26. 父の答え合わせ
馬車で丸一日、南へ下る。
窓の外が、山裾の黒い土からなだらかな麦畑へ移り変わっていく。一年前、嫁ぐ日にも通った道である。一日で着いてしまう距離の向こうが、あの頃は世界の真ん中だった。
「……よろしいのですの? お忙しいのに」
向かいの席で、旦那様が首を横に振る。
「勅任の式は、夏だ。それに」
「それに?」
「……あなたの父上に、まだ挨拶をしておらん」
膝の上で、大きな手がひとつ落ち着かなげに動いた。この人は嘘がつけないので、こういう理由を平気で口にする。私は窓へ目を戻して、「そうですわね」とだけ申し上げる。それ以上は、声が妙な具合になりそうだった。
◇
実家の門は、記憶よりずいぶん小さい。
石柱に苔が乗り、蝶番の片方が沈んでいる。門前で待っていた弟は、私の目の高さを越えていた。冬に屋敷へ来たときは、まだ顎の下だったのに。
「姉上。……よく来たね」
「まあ。声まで太くおなりだこと」
ダーヴィトは十六になる。若鷲たちから移された直立不動の癖だけが、まだ抜けていないらしい。その弟が、旦那様の前で折り目正しく礼をした。
「義兄上。ようこそ、おいでくださいました」
「うむ。……世話になる」
屋敷には分家の伯父夫婦と、叔母のヴィルトルートが来ている。
「これはこれは侯爵夫人。ジルヴィアもたいそうな出世をしたものだ」
伯父の目は、値踏みの形である。三年、朝の挨拶として浴びてきた形なのに、今日は少しばかり疲れる。
旦那様は私の半歩後ろに立ったまま、何も仰らない。
その伯父が「不敗侯ともあろうお方が、こんな田舎へ」と揉み手をしたとき、半歩後ろから低い声がひとつ落ちた。
「田舎ではない。……家内が、育った土地だ」
伯父の揉み手が止まる。叔母が、こらえきれずに噴き出した。
◇
墓は、村の礼拝堂の裏にある。
春草の伸び始めた斜面に、小さな石がひとつ。歌にならない人の墓は、こんなにも小さいのだ。弟が水を替え、私は野の花を一束置いた。
三人で、並んで立つ。
風が麦畑を渡ってきて、土と草の匂いを運んでいく。四年目の春である。父が倒れたのは早春の朝で、葬儀の翌朝から、私は利息と小麦の相場を覚えた。……あの朝から今日まで、私はこの石の前でまともに立ち止まっていない。
「旦那様」
「うむ」
「……答え合わせを、いたしましょうか?」
旦那様が、こちらを見る。
「わたくしの父の歌は、どこにもございませんの。ですから、剥がすものもございませんわ。……代わりに、増量分だけ、お渡しいたします」
商才も武勇もない人だった、とは秋に申し上げている。今日お渡しするのは、その先である。
「父の代の借財の話を、覚えていらして?」
「……うむ。春に、締めたと」
「あれ、どこから出たとお思いになります?」
彼は少し考えて、首を振る。
「凶作の年ですの。父は、小作の年貢を三年待ちましたのよ」
弟が、隣で息を呑んだ。
「待てば、当家の払いが回りませんわ。ですから父は、町で借りましたの。……そうして三年、村がひとつも欠けず、借財だけが残りましたのよ」
私がそれを知ったのは、帳場に座って二年目である。父は一度も、そんな話をしない。私にも、弟にも、村の誰にも。
「……歌になりませんでしょう?」
「なる」
即答だった。
「なりますものですか? 千人も、退けておりませんのに」
「村がひとつも、欠けなんだ」
喉の奥が、鳴る。
弟が「僕、知らなかった」と呟くのが、遠くで聞こえた。私も、と言おうとして声が出ない。
「……もうひとつ、ございますの」
石のほうを見たまま、申し上げる。
「父が倒れた朝、町の店に、蜂蜜をひと壺頼んでございましたのよ。……わたくしの誕生日が、その月の終わりでしたから」
旦那様が、息を止めたのが分かる。
帳簿の隅に家族の好物を書き込む癖のある人だった。弟は杏。私は、胡桃の焼き菓子。焼き菓子には、蜂蜜が要る。
「店の親父が、葬儀のあとに持ってまいりましたの。代はもう頂いております、と。……わたくし、開けられませんでしたわ」
開けたら、帳面が濡れる。
三年、私はそう決めていた。葬儀の日も、借財を締めた日も、嫁ぐ日の朝も、私は泣かなかったのである。濡れた帳面は読めない。読めなくなったら、この家の誰も、どこへも行けない。
――後回しにしてきたものが、今日、四年ぶんまとめて出てきた。
膝が折れそうになったところへ、背中に大きな手が置かれる。
押しもしないし、抱きもしない。ただ、置かれている。掌の熱が染みてきて、私は生まれて初めて、声を上げて泣いた。
◇
顔を上げると、旦那様は弟のほうへ向き直っている。それから十六の少年に向かって、深く頭を下げたのである。
「ダーヴィト。……あなたの父上の話を、もっと聞かせてくれ」
弟が、慌てて背筋を伸ばす。
「は、はい! えっと……父上は、字が下手でした」
「うむ」
「あと、算盤が姉上より遅くて、いつも叱られてました」
「……よい。それも聞く」
私は目を押さえたまま、笑ってしまった。答え合わせの聞き手の椅子に、今日はこの人が座っている。私が一年かけてやってきたことを、この人は一度で、私より上手にやってのけたのだ。
◇
帰る朝、弟が門まで送りに出た。
「姉上。うちの帳場、僕がやってるよ。小作の勘定も、自分でつけてる」
「まあ。間違えていらっしゃらない?」
「二度、間違えた。二度とも、村の爺さんが教えてくれた」
正直なところが、父に似ている。
「屋根も、職人を頼んだ。春のうちに直るって」
「見積もりは、何軒お取りになって?」
「四軒」
私は思わず旦那様を見る。たいそう真面目な顔で頷いていらした。
「……よい弟御だ」
「ええ。よく育ちましたわ。わたくしの手柄ですのよ」
弟が、布に包んだ重いものを馬車へ運んでくる。
「姉上。あれ、まだ棚にあったよ」
――蜂蜜の壺である。四年ぶんの重さが思ったよりずっと軽いのが、また少しだけ可笑しい。
◇
帰り道、村の外れの苗木屋の前で、馬車が徐行する。
窓の外に、藁で根を巻いた若木が何本も立てかけてある。杏、林檎、それから札の掠れた細いのが数本。
旦那様の目が、その札を追っている。
馬車が通り過ぎるまで、この人はずっとそちらを見ていた。見ていて、何も仰らない。
私も、何も伺わなかった。
問えば答える人である。答えてしまえば、それで済んでしまう。……この人が自分から言い出すのを待つのが、嫁いでこのかた、私はずいぶん上手になっているのだ。




