28. 胡桃の若木
荷馬車が門をくぐってきたのは、五日後の朝である。
積んであるのは、藁で根を巻いた細い木が一本きり。丈は私の背より少し高いくらいで、枝は頼りなく、葉はまだ数えるほどしか出ていない。荷台から下ろされると、幹は従士長の腕の中でずいぶん軽そうに揺れた。
私は、それを見上げて立ち尽くす。
「……従士長。これは?」
「胡桃でございます」
「どなたが?」
「閣下が、ご自分でお決めになりました」
老従士は、たいそう嬉しそうに背筋を伸ばした。
「町の苗木屋で、三度、札をご覧になったそうでございます。一度目は通り過ぎ、二度目は値だけお尋ねになり、三度目にお決めになったと。……補記でございます」
三度、である。
断りの文を三度書きかけてやめた人が、今度は苗木の札を三度見に行った。この人の「三度」は、どうやら生涯の癖であるらしい。
私は、藁の匂いのする細い幹に手を触れる。
実がなるのは、植えてから十年ののちだという。十年後。あと十年もすれば、と数えて自分の先を短く見積もってきた人が、その十年を、庭に植えるほうへ使うことにしたのだ。
言葉で言われたわけではない。使いに出す口上ひとつ、私は聞いていない。
……それでも、この木のほうがよほど雄弁である。
◇
植える日に、私はイルムガルト様をお招きした。
命日ではない。ただの、春の午後である。
「特別な日でもないのに呼びつけるなんて、あなた、いい度胸ね」
馬車から降りるなり、姉君はそう仰った。口の悪さは秋のままで、けれど手には花の束を持っていらっしゃる。菜園の花では足りないでしょう、とだけ仰って、私に押しつけた。
穴は、旦那様と従士長で掘る。菜園の畝の隣、東屋から見える場所である。掘り返された土は黒く湿っていて、鍬が入るたび、雨上がりの匂いが立つ。
「あの子の畝は、動かさないでちょうだい」
「動かしませんわ。隣ですの」
「……隣」
イルムガルト様が、しばらく黙る。
薬草の畝と、若木の穴。十年、素人の手で枯らさずに守られてきた庭の隣に、今日から十年かけて育つものが立つ。過去と未来が、同じ土に並んで植わったのである。
「……あの子、うるさいわよ。木の陰で薄荷が育たないって、絶対に言うわ」
「では、そのときは薄荷のほうを東側へ、お移しいたしますわ」
「あなた、本当にあの子と気が合うわね」
◇
土を戻し、根元を踏み固め、それから東屋で茶にする。
湯呑は、四つである。
私と、旦那様と、イルムガルト様と、それから日焼けの薄い三つ目の湯呑。ヘートヴィヒは何も言わずに四つ並べて、何も言わずに下がっていった。
「……命日でなくても、よろしいのですのね?」
「あの子は茶会が好きよ。日付なんて、見やしないわ」
姉君は湯呑のひとつに指を触れて、それきり、その話をなさらない。代わりに、若木のほうを長いこと見ていらっしゃる。妹の庭に新しい木が立つのを、この方は今日、笑いもせず、止めもせずに見ていた。
旦那様が、土のついた手を膝で拭って、ぽつりと仰る。
「苗木屋が申すには、胡桃は……植えてから十度目の秋に、初めて実るそうだ」
「まあ。ずいぶん気の長い果物ですこと」
「うむ」
彼は若木を見ている。細い幹の、頼りない先のほうを。
「実がなる頃、わしは六十三か」
――出た。
寿命の勘定である。あと十年もすれば、が消えた代わりに、今日はこういう形で顔を出したものらしい。
けれど私は、もう慌てない。
この人は今日、その勘定の先に木を一本植えたのである。数えるのをやめられない人が、数えた先の秋に届くものを、自分の手で土に埋めた。ならばこちらの返し方も、決まっている。
私は湯呑を置いて、指を三本折ってみせた。
「わたくしは三十三ですわ。……で?」
「…………」
「で?」
「…………いや。で、とは何だ?」
「勘定のお続きを、伺っておりますの」
私は、若木のほうを指す。
「六十三のあなたさまと、三十三のわたくしが、この木の下で胡桃を割っておりますのよ。割った端から、ヘートヴィヒが焼き菓子にいたしますわ。従士長は、殻を集めて焚きつけになさいますでしょうね。……それだけの話でございましょう?」
彼は、長いこと黙っていた。
風が若木の葉を鳴らして、菜園の薄荷の匂いを運んでくる。イルムガルト様が扇の陰で、たいそう意地の悪い顔をしていらっしゃるのが、横目に見えた。日射しが東屋の床に、格子の影を落としている。
やがて、旦那様が笑う。
声を立てて、腹の底から、目尻に三十年分の皺を寄せて。十年の先を数えて笑う顔を、私はこの一年、一度も見たことがなかった。
「……それだけの話か」
「ええ。それだけの話ですわ」
◇
彼は湯呑を持ち上げ、東屋の柱を見上げた。
「……十年後は、この東屋も葺き替えねばならんな。屋根が保たん」
私は、茶を吹き出しそうになる。
十年後の屋根の話である。この人が自分から十年先を口にしたのは、たぶん、生まれて初めてなのだ。しかも出てきたのが屋根なのだから、この夫婦はどうやら、最初から最後まで屋根で出来ているらしい。
「ええ。そのときは、見積もりを四軒お取りいたしますわ」
「……四軒?」
「弟の教えですの」
◇
夕方、若木に最初の水をやる。
私が桶を持ち、彼が柄杓を使う。根元の土が黒く色を変え、藁の匂いが濃く立つ。細い枝の先で、若い葉が二枚、風に揺れている。日が落ちかけて、菜園の畝の影が、若木の影とちょうど同じ長さに伸びていた。
顔を上げると、菜園の向こうで従士長が、たいそうわざとらしく空を仰いでいる。
「……従士長。雨ですの?」
「いいえ。……本日は、快晴でございます」
空模様のほうは、補記の要らない日であるらしい。
「あさっては、ルートガー様がお発ちになります。……こちらが、補記でございます」




