第13話 妹の理想と歪む街 ①
この回は2話完結のエピソードです。
五月の午後の光が、武蔵第二中学校の教室に斜めに差し込んでいた。
黒板の前では教師が何かを喋り続けているが、声は遠い。窓際の席で、田中花は腕の中に顔を埋めたまま動かなかった。制服の袖が頬に当たり、その感触だけがぼんやりと伝わってくる。
「花〜、最近機嫌悪くない?」
隣の席から声がした。振り返ると、クラスメイトが首を傾げてこちらを見ている。
花はゆっくりと顔を上げた。
「……別に」
低く、感情の乗らない声だった。
「あ、わかった」
クラスメイトがにやにやと口元を緩める。
「お兄さんがバイト始めて構ってくれないから拗ねてんだ」
「違う」
即答だった。睨みつける目に、クラスメイトがわずかに身を引く。
「もー、素直になればいいのに」
肩をすくめ、立ち上がりながら言い捨てた。
「バイト代でシューズ買ってきてくれるなんて、そんなお兄さん普通いないよ」
笑いながら、別の輪の方へと去っていく。
花は答えなかった。
ただそっぽを向き、窓の外へ視線を逃がす。空は薄く白んでいた。校庭では、別のクラスが体育の授業をしている。遠く、誰かの声が風に混じって聞こえてくる。
──あの子は、なんにもわかってない。
お兄は普通なの。
呆れるぐらい普通で、
退屈なくらい普通で、
ありきたりで、平凡で、
安心できる、お兄なんだから──
◇
――一年前。
体育館に、乾いた破裂音が響いた。
花の右手がボールを叩いた瞬間、鋭い軌道がコートを切り裂く。相手チームのレシーバーが反応しきれず、ボールは床に叩きつけられた。
「ナイスっ、花!!」
「また決めた……」
ネット越しにどよめきが広がる。花は着地して、軽く息を整えた。特別なことは何もしていない。ただ、見えたコースに打ち込んだだけだ。
「田中さん凄い……」
「バレー始めて半年なんでしょ?天才じゃん」
隣でバレー部の同期がざわついている。花はその方へ無表情に顔を向けた。
「……別に普通でしょ、このくらい」
◇
「あんたさあ」
更衣室を出たところで、三年の先輩が腕を組んで立っていた。背が高く、髪を高く結んでいる。目が細い。
「最近ちょっといい気になってない?レギュラーになったからって」
花は先輩の顔を真っ直ぐ見た。
「……別に」
「別にじゃないでしょ。一年のくせに」
「試合で使えるかどうかで決まるんじゃないんですか、レギュラーって」
先輩の眉がぴくりと動いた。花は視線を外さない。数秒の沈黙の後、先輩は舌打ちして廊下を去った。
花はその背中を見送ってから、静かに息を吐いた。
◇
「花、バレー上手いらしいね!! 同じクラスの子のお姉ちゃんが褒めてたよ」
夕飯の後、兄──実がリビングに飛び込んできた。
「で?」
花はテレビから目を離さなかった。
「え、えーっと……ごめん、なんか嬉しくって」
「そ」
実は少し口ごもってから、また笑った。
「花って本当に凄いんだね」
花は立ち上がった。何も言わずにリビングを出て、階段へと向かう。
「お兄はなんの才能もないもんね」
振り返らずに、それだけ言った。
──才能のない人間は、勝手に自分と比べる。
嫉妬して悪態をついてきて、
何も考えずバカみたいに持ち上げて。
気持ち悪い。気味悪い。
お兄だって一緒だ。
何の才能もない。
退屈なくらい、呆れるくらい普通。
私はそんなお兄をずっと軽蔑して生きてきた。
あの日までは──
◇
試合当日の朝、花はシューズバッグの中を二度、三度と確認した。
ない。
昨日確かにここに入れたはずのシューズが、どこにもなかった。
花はもう一度、バッグの底まで手を突っ込んだ。指先が布地を擦る感触だけが返ってくる。周りのロッカーを開けて確認した。床を見た。隣のバッグを覗いた。
どこにもなかった。
更衣室の喧騒が、遠くなった気がした。着替えながら笑い合う声、シューズの紐を結ぶ音、誰かが床を蹴る乾いた響き。全部が、薄い膜の向こうで鳴っているように聞こえた。
花は立ち上がり、何も言わなかった。
◇
顧問に事情を話すと、体育館用のシューズを貸してくれた。
──サイズが大きかった。
花は試合前のアップをしながら、踏み込むたびにかかとが浮く感覚を確かめた。おかしい、と思った。でもどうにもならなかった。
紐をきつく結んでも、足とシューズの間にわずかな遊びが残る。たったそれだけのことが、こんなにも気持ち悪いとは思っていなかった。
コートに入る直前、視線を感じた。
振り返ると、三年の先輩が腕を組んでこちらを見ていた。目が合うと、ゆっくりと視線を外される。
花は前を向いた。
◇
第一セット、序盤。
花はいつも通り助走に入った。踏み切りの瞬間、右足がわずかにずれる。たったそれだけで、身体の軸がぶれた。
振り抜いた手がボールの芯を外す。
甲高い音とともに、ボールはアウトラインの外へ飛んだ。
「アウト!!」
審判の声が体育館に響く。
花は着地して、自分の右足を一瞬見た。何も言わなかった。
次のローテーション。
トスが上がる。今度は踏み切りを修正しようとして、逆にタイミングがずれた。ブロックに当たり、ボールが弾かれる。
「ドンマイ、ドンマイ」
同期の声が飛んでくる。花は頷かなかった。
サーブ。構えた瞬間、シューズの中で足が泳ぐ感覚がある。トスを上げ、踏み込む。力が逃げて、ネットにかかった。
「田中、落ち着いて」
コーチの声がした。
落ち着いている。
花は奥歯を噛んだ。焦っていない。乱れてもいない。ただシューズが、合わない。それだけのことなのに、何も言えない。言えば言い訳になると、わかっていたから。
第二セット。
花は自分がミスをするたびに、コートの端に視線を落とした。ベンチに座る三年の先輩が何かを耳打ちしているのが視界の端に映る。クスクスと目を細めて笑ってた。
試合が終わった時、スコアボードを見なかった。
◇
体育館裏の壁に、花は背中を預けて座り込む。
借り物のシューズを脱いで、膝の上に置いている。汗で湿った靴下の感触が、妙に生々しく伝わっていた。
遠くから、部員たちの声が聞こえてくる。
「田中ってさ、結局あんなもんじゃん」
「天才天才って言われてたけどね」
「まあ、やっぱり一年だよね」
「……」
花は膝を抱えた。
反論する言葉はあった。
シューズがなかった、サイズが合わなかった。そう言えばよかった。
でも言葉は喉の手前で止まったまま、出てこない。
言い訳をしている自分が、一番嫌いだった。
瞼の奥が熱くなる。
泣くつもりはなかった。ただ、目の奥が痛い。鼻の奥がつんとする。こんなことで泣くのかと、自分に呆れる。呆れれば呆れるほど、なぜか余計に視界が滲んだ。
◇
玄関のドアを開けた瞬間、リビングからテレビの音が漏れてきた。
花は靴を脱ぎ、そのまま廊下を歩いた。自分の部屋に直行するつもりだった。
「おかえり」
リビングの方から声がした。
実だった。ソファに寝転がりながら、テレビを眺めている。花の方をちらりと見た。
その目が、一瞬だけ止まった。
「……ただいま」
花は足を止めずに廊下を進んだ。
自分の部屋のドアを閉め、鞄を床に投げる。そのままベッドに倒れ込んだ。枕に顔を押し付け、目を閉じる。
静かだった。
天井の染みを数えるような静けさの中で、さっきの声が耳の奥で鳴り続ける。
――田中ってさ、結局あんなもんじゃん。
花は枕を強く、それでいて弱々しく掴んだ。
その時、
コンとドアがノックされた。
「花、大丈夫?」
実の声が奥から聞こえてくる。
「……別に」
「……そっか」
短い返事があって、廊下が静かになった。
花は枕から顔を上げなかった。ドアの向こうの気配が消えるのを待つ。
でも、いつまで経っても消えてくれない。
「……なに」
思わず声が出る。
「えっと……」
実の声は続かない。でも、気配はその場から動かず、根を張るように、ただそこに留まっていた。
「……」
花はドアを開けた。
実が廊下の壁にもたれて、床に座り込んでいる。
顔を上げて花と目が合うと、ただ小さく微笑んだ。気まずそうでも、困ったふうでもない。最初からそのつもりでいた、というような顔で。
花はしばらく実を見下ろして、それから、隣に座り込んだ。
何も言わなかった。実も黙っていた。ただ並んで、廊下の壁を眺める。
リビングからテレビの音だけが遠くに聞こえていた。
どれくらいそうしていたか、わからない。
気が付いた時には、花の目からぼろぼろと涙が落ちてた。声は出なかった。嗚咽もなかった。ただ涙だけが、止まらなかった。
実は何も言わなかった。
ただそこにいる。
ただ、いつまでも隣にいた。
──シューズを隠されて、実力が出せなくて、それでも言い訳ひとつできなくて。
悔しくて、情けなくて、
泣いていた私の背中を、
何も聞かずに、擦ってくれた。
ただ、そばにいてくれた。
退屈なくらい、呆れるくらい普通で、
ありきたりで平凡な、
私のお兄の手は、
馬鹿みたいに暖かかった──
◇
現在。
夕暮れが、商店街の屋根をオレンジに染めていた。
人通りの多い歩道を、花は鞄を肩にかけたまま歩いていた。制服のリボンが風に揺れる。行き交う人々の声が、遠くに聞こえていた。
(……テスト期間で部活もないし)
足が自然と遅くなる。
(……お兄もバイトで家にいない)
花は立ち止まる。アスファルトの継ぎ目を眺めたまま、しばらく動かなかった。
(……寄り道でも、しようかな)
顔を上げようとした、
その瞬間。
突如世界から光が、消えた。
「え」
夕暮れの橙が一瞬で掻き消え、空が濁った灰色に変わる。太陽が見えない。影もない。街灯だけが不自然な白さで点灯し、周囲の輪郭を平べったく照らしていた。
空気が変わった。生温かく、どこか冷たく、それでいて粘っこい。肺に入るたびに、違和感がある。
商店街の看板が、読めない文字で塗り替わっている。道の形はそのままなのに、奥行きがおかしい。遠くにあるはずのビルが歪んで見え、地面の模様が微妙にずれている。空に浮かぶ雲は動かない。鳥の声もしない。
「なにこれ……」
花はすぐに鞄からスマホを取り出した。画面を点ける。
時刻の表示。
82:1058。
指先が止まった。
もう一度見た。
82:1058。
血の気が引いていく。
スマホを握ったまま、踵を返す。来た道を戻ろうとした。
走り出した。
おかしい。
走れば走るほど、道の先が遠ざかっていく。商店街の出口が見えているのに、近づかない。足は確かに地面を蹴っている。景色は流れている。
なのに、出口との距離が縮まらない。むしろ、じわじわと遠くなっていく。
「なに、なんなのこれっ……」
声が震えた。足を止めると、膝がわずかに揺れる。呼吸が浅くなっていた。
恐る恐る、振り返る。
次の瞬間、低い唸りのような音が地面から響いた。
視界の奥でアスファルトにひびが走る。ひびは蜘蛛の巣状に広がり、地面が波打つように隆起した。
悲鳴が上がった。
「なに、なにっ——」
「足がっ、足がはまってっ……!!」
割れた地面に足を取られた男性が、膝をついたまま立ち上がれずにいる。
頭上で金属の軋む音がした。
見上げると、街灯が根元からゆっくりと折れ曲がっていく。
「逃げてっ!!」
誰かの叫びと同時に、街灯が歩道へと倒れ込んだ。轟音が響き、アスファルトに火花が散る。
さらに遠くで、ビルの外壁が歪み始めていた。窓ガラスが次々と割れ、破片が雨のように降り注ぐ。
「やだっ、やだやだっ……!!」
女性が頭を抱えてしゃがみ込む。子どもが泣きながら走り出すが、隆起した地面につまずいて転んだ。
花はその場に立ち尽くしていた。
スマホを握る指先が白くなる。唇が小さく開いたまま、閉じられない。息を吸っているのか吐いているのか、わからなかった。
足元のアスファルトにひびが走るのが見えても、足が動かない。ただ、悲鳴と崩落音だけが、四方から重なって耳に刺さっていた。
「っ!!」
花は歯を食いしばり、足を動かした。
一歩。
二歩。
アスファルトの割れ目を飛び越え、崩れた街灯を避けながら走る。
出口が見えた。
近づいている。
そう思った瞬間。
視界が反転する。
気づいた時には、さっきいた場所に戻っていた。
「っ——」
声にならなかった。また走る。今度は別の方向へ。路地へ飛び込もうとした瞬間、空間ごと押し返されるように身体が弾かれる。景色が点滅した。商店街が、暗転して、また現れる。建物の輪郭が溶けるように歪み、道の角度がおかしくなる。まっすぐ走っているのに、気づけば同じ場所を回っていた。
それでも、花は走り続けた。
「はあっ……はぁっ……!!」
息が切れる。喉が焼ける。涙が出ているのか、視界がぼやけているのか、もうわからなかった。歯を食いしばり、腕を振り、ただ前へ。どこでもいい、ここじゃないどこかへ。
その時。
ふっと、足元から感触が消えた。
「え」
花は下を見た。
地面が、なかった。
足の下にあったはずのアスファルトが消え、そこにはどこまでも続く暗い穴があった。
底が見えない。光も届かない。ただ、果てのない暗闇だけが広がっていた。
そのまま重力が、花の身体を引いた。
「いやああああっ!!」
叫び声が、暗闇に吸い込まれていく。
身体が落ちる。引き込まれる。足先から、膝から、腰から、闇に溶けていくような感覚が這い上がってくる。冷たい。暗い。底がない。
その刹那。
腰に、何かが巻きついた。
金色の縄のようななにか。
花の身体にきつく絡みつき、強引に上へと引き上げる。
重力に逆らうように、ぐん、と身体が持ち上がった。
「いっ──」
穴の縁に、叩きつけられるようにして倒れ込む。
うつ伏せのまま、アスファルトの感触が頬に当たった。冷たい。硬い。それだけで、ここに地面があることがわかった。
「大丈夫ですか!?」
声が上から降ってきた。
花はゆっくりと顔を上げる。
「え」
目が合う。花の、そして、相手の目が点になった。
「お兄……!?」
「え、花っ!?」
歪んだ道路。宙に浮く車。割れたアスファルト。点滅する街灯。崩れかけたビル。
異質な街の真ん中で、
普通の兄と見つめ合う。




