25. 新しい歌
早春の坂を、竪琴が上ってきた。
ラインマルである。秋よりも上着が良くなっている。商売が、うまくいっているらしい。
「奥方様。……できましてございます」
応接間ではなく、庭にする。
東屋の前に椅子を出し、旦那様と私と、それから台所仕事を放り出してきたヘートヴィヒと、廊下で立ったまま聞いている従士長。菜園の隅にはまだ雪が残り、そのわきで薬草の芽が二寸ばかり出ている。空気は冷たいのに、日射しだけが妙に暖かい日だった。
弦が、鳴る。
――古鷲、若鷲を放つ。
――老いたる鷲、巣を出でず。
――若き翼に道を説く。荷は腰で負え、靴は火より離して乾かせ、と。
――雪の年、若鷲三羽が尾根を越え、二十一人を連れ帰る。
――古鷲、空を見上げて、何も言わず――。
節は、前の歌ほど景気がよくない。繰り返しも少なく、酒場の手拍子には向かないだろう。代わりに、聞いていると胸のあたりが妙にあたたかくなる。ヘートヴィヒが前掛けの端で目を押さえたのが、横目に見えた。従士長は、廊下で微動だにしない。あの背中は、たぶん聞き入っているときの背中である。
歌い終わって、詩人が竪琴を伏せる。
私はしばらく黙って、それから正直に申し上げた。
「……あの、詩人さま」
「はい」
「盛りが、少なくございませんこと?」
「はい。ほとんど盛っておりません」
あまりに堂々と言うので、私は返す言葉を探してしまった。
「事実のほうが売れる歌は、三十年に一度でございます。……こういう歌は、盛ると安くなりますので。それに奥方様、この歌は酒場では当たりません。当たりますのは関所と、学校と、それから――息子を北へやる家のほうでございます」
なるほど、この方は歌の売り先まで数えている。歌い手というのは、思っていたよりずっと帳場に近い商売らしい。
商売人の判断である。
私は旦那様のほうを向いて、それから生まれて初めて、答え合わせに失敗した。
「旦那様。この歌は、いかほど目減りいたしますの?」
「……ほとんど、せんな」
「まあ」
「強いて言えば、若鷲は三羽ではない。いまは、五羽だ」
増えている。剥がすどころか、足すほうである。
差額が、出ないのだ。
三十年、剥がすたびに下から良いものが出てきた。剥がす楽しみは、私の生きがいのようなものだったのである。それが今日は、剥がすところがない。
「……もう一度、伺いますわ。どこか、盛っておいでのところは?」
「ございません」
「本当に?」
「奥方様。わたくしは商売人でございます。……盛れるものなら、盛っております」
これほど清々しく商売人を名乗られては、疑いようがない。私は湯呑を置いて、正直に申し上げた。
「……答え合わせの、しがいがございませんわ」
「済まんな。今後は、精進して盛られよう」
旦那様が真顔でそう仰るので、私は吹き出してしまった。ヘートヴィヒが笑い、従士長が咳払いをして、詩人が「これは歌になりますな」と呟く。
「なりません」
私は、きっぱり申し上げた。
「これは、うちの分ですの」
◇
……けれど、と私は思う。
目減りしない歌ができた、ということは。
これから北の峠へ行く若い方は、この歌のとおりにやってよい、ということである。歌のとおりにやって、死なずに済む、ということである。
三十年、歌は人を殺すことがあった。今年から、歌は人を生かすほうへ使える。
剥がす仕事が要らない歌が、この世にひとつできたのである。私の楽しみはひとつ減って、その代わりに、峠へ入る誰かの手元へ、荷の目方がひとつ届く。……悪い取引ではない。むしろ、笑ってしまうくらい割がいい。
差額がゼロというのは、そういうことだ。
喪章をつけて雨の中を来た若者の、名を言えずに飲み込んだ口の形を、私はまだ覚えている。あの飲み込み方をする人が、来年は一人減るかもしれない。減らないかもしれない。それでも、去年までは減る見込みすらなかったのである。
……しがいがないのは、少しばかり寂しゅうございますけれど。それくらいは、我慢いたしますわ。
◇
詩人を見送ったあと、私はひとつ、気がついた。
いつからだろう。
「わしのことはよい」を、しばらく聞いていない。
最後に聞いたのは、王都へ発つ前の朝である。庭で麦茶を飲みながら、あなたを見世物の隣に立たせることになる、と仰ったあたり。あれ以来この人は、自分の分を後ろへ置かなくなっている。茶がうまいと自慢し、家内の案を自分の案とし、あなたの辞令でもあると言い、そして今日は、若鷲は五羽だと訂正なさった。
落ちた石を数えるのは、やめておく。数えたら、この人が気づいてしまう。気づいたら、たぶん、また積み直す。
だから私は黙って、笑っておくことにした。
落城の検分は、しない。この砦の主は、崩れているのを人に指摘されると、たぶん恥ずかしがって石を拾いに行く方である。拾いに行かせるくらいなら、私が黙って崩れたままにしておく。
なお、当の旦那様はといえば。
新しい歌を最後まで、一度も嫌そうな顔をせずに聞いていた。それどころか二番の途中で、指が膝の上で拍子を取っていたのである。ご本人は、気づいていない。
――これは、しっかり預からせていただく。
歌にならない一枚が、今日もひとつ増えた。増えたぶん、私の側の帳は重くなる。重くなるのは、たいへん結構なことである。
◇
数日後、実家から便りが届いた。
弟の字である。用件は、父の命日のこと。今年で四年目にあたるが、姉上はどうなさいますか、と。
……四年目。
私はしばらく、窓の外の雪解けを見ていた。屋根から落ちる雫が、石畳を三つ数えるごとに叩いている。実家の帳場で、桶を半歩ずらしながら聞いた音と、よく似た間隔である。
嫁いでこのかた、私はずいぶん剥がしてきた。歌を剥がし、その下から人を見つけ、独り占めし、少しだけ人へ渡している。
剥がしていないものが、ひとつだけ残っている。
商才も武勇もなく、誰にも歌われず、帳簿の隅に家族の好物を書き込んでいた人。その人の本当のところを、私はまだ、誰にもきちんと話していない。話す相手を、たぶん四年近く、探してすらいなかったのである。
……今年は、帳場のほうを少し後回しにしても、罰は当たりませんでしょう。




