29. 覚え書きの開帳
ルートガー様が、正装で現れた。
北の関所への赴任である。冬装具の実地調べという名目の通いが終わり、この方は今日から本物の任地へ発つ。門前に立った若者は初めて来た日と同じように直立不動で、けれど背丈は同じでも、中身がすっかり変わっている。
「閣下。奥方様。……本日をもって、出立いたします」
「うむ」
「持ってまいりますのは、峠の地図の写しと、それから――靴の乾かし方であります」
旦那様が、深く頷いた。
「よい。写しは棚で待たせておけ。峠まで付いてくるのは、口のほうだ」
「はっ」
若鷲は、いまは五羽になっている。椅子は三脚が五脚に増え、書斎はとうに手狭で、講義は先月から食堂で開かれているのだ。その最初の一羽が、今日、飛んでいく。
私は、若者に包みをひとつ渡した。中身は塩豚と、乾いた靴下を三足。
「奥方様。これは?」
「燕麦は司令部持ちですけれど。靴下は、家政の管轄ですの」
若者の口元が、ほんの少しだけ崩れる。
秋の雨の日、この方は左腕に黒い布を巻いて、口上を忘れて門に立っていた。同期の名を、最後まで言えずに飲み込んだ人である。その同じ人が、いま乾いた靴下を三足抱えて、自分の隊を持ちに行く。
「――ご健勝で」
若者は来た日よりずっと深い礼をして、坂を下っていった。
見送ったあと、私は胸が妙な具合に空いているのに気がつく。教える人の家に嫁ぐと、こういう空き方をするものらしい。……三年、私は誰かを送り出す側に立ったことがない。送り出すというのは、こんなに手持ち無沙汰なものなのか。
◇
その夜、私は書斎へ家政帳を持っていった。
「あら。お邪魔でして?」
「いや。……珍しいな。帳面を持ってくるとは」
「ええ。旦那様に、お目にかけたいものがございますの」
私は卓に帳面を置き、後ろのほうの頁を開く。
家政帳というものは、前から使うと、後ろが白いまま残る。この家の帳面はきれいなもので、直すところがない。それで私は嫁いで六週目に、余白へ豆の収穫の見込みを書き込んだのである。……始まりは、そのすぐ下だ。
「これは?」
「わたくしの、覚え書きですの」
彼が、灯を引き寄せた。
日付はない。番号も振っていない。ただ一行ずつ、順番も気にせずに並んでいる。書いた日の字の乱れだけが、それぞれの日の私の慌てぶりを残している。
「甘い物に、目がない」
私は、上から読み上げる。
「膝は、王都の天文台より当たる。雷の夜は、ご自分より先に馬を案じる。屋根の話で、腹の底からお笑いになる。褒められると、薪に当たる。困ると、庭へいらっしゃる」
「…………」
「教える声が、いい。矢の雨の日、盾の外へ三度お出になる。断りの文を三度書きかけて、三度ともおやめになる。……苗木の札は、三度ご覧になったそうですわ」
彼が、咳払いをひとつする。耳が、灯の色より赤い。
「……ずいぶん、書いてあるな」
「ええ。歌より長うございますのよ」
彼の指が、途中の一行で止まった。
「これは、何の日だ?」
「王都からの、帰りの馬車ですわ。……お膝に手を置きましたら、耳が赤くおなりになりましたの」
「…………覚えておらん」
「よろしいのですわ。わたくしが、覚えておりますもの」
私は、それを彼のほうへ向けた。
「わたくしの帳面には、歌より長い旦那様がおりますの。千人は退けていらっしゃいませんけれど、その代わりうちの旦那様は、菓子鉢を人のほうへ押して寄越しますわ」
「……盛られておるな」
「一枚も盛っておりませんわ」
私は、きっぱりと申し上げる。
「答え合わせ済みですもの」
◇
彼はしばらく、頁を繰っていた。
大きな指が、紙の端を一枚ずつ、たいそう不器用に送っていく。三十年、歌に書かれ続けてきた人が、生まれて初めて、盛られていない自分の伝記を読んでいるのである。
私は茶を淹れながら、その背中を見ている。
一年、私はこれを胸に隠して独り占めしてきた。歌にならない一枚が出てくるたび、ここは私の畑だ、誰にも渡さないと決めて、暗い廊下でこっそり並べていたのである。それを今夜、当の本人に開いて見せている。……不思議なもので、惜しくない。惜しくないどころか、こうして読まれているところを見ているほうが、よほど良い。
独り占めというものは、渡した相手が本人であれば、減らないものらしい。
秋に、私は詩人へたった一枚だけ渡した。あのときは惜しくて惜しくて、渡した晩に胸の内をこっそり覗いたほどである。……今夜は、覗くまでもない。
やがて、指が止まる。最後の頁は、白い。
「……ここから、ないな」
「これからの分ですの」
彼が、顔を上げた。
「一年で、これだけ書けましたのよ。十年もいたしましたら、この帳面では足りませんわ。……次のは、もっと厚いものにいたします」
旦那様は、白い頁を長いこと見ていらした。
灯の芯が一度、ぱちりと鳴る。それから、この人はこう仰ったのである。
「……書き溜めよ」
「はい」
「わしも、盛らずに生きねばならんな」
私は、返事の代わりに深く頷く。
三十年、この人は歌に盛られ続けてきた。盛られるたび、身の置き所をなくして庭へ行く人である。その人がいま、自分から「盛られないほうの伝記」に付き合うと言っている。……砦の石が落ちた音を、私は今夜も、数えないことにする。
◇
頁を閉じるとき、彼がふと尋ねた。
「時に。明日は、何の日であったか?」
「あら。お忘れでして?」
「……忘れてはおらん。あなたの口から聞きたいだけだ」
まあ、と私は思う。この人は一年で、ずいぶん器用になった。
「明日で、一年ですわ。……わたくしが、この庭で旦那様を庭師と間違えてから」
「……あれは、忘れられん」
「ええ。わたくしも、生涯忘れませんわ」




