27. 利の完済
王都からの使いが門をくぐったのは、麦の穂が出そろった昼下がりである。
勅使のような房も供もない。埃だらけの外套を着た書記官がひとり、馬から降りて、口上をひとつ置いていった。
「オスターフェルト男爵家の家督相続、評定を経て、裁可されましてございます」
それだけである。
手続きの控えは後日、実家へ届くという。私は「ご苦労さまでございます」と申し上げて、水と麦の粥を出させ、書記官は半刻もせずに次の用向きへ発っていく。
門が閉まる音を聞きながら、私はしばらく、そこに立っていた。
……済んだ。
一年前、私がこの家へ来た理由が、たったいま、締まったのである。
◇
家の中は、たいそう賑やかになった。
ヘートヴィヒが「これは祝いの膳で!」と竈へ走り、従士長が私の前に来て、折り目正しく一礼する。
「奥様。おめでとうございます。……補記でございます」
「あら。何かしら?」
「閣下は先ほど、書斎で二度、同じところをお歩きになりました」
補記が、妙な形をしている。
言われて、気がついた。祝いの膳の騒ぎにも、旦那様は出てこない。庭にもいらっしゃらない。困った人がどこへ行くかは、嫁いでこのかたでだいたい分かっているつもりだったのに、今日はどうも、当たらないのである。
旦那様は、夕餉の席にはいらした。
いらしたけれど、口数が少ない。祝いの膳の鶏をたいそう丁寧に切り分けて、私の皿へ良いところを取り分けて、それきりである。
私は、伺わなかった。
支払いの期限は、こちらが決めるものではない。秋からこのかた、私はこの人の沈黙を待つのが、いくらか得手になっている。……ただ今夜の沈黙には、これまでと違う匂いがした。重いのではない。冷たいのでもない。手放す支度をしている人の匂いである。
◇
暖炉の前で彼が口を開いたのは、薪が三度爆ぜたあとだった。
「ジルヴィア」
「はい」
「……もう、利は済んだ」
来た、と思う。
「弟御の相続は裁可された。後見の判は、もう働いておる。……あなたがこの家へ来た理由は、今日、なくなったのだ」
彼は火を見たまま言う。声はいつもの低さで、少しも震えていない。三十年、退き際を間違えたことのない人の声である。
「実家へ戻られてよい。あなたはまだ二十三だ。……ここからの人生の帳尻は、まだ十分に合う」
◇
私は、湯呑を置いた。
膝の上で手を重ね、それから、立ち上がる。
三年、私は帳場で怒ったことがない。怒れば損をするからである。値切りにも嫌味にも、私は笑って算盤を入れてきた。……その私が生まれて初めて、自分が本気で怒っているのを知る。
だから私は、この家に嫁いでから一番深い礼をした。
「――旦那様」
「うむ」
「わたくしの居心地を、勝手に精算なさらないでくださいませ」
彼が、こちらを見る。
「利で参りましたのよ。居心地で、残りますと、嫁いだ日に申し上げましたわ。あの一行、まだ生きておりますの。……勝手にお消しになってよい欄では、ございません」
「……いや、わしは」
「嫁いでこのかた、わたくしが何を集めておりましたか、ご存じないとは仰いませんわね? 歌を剥がして、下から出てきたものを、わたくしはひとつも捨てておりません。あれを全部置いて出ていけと、そう仰いますの?」
声が、大きくならない。
大きくなる代わりに、低く、細くなっていく。自分の声がこういう音を出すのを、私は知らずにきた。膝の裏が、細かく震えている。
「……帳簿を読み違える方は、嫌いですの」
パチン! と、薪が爆ぜる。
◇
長い沈黙だった。
彼は火を見て、それから両手で顔を一度こすり、ずいぶん小さな声で言ったのである。
「……済まん」
「はい」
「わしは、行かないでくれ、と言う稽古を、三十年しておらん」
私は、息を吐いた。
怒りが、行き場をなくしてほどけていく。……この人は、本当にそういう人なのだ。断りの口上は四度稽古してようやく形になり、人前で妻を褒めるのに半年かかった。引き留める言葉だけは、三十年、一度も稽古していない。
「では、ご一緒に稽古いたしますわ」
「……稽古?」
「ええ。わたくしも、居てくれと言われる稽古を、しておりませんの。三年、誰にも言われたことがございませんもの」
私は暖炉のほうへ、半歩寄る。
「では、まいりますわ。……衝立と、司令部は、もう結構ですわね?」
「……結構だ」
彼は膝に手を置いて、背筋を伸ばした。三十年、部下に退けと命じてきた人が、たった一言のために息を整えている。火の影が、白髪交じりの肩の上で一度、大きく揺れた。
「……行かないでくれ」
一度で、言えたのである。
「はい。承りましたわ」
私は、深く頷いた。承りました、以外の言葉を、私はどうしても思いつけない。帳場育ちの女は、こういうときにも受領の返事しか出てこないものらしい。……けれどこの受領だけは、生涯、取り消さないつもりでいる。
◇
その夜、彼はもうひとつだけ寄越した。
「冬に、言うたな。庭の男として扱われたのは三十年ぶりだと」
「はい。伺いましたわ」
「……あれには、続きがある」
火が、彼の頬の皺を照らしている。
「あの日、あなたは伝説を怖がらなんだ。……わしはあの時にはもう、負けておった」
私はしばらく、返事ができない。
――まあ。
不敗侯である。三十年、一度も負けたことがない人である。その人が庭で鍬を持ったまま、豆の支柱を指さされた瞬間に落城していたというのだ。しかも本人は、それを一年かけて、二度に分けて白状した。
「……旦那様。それは、ずいぶんな大敗ですわね」
「うむ。……不敗の名が、廃る」
「ご案じなさいませんように。歌には、いたしませんわ」
「……頼む」
◇
休む前、廊下で従士長の声がした。
「閣下。明日は町へ使いに出ますが、御用は?」
「……ある」
「はい」
「苗木屋だ」
「かしこまりました。品目は?」
少しの間があって、それから旦那様は、たいそう歯切れの悪い声で仰ったのである。
「……まだ、決めておらん」




