↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
27/30

27. 利の完済

 王都からの使いが門をくぐったのは、麦の穂が出そろった昼下がりである。


 勅使のような房も供もない。埃だらけの外套を着た書記官がひとり、馬から降りて、口上をひとつ置いていった。


「オスターフェルト男爵家の家督相続、評定を経て、裁可されましてございます」


 それだけである。


 手続きの控えは後日、実家へ届くという。私は「ご苦労さまでございます」と申し上げて、水と麦の粥を出させ、書記官は半刻もせずに次の用向きへ発っていく。


 門が閉まる音を聞きながら、私はしばらく、そこに立っていた。


 ……済んだ。


 一年前、私がこの家へ来た理由が、たったいま、締まったのである。


       ◇


 家の中は、たいそう賑やかになった。


 ヘートヴィヒが「これは祝いの膳で!」と竈へ走り、従士長が私の前に来て、折り目正しく一礼する。


「奥様。おめでとうございます。……補記でございます」


「あら。何かしら?」


「閣下は先ほど、書斎で二度、同じところをお歩きになりました」


 補記が、妙な形をしている。


 言われて、気がついた。祝いの膳の騒ぎにも、旦那様は出てこない。庭にもいらっしゃらない。困った人がどこへ行くかは、嫁いでこのかたでだいたい分かっているつもりだったのに、今日はどうも、当たらないのである。


 旦那様は、夕餉の席にはいらした。


 いらしたけれど、口数が少ない。祝いの膳の鶏をたいそう丁寧に切り分けて、私の皿へ良いところを取り分けて、それきりである。


 私は、伺わなかった。


 支払いの期限は、こちらが決めるものではない。秋からこのかた、私はこの人の沈黙を待つのが、いくらか得手になっている。……ただ今夜の沈黙には、これまでと違う匂いがした。重いのではない。冷たいのでもない。手放す支度をしている人の匂いである。


       ◇


 暖炉の前で彼が口を開いたのは、薪が三度爆ぜたあとだった。


「ジルヴィア」


「はい」


「……もう、利は済んだ」


 来た、と思う。


「弟御の相続は裁可された。後見の判は、もう働いておる。……あなたがこの家へ来た理由は、今日、なくなったのだ」


 彼は火を見たまま言う。声はいつもの低さで、少しも震えていない。三十年、退き際を間違えたことのない人の声である。


「実家へ戻られてよい。あなたはまだ二十三だ。……ここからの人生の帳尻は、まだ十分に合う」


       ◇


 私は、湯呑を置いた。


 膝の上で手を重ね、それから、立ち上がる。


 三年、私は帳場で怒ったことがない。怒れば損をするからである。値切りにも嫌味にも、私は笑って算盤を入れてきた。……その私が生まれて初めて、自分が本気で怒っているのを知る。


 だから私は、この家に嫁いでから一番深い礼をした。


「――旦那様」


「うむ」


「わたくしの居心地を、勝手に精算なさらないでくださいませ」


 彼が、こちらを見る。


「利で参りましたのよ。居心地で、残りますと、嫁いだ日に申し上げましたわ。あの一行、まだ生きておりますの。……勝手にお消しになってよい欄では、ございません」


「……いや、わしは」


「嫁いでこのかた、わたくしが何を集めておりましたか、ご存じないとは仰いませんわね? 歌を剥がして、下から出てきたものを、わたくしはひとつも捨てておりません。あれを全部置いて出ていけと、そう仰いますの?」


 声が、大きくならない。


 大きくなる代わりに、低く、細くなっていく。自分の声がこういう音を出すのを、私は知らずにきた。膝の裏が、細かく震えている。


「……帳簿を読み違える方は、嫌いですの」


 パチン! と、薪が爆ぜる。


       ◇


 長い沈黙だった。


 彼は火を見て、それから両手で顔を一度こすり、ずいぶん小さな声で言ったのである。


「……済まん」


「はい」


「わしは、行かないでくれ、と言う稽古を、三十年しておらん」


 私は、息を吐いた。


 怒りが、行き場をなくしてほどけていく。……この人は、本当にそういう人なのだ。断りの口上は四度稽古してようやく形になり、人前で妻を褒めるのに半年かかった。引き留める言葉だけは、三十年、一度も稽古していない。


「では、ご一緒に稽古いたしますわ」


「……稽古?」


「ええ。わたくしも、居てくれと言われる稽古を、しておりませんの。三年、誰にも言われたことがございませんもの」


 私は暖炉のほうへ、半歩寄る。


「では、まいりますわ。……衝立と、司令部は、もう結構ですわね?」


「……結構だ」


 彼は膝に手を置いて、背筋を伸ばした。三十年、部下に退けと命じてきた人が、たった一言のために息を整えている。火の影が、白髪交じりの肩の上で一度、大きく揺れた。


「……行かないでくれ」


 一度で、言えたのである。


「はい。承りましたわ」


 私は、深く頷いた。承りました、以外の言葉を、私はどうしても思いつけない。帳場育ちの女は、こういうときにも受領の返事しか出てこないものらしい。……けれどこの受領だけは、生涯、取り消さないつもりでいる。


       ◇


 その夜、彼はもうひとつだけ寄越した。


「冬に、言うたな。庭の男として扱われたのは三十年ぶりだと」


「はい。伺いましたわ」


「……あれには、続きがある」


 火が、彼の頬の皺を照らしている。


「あの日、あなたは伝説を怖がらなんだ。……わしはあの時にはもう、負けておった」


 私はしばらく、返事ができない。


 ――まあ。


 不敗侯である。三十年、一度も負けたことがない人である。その人が庭で鍬を持ったまま、豆の支柱を指さされた瞬間に落城していたというのだ。しかも本人は、それを一年かけて、二度に分けて白状した。


「……旦那様。それは、ずいぶんな大敗ですわね」


「うむ。……不敗の名が、廃る」


「ご案じなさいませんように。歌には、いたしませんわ」


「……頼む」


       ◇


 休む前、廊下で従士長の声がした。


「閣下。明日は町へ使いに出ますが、御用は?」


「……ある」


「はい」


「苗木屋だ」


「かしこまりました。品目は?」


 少しの間があって、それから旦那様は、たいそう歯切れの悪い声で仰ったのである。


「……まだ、決めておらん」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。