野と実の視線が、同時に花へと向く。


 花は立ち上がり、狩野を真っ直ぐに睨みつけた。唇が震える。


「あなた、お兄を何に巻き込んでるの……」


 声は低く、静かな怒りを帯びていた。


「お兄に何させようとしてるのっ!!」


 叫びながら、一歩踏み出す。膝が微かに揺れていたが、目だけは逸らさなかった。


「……あ?」


 その様子を見て狩野がポカーンと口を開いていた。


「ちょ、花っ」


 実が慌てた声を上げる。


「え、なに。妹?」


 狩野は呆れたように実を見る。


「あ、すみません。そうです……」


 実は一瞬狩野に頭を下げてから、花へと視線を戻した。


「花、違うんだ、その、これが僕のバイトで──」


「なんなのそれ、訳わかんないっ」


 花の声を震えた。


「その力はなにっ? 領域ってなんなの?なんでそんなバイトしてるのっ!!」


 叫びが、歪んだ街に響いた。涙が出そうなのを堪えるように、花は唇を強く噛んだ。


「いや、それは……」


 実が何か言いかけて、狩野の方を見る。


 狩野は少し間を置いてから、肩をすくめた。


「……まあ身内になら、話してもいいんじゃね」


 無責任な口調でそう告げた。


「ありがとうございます……」


 実は小さく呟いてから、花へと視線を戻す。


「花、あのね──」



 狩野がコアを探しに去った後、実は花を連れて歩いた。崩れた看板を避け、割れたアスファルトを迂回しながら、比較的被害の少ない路地の奥へと移動する。壁に亀裂は入っているが、上からの落下物はない。実が確認してから、花をそこに座らせた。


 実は立ったまま、話を続けた。


「──みたいな感じで……」


 説明が終わる。


 花は俯いたまま、何も言わない。複雑な表情が、顔の上で固まっている。膝の上に置いた手が、微かに握られていた。


「……ごめん、今まで黙ってて」


 実の声が、静かに落ちてくる。


「能力のことも、バイトのことも……」


 花は顔を上げなかった。ただ、横目だけが動く。


 視線の先の街。


 宙に浮いたままの車が、ゆっくりと壁へと吸い寄せられ、めり込んでいく。アスファルトの割れ目から黒い霧が濃くなり、街灯の光を飲み込んでいく。遠くで建物の一角が、内側から押し潰されるように歪んでいた。人の声はもう聞こえない。


 二人は、何も言わなかった。


 静寂だけが、二人の間にあった。


「コアらしきもん、見つけたぞ」


 狩野が路地の奥から戻ってきた。息は乱れていない。だが、目だけが僅かに険しかった。


「あとはお前ん仕事だ。コアは自分の存在を守る為に抵抗してくるはずだ。気をつけろよ」


 実が振り向き表情が、切り替わる。


「わかりました。今すぐ向かいます」


 静かな、真面目な声だった。


 実は花へと視線を戻した。花と目線を合わせるように、膝を折って身体をかがめる。


「ここで、待っててね」


 そう微笑むと、花から背を向けた。狩野の隣へと歩いていく。


「まって」


 花は実の背中へ言葉を打った。


 ゆっくりと立ち上がる。そのまま真っ直ぐ、狩野を睨みつけた。


「お兄にそんなこと押し付けないで」


「……え、俺?」


 狩野の口がまた、ポカーンと開いた。


「お兄はっ」


 花は歯を食いしばった。


「呆れるくらい、退屈なくらい平凡で、ありきたりで」


 声が震える。それでも、目は逸らさなかった。


「普通の人間なのっ」


 花の視線が、街の奥へと向いた。


 電柱が不自然に折りたたまれている。その隙間に、誰かの指が挟まっている。電柱の継ぎ目から滴る液体が、地面に広がりながら緑や青へと変色していた。


「そんなお兄を戦わせるの?あれと戦わせるの?」


 花の声が、裂けた。


「そんなのおかしいよっ!!」


 叫んだ後、言葉が続かなかった。


「……おかしいよっ」


 涙と言葉が、地面へと落ちた。


 俯いた視線の先で、実の小指が目に入る。


 関節が、おかしな方向に曲がっている。

 爪の付け根が痛々しく紫に変色している。


 気づいていないみたいに、まるでそれが普通みたいに、実は何も言わない。

 痛みを顔に出さないまま、ただそこに立っていた。


 花は、実と、目を合わす。


 実の奥で、ビルがゆっくりと萎んでいく。空のペットボトルを握り潰すように、鉄とガラスの塊が内側から曲がり、形を失っていた。


「ねえ、お兄っ」


 声が震える。水が頬を伝う感触。


「戦わなくていいから……」


 実の背後で、ビルの輪郭が歪み続けているのが見える。


 鉄骨が軋む音が聞こえる。ガラスが内側から押し潰され、砕けた破片が音もなく落下。建物の形が、少しずつ、少しずつ、あってはいけない方向へと曲がっていた。


「お兄が戦う必要なんてないからっ!!」


 叫んだ瞬間、涙が飛んだ。


 喉が痛い。声が割れる。それでも止まらなかった。止められなかった。


 花の視界がぼやける。涙で歪んだ世界の中で、実の姿だけがはっきりと見えていた。普通の制服を着た、普通の兄が、この壊れた街を背に立っていた。


 少しの間。


 静寂が広がった。


 自分の荒い息だけが、鮮明に聞こえてくる。吸って、吐いて、また吸って。

 それだけが、この壊れた街の中で確かに鳴り続けていた。


 しばらくしてから、実がゆっくりと口を開く。


「……ごめん」


 花は顔を上げた。


 涙で歪んだ視界の中で、実の顔だけが映る。申し訳なさそうで、それでいて柔らかい。怖さも、焦りも顔に出さずに。ただ、花の瞳を見つめてた。


「心配してくれてありがとね」


 実がゆっくりと近づいてくる。

 花の頭に、手が乗る。

 そのまま、静かに擦り始めた。


「死んじゃうよっ……おかしいよっおかしいもんっ……!!」


 唇を強く噛む。滲んだ血の味。涙が止まらない。


「うん。そうだよね……」


 実はそばで、ゆっくりと擦り続けた。


 遠くで何かが崩れる音がする。街が軋む。アスファルトの割れ目から黒い霧が濃くなり、街灯の光を飲み込んでいく。


「……でも、もう分かっちゃったんだ」


 実の声が、静かに落ちた。


 頭から暖かい感触が離れていく。


 唇を噛んだまま、顔を上げる。


 実はもう前を向いていた。


「お兄……?」


 制服の、普通の背中だけが視界に映る。


「……死にたくないって想いより、したくないことがあるってことも」


 実の背が、一歩離れた。


「……僕が、普通じゃないってことも」


 狩野が、察したように奥へと走り出した。


 実の背がそれを追うように駆けていく。制服の裾が揺れ、すぐに歪んだ街の奥へと消えていく。


「おにいっ!!」


 叫んだ声が、壊れた街に溶けた。

 

 霧散して、どこにも届かない。


 伸ばした手の先には、何もなかった。


 小さくなっていく兄の背中。


 遠い。


 どこまでも、遠く感じた。


◇ 


 それから数時間。


 花はその場で独りで蹲る。


 身体がピクリとも動かない。


 長く静かな間の中で、

 兄の言葉だけが、

 なんども、

 なんども脳裏に響いてた。


 それだけで、

 嫌というほど、理解してしまった。


 壊れた街の静寂の中。


 ふいに、空気が変わった。


 粘っこかった熱が、すっと引いていく。


 点滅していた街灯が、静かに安定した光を取り戻す。宙に浮いていた車が、音もなく地面へと降りた。割れたアスファルトが、見えない手に埋められるように元の形へと戻っていく。黒い霧が薄れ、灰色だった空に、夕暮れの橙がゆっくりと滲み出した。


 街が、戻っていく。


 花は蹲ったまま、それを見ていた。


 遠くに人影が映る。


 歪んだ街の奥から、こちらへと歩いてくる。


 見覚えのある、制服の背丈が、足を引きつって。



 翌日。


 現災署署長室のドアが開き、花は俯いたまま、廊下へと出た。


「花」


 声の方へゆっくり顔を上げる。


 廊下の壁に背を預けて、実が立っていた。腕に白い包帯が巻かれている。花の姿を見つけると、軽く手を振った。


「護さんから、説明聞いた?」


「……大体わかった」


 ボソッと呟きながら、視線が実の腕へと落ちる。


 包帯の端から、関節の部分が覗いている。痛々しく、青紫に変色した皮膚が。


「お兄は普通じゃないってことも、わかった……」


「……そっか」


 実が静かに頷いた。視線を少し落とし、包帯を巻いた腕を反対の手でそっと押さえる。


 廊下に、静寂が落ちた。


「……ねえ、お兄」


 花は実の目を見つめた。


「やっぱり、私は嫌」


「……うん」


 実の声が、僅かに沈んだ。


「……お兄が死んじゃったら、嫌」


 言葉は静かだった。飾りも、怒りも、もうなかった。ただ、そのままの言葉が、花の口から零れ落ちた。


 実の目が、少し大きくなった。


 花はその目から逸らさなかった。


「死にそうになったら、ちゃんと逃げてよ」


「……うん、わかったっ」


 実が微笑み頷いた。


 二人でエレベーターに乗る。


 ドアがゆっくりと閉まっていく。


 いつも通りの静かな二人。


 並んだ二つの肩には、少し距離ができている。


 いつもより、あいだができている。


 でもなぜか、

 いつもより、兄を近くに感じていた。

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